新撰 淡海木間攫

新撰淡海木間攫 其の八十二 鳥居を描いた薬箱

 甲賀市くすり学習館 館長 長峰 透

配置売薬で顧客の家に預けた薬箱

配置売薬で顧客の家に預けた薬箱(昭和初期)

 甲賀市くすり学習館には、鳥居を描いた薬箱が展示されています。薬箱の上蓋には、「御薬入」や「近江国甲賀郡龍池村」「木村保生堂」等と書かれたラベルが貼られ、なかでも鳥居のマークが目をひきます。
 では、なぜこの薬箱に大きく鳥居が描かれているのでしょうか。それは「保生堂」を店名としていた木村家が、もとは「教学院」と称する山伏であったことが大きく関係しています。
 木村家は、山伏が多く住んでいた甲賀市甲南町磯尾地区を本拠とし、系図では、教学院家の祖に醍醐寺三宝院派修験となった木村宗久がおり、以後代々修験職を相続したとあり、江戸時代には、多賀社にあった天台寺院、不動院に坊人として仕えていました。坊人とは多賀社のお札を配り、勧進を得るために各地の檀那場(受け持ち地域)を回った使僧のことですが、多賀社と甲賀の山伏とのつながりは深く、宝永元年(1704)の「観音院古記録」によると82名の甲賀の山伏が多賀の坊人を務めていたとあります。こうした坊人たちによる配札活動によって多賀信仰が全国に広がり、その時にお札の土産として薬も配布したと伝わります。
 ところが、明治維新により状況が一変することになります。明治3年(1870)の売薬取締規則では、神仏の御利益を語り、家伝秘法と宣伝された薬の売り方が禁止され、さらに明治5年に修験道が廃止されると、お札配りもできなくなり、甲賀の山伏たちも新たな道を模索し始めました。それが売薬だったのです。配札先がそのまま売薬の得意先となりました。木村教学院家では、多賀講の講員として布教活動をする一方で、木村保生堂という店名で丹波や丹後、但馬地方(京都府と兵庫県の北部)で配置売薬を始めるようになります。
 こうして甲賀の山伏たちは生計をたてるために売薬業に転じていくのですが、木村家にあっては、近世以来の多賀社との深い関わりから、鳥居のマークを商標とし、薬箱に貼ったものと思われます。何気ない薬箱が、甲賀売薬のルーツに関わる歴史を我々に教えてくれます。

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