2012年 3月 14日

反魂の法―金井美恵子著『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』

 例によって「滋賀県」がらみの本。1月末に出た金井美恵子の長編小説『ピース・オブ・ケーキとトゥワイス・トールド・テールズ』(新潮社)をいってみよう。
 21篇のそれぞれタイトルをもつ連作短編から成っているのだが、全体を通したあらすじをいうのが難しい。
 昭和20年代後半、突然父が失踪し、母と小学校へあがる前の「私」は、海に面した城下町のはずれで洋裁店を営む伯母・祖母の家に引っ越して暮らすようになる。
 その後(たぶん昭和50年代)、小説家になった「私」の元に、父と暮らしていた女から彼の死を知らせる手紙が届く。この手紙と父を奪った女に関する記憶が、「私」自身が逢い引きを重ねていた人妻との日々と別れ際に彼女が残した手紙の記憶と交錯する。両者の接点となる「私」の小説集に収められている一篇を、「私」は再読し……。
 1回読んだだけでは上記のあらすじが把握できないぐらい、母・伯母・祖母が語る、伯母のロマンス(その後、独身のまま他界)、近所の噂話、読んだ小説や観た映画などの物語と断片的な場面の描写が無数に差しはさまれており、ひと言でいえば「古今東西メロドラマづくし」。
                                                     
 挿入されるメロドラマの一つが、祖母が幼い「私」に語り聞かせた近松門左衛門の浄瑠璃作品「傾城反魂香(けいせいはんごんこう)」
 同じく近松の浄瑠璃「大経師昔暦(だいきょうじむかしごよみ)」を下敷きにした映画『近松物語』〔監督:溝口健二。小説の中では出てこないが、入水するために、堅田の浮御堂のそばから漕ぎ出した小舟の上で、おさん(香川京子)がタスキで両足を縛ってもらっている最中に「とうから、あなたをお慕い申しておりました」と茂兵衛(長谷川一夫)に告白され、「お前の今のひと言で死ねんようになった」と心変わりする琵琶湖が舞台の名シーンがある〕を見にいき、不義密通のかどで捕えられた茂兵衛とおさんが人だかりの中を刑場へ向かうラストシーンでは、母・伯母とともにむせび泣いた祖母だったが、「こっちの話し(『傾城反魂香』)のほうが有名ではないけれどケレンがあって面白い」という感想をもらす。
                                                     
 主人公は実在の絵師、狩野四郎二郎元信。彼がやはり著名な絵師である土佐将監光信(『石山寺縁起絵巻』第四巻の作者)の女婿になったという伝承に、近江国六角家の御家騒動、大津絵師・又平の出世話などを加えて仕立てた時代物。大津絵を全国的に有名にした作品として、弊社の『大津絵こう話』(片桐修三編著)でもかなりページを割いて紹介されている。
 題名にある「傾城(けいせい)」とは遊女の別名で、天皇の怒りを買って閑居の身となった父・土佐光信のために遊女となった娘・遠山をさす。六角頼賢の命を受けて越前の名松を描きにきていた狩野元信と出会った遠山は、昨晩の天神のお告げにより元信に秘伝の筆法を教え、結婚の約束を交わす。
「反魂香(はんごんこう)」とは、死者の魂をこの世に呼びかえす香。漢の武帝が愛妃李夫人を失い、反魂香を焚くとその面影が現れたという故事にちなむ。
 遠山(のちに「みや」と改名)は、狩野元信との婚儀が整っていた六角家の姫・銀杏(いちょう)の前の許しを得て、つかの間夫婦として過ごすが、じつは急な病ですでに亡くなっており、反魂香の力で元信らの前に姿を現していたことがわかる……というのが、題名を説明するために思い切り端折ったストーリー。
                                                     
 祖母は子供向けの「猛虎現ずるの段」しか語らなかったので、ずっと続きが気になっていた「私」は、「古い本棚から近松の浄瑠璃集を取り出し」、そのページを開く。
 茶の間に寝そべって読んでいたその本を私が閉じると、母が、「食器棚によりかかって煙草を吸い、襖の開いている隣の部屋の仏壇の前の白い布の掛けられたお骨を置いた台の上でまたたいている二本のローソクの燃える匂いと伽羅香の入った線香の匂いが混りあい、薄暗い部屋の中に細い煙がゆっくりとうず巻く曲線をもやのようにくずしながら移動」する光景(祖母の葬儀の後)の中で、「あたしが死んだら、本当にあんた一人きりになっちゃうねぇ」とつぶやいた(のを「私」は思い出す)。
                                                     
 ここを読むと、『傾城反魂香』という作品は、まったくオカルト的ではない意味で、「反魂」としての「書くこと」という、この連作を貫く主題の一つから選択されたものだとわかる。反魂で現れた死者には必ず「常ならざるところがある」のは、正確な再現ではけっしてない人の記憶と言葉による記述にもあてはまることだ。
 ……というふうにもまとめられるが、こういう深刻ぶった感慨だけを読み取ればいいという小説でもない。
                                                     
 『傾城反魂香』で、狩野元信をめぐる遠山の恋のライバルにあたる六角家の姫・銀杏(いちょう)の前は、初登場シーンから腰元の一人に扮して元信をまんまと騙す。物語のラストでも、そのキャラクターを遺憾なく発揮。「かもじ入れずの二ツ櫛、鴨の羽なりの蓮葉袖」の遊女姿で皆の前に現れ、「なう父様母様今帰ったわいな」とあいさつ。土佐光信夫婦の娘・遠山として狩野元信に嫁入りするという離れ業を演じる。めでたしめでたし。まさかのハッピーエンド。
                                                     
 死んじまったものは仕方ない。素知らぬ顔で誰かが代わりを務めてしまえばよい。
 こっちの「よみがえり方」のほうが、金井美恵子的だもの。
                                                     
 なんにしても、知恵と人情とエロと経済力(持参金は「田上郡七百町」の領地。現在の大津市南部)を兼ね備えた銀杏の前。無敵。
 ただし、「近江の国の大名六角左京太夫頼賢(よりかた)」の「高島の館」に住まう姫という設定で、父「頼賢」からして、六角義賢と高島(朽木)頼綱を合成したのであろう、架空の人物。他でその姿を拝めないのが惜しい。

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