新撰 淡海木間攫

新撰淡海木間攫 其の八十 信楽海鼠釉火鉢

 甲賀市信楽伝統産業会館 館長 奥田琢也
信楽海鼠釉火鉢
 日本六古窯の一つである信楽焼は可塑性に秀でた信楽の土を生かしての大物陶器づくりを得意としており、その一つである火鉢は江戸時代後半から生産が始まりましたが、当時は他産地製品に圧されて販路は思うように伸びなかったようです。そのような中、それまで中国から輸入された火鉢などに美しく揃った白萩釉の斑点が紺色の釉薬に散りばめられた「志那海鼠」と呼ばれた釉薬に注目しました。すでに国内の各産地では、この海鼠釉を発色させる研究に取り組んでいましたが、失敗の連続であったようです。
 信楽でも明治の初めから、この釉薬の開発に取り組み、試行錯誤を重ねた結果、明治20年(1887)ごろにほぼ完成しました。また、大正9年(1920)には石膏型による機械ロクロ成型法が生み出され、正確にそろった形の量産が可能になります。同時にエアーコンプレッサーを使った吹き付けによる海鼠釉の施釉方法も考案され、白萩釉の斑点が美しい火鉢は信楽の主製品として国内外に市場を拡大していきました。
 そして、戦争の時代を経て、昭和20年(1945)からは戦後復興の波に乗って信楽の火鉢が飛ぶように売れ、好景気に沸きました。世の中が安定し始めた昭和20年代中ごろから石油ストーブが普及しはじめると、次第に火鉢の需要は減り、昭和30年代からは観葉植物の普及もあって、信楽焼の主産品は火鉢から主に海鼠釉を施した植木鉢へと移りました。
 余談ですが、私は、昭和32年(1957)に小さな焼屋の子として生まれました。当時はもう火鉢の全盛期は過ぎていましたが、母親が吊り下げたタンクからゴム管を通して落ちてくる釉薬とエアーコンプレッサーを巧みに使って真っ黒になりながら火鉢や植木鉢へ海鼠釉を吹き付け、それを父親や職人さんが釉薬がこすれて落ちないように気を付けながら窯詰をしていたことを覚えています。
 また、家の客間には海鼠釉の大きな火鉢があって、鉄瓶にはいつも湯が沸き、そのかたわらで秋になれば栗を、冬になれば餅を焼いたことも遠い思い出です。

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