新撰 淡海木間攫

新撰淡海木間攫 其の八十三 姉川合戦翌年の浅井長政書状

 長浜城歴史博物館 学芸員 福井智英

浅井長政書状 阿閉甲斐守宛

浅井長政書状 阿閉甲斐守宛 元亀2年(1571)5月5日 1幅(長浜城歴史博物館蔵)

 今から450年前の元亀元年(1570)6月28日、北近江の姉川で浅井長政・朝倉景健(朝倉義景の一族)連合軍と織田信長・徳川家康連合軍が戦いました。いわゆる「姉川合戦」です。早朝に始まったとされるこの戦いは、一般的には徳川軍の活躍により、織田・徳川連合軍の勝利に終わったといわれています。しかし、実際には浅井・朝倉勢力にとって致命的な敗戦とはならず、時に信長を窮地に追い詰めながら、およそ3年間、両者の戦いは続きました。
 さて、私たちが何気なく呼んでいる「姉川合戦」という呼称は、当時の浅井家や朝倉家でも使われていたのでしょうか。その疑問に答えてくれるのが、長浜城歴史博物館所蔵の「浅井長政書状 阿閉甲斐守宛」です。この書状は、姉川合戦の翌年(元亀2年)に長政が、家臣の阿閉甲斐守に宛てた感状(戦功のあった者に対し、主家や上官が与える文書)で、合戦において子息と家臣が討ち死にしたことを悼み、信長との戦いが終息したあかつきには恩賞を与え、阿閉家の跡目を取り立てるよう伝えたものです。
 長政は、書状の中で「去る年(元亀元年)六月二十八日、辰鼻表合戦に於いて」と記しています。「辰(龍)ヶ鼻」は、織田信長が最初に本陣を置いた場所で姉川に突出した丘陵先端に位置します。そして長政は、辰ヶ鼻の北西にある野村(長浜市野村町)に本陣を置きました。おそらく長政は、姉川での戦いを敵軍が布陣していた辰ヶ鼻周辺で行われた戦いと認識しており、家臣にもこの呼び名が知られていたのでしょう。また、長政の重臣・磯野員昌の書状には、浅井軍が布陣した地名をとって「野村合戦」と記されています。これらのことから、浅井家中では「辰鼻表合戦」、または「野村合戦」と呼んでいたと考えられています。
 そもそも「姉川合戦」は、江戸時代になってから徳川方の記録の中で使われていた呼称で、家康が最終的な勝者となり、徳川の天下となったため、世に広く「姉川合戦」が使われるようになりました。その背景には、家康や徳川家をことさらに神聖化・絶対化する徳川中心史観が大きく影響しているのでしょう。なお、朝倉家では、江戸時代前期の歴史書『武家事紀』の記述から「三田村合戦」(朝倉軍が布陣した場所)と呼んでいたとされます。

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