新撰 淡海木間攫

其の五十二 70年前の学習机の引き出し

滋賀県平和祈念館学芸員 北村美香

70年前の学習机の引き出し
 この学習机の引き出しは、持ち主が引き出しを閉めてから、時間が止まっています。中には時計や鉛筆などの、いろいろな物が入っています。
 持ち主の髙橋亮一さんは、大正11年(1922)に東浅井郡湯田村(現在の長浜市)で生まれました。幼いときに父を亡くし、父親の顔を知らずに育った亮一さんは、虎姫中学(現在の虎姫高校)に進みますが、昭和13年(1938)4月の卒業まであと1年の4年生を修了した16歳の時、海軍航空隊に志願し、入隊します。
 軍隊での生活はそれまでとはまったく違い、一人前の飛行兵となるべく、厳しい訓練の日々でした。昭和15年、飛行練習生偵察員として航空母艦「蒼龍」に乗り込んだ亮一さんは、実戦を想定したより厳しい訓練を、繰り返しするようになりました。そのような厳しい生活の中でも、母親思いの亮一さんは、母の政栄さんに多くの手紙を出し続けました。
 昭和16年(1941)12月8日、まさに太平洋戦争開戦の日、亮一さんは戦死されました。ハワイ真珠湾攻撃に艦上爆撃機に乗って出撃、激しい攻防の中、敵の攻撃を受け被弾し、敵の戦艦に突っ込んだのでした。真珠湾攻撃の戦果とともに同時に亡くなった亮一さんは世間から軍神扱いされ、政栄さんは「軍神の母」としてもてはやされました。しかし、戦後亮一さんを軍神扱いしていた世間の対応がまったく変わり、今度は戦犯扱いをされるようになりました。亮一さんに対する態度の変わりように、それ以降政栄さんは亮一さんのことについては心を閉ざしてしまいました。平成15年に101歳の長寿を全うされるまで、家族の間でもほとんど亮一さんのことを語られることはなかったそうです。
 いつの時代も、息子を亡くした母の悲しみは想像を絶するものがあります。亮一さんを亡くされた政栄さんの心にも大きな傷を残しました。その傷を癒すものが亮一さんの形見の品々だったのかも知れません。(一人息子だった亮一さんを亡くした、母の政栄さんの悲しみは大変大きなものでした。)亮一さんが亡くなられたあとも、辞世の句の掛け軸や写真はいつまでも部屋に飾られ、学生時代の成績表や学用品などは当時のまま残されていました。政栄さんの心の中には亮一さんの所縁の品々とともに亮一さんが生き続けていたようです。
 戦後70年近く経ち、戦争の記憶が薄れ行く中で、語ることはなくても、政栄さんの中で生き続けた亮一さんの姿が、この引き出しにはあったのだといえないでしょうか。

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