2009年 4月 17日

合羽所「住田屋」さまに出会う

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2009年 4月 17日
合羽所「住田屋」さまに出会う

サンライズの社屋の裏には旧中山道が通り、正面には現在はヴォーリズ建築の住居になっているのが旧本陣。

この宿場の名物は、現在に歴史を伝える赤玉神教丸がもっとも有名。この名物を製造する有川家住宅は昨年彦根市指定文化財になり名実ともに鳥居本名物である。

そしてかつて、この宿場で多く作られ販売されたのが「合羽」である。我が家の先祖さまは、何代かにわたって合羽の製造販売を行い、当時の看板がその歴史を伝える

長男であった父が、昭和5年に謄写印刷をはじめたので、その後は、祖母と伯母が花合羽を作っていたことを聞いているが、私はその製造過程はまったく知らない。
先年「鳥居本の歴史」本の制作に当たって、聞き取りしたことぐらいの知識しかなかったのであるが、このとき最大の協力者が、住田屋の角田稔さんであった。「長浜みーな」で角田さまの消息を知り、その後懇切丁寧な合羽製造記を頂戴した。これがあったからこそ鳥居本合羽について記述することが出来たのである。
その後、ご無沙汰していたが、先日、上京の機会に、初めてお出会いした。

科学者の角田さんは、より正確な数値などの詳細を求めて、さらに深く調査を進めることをご提案いただいた。そして、四方山話とも入れる戦前の製造現場のお話をお聞きできた。
20軒近くの製造販売所があったが、同業組合の組織が強固で、仕入れや売価などについての統制が行われていたようであるが、販路や製法に関しては、各家独自の手法で工夫が重ねられてきたようだ。こうしたことが鳥居本合羽の名声を高めたのであろう。
合羽製造の起源については諸説あるが、次第に分家が進み20軒になったらしいが、一部大規模な合羽所は県外で活躍されたようだが、いづれもが小規模で、戦後には2,3軒程度が残ったという。
住田屋さんも角田さんの母上が、昭和30年近くまで花合羽などを製造されていたという。渋づくりや天日干しは重労働だったらしく、家内労働が強いられたことだろう。

当家には、今でいうビニールシートのような大きな包装資材を作っていたようだが、そのときの型紙が相当数存在するので、これらをなにかの形で保管できないかと思い、さらには鳥居本宿のかつての名物の痕跡をものこせたらと考えている。
ようやく緒に就いたばかりではあるが、名声を博し、旅人び重宝がられた合羽に再び日の目が見られることを願っているのだが、角田さまとの出会いでよけいにその思いが募ってきたのであった。ありがとうございました。

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