新撰 淡海木間攫

新撰淡海木間攫 其の八十六 四季大津写生図巻のうち粟津別保付近・膳所眺望・雪に積む膳所

 大津市歴史博物館 学芸員 横谷賢一郎

四季大津写生図巻のうち粟津別保付近・膳所眺望・雪に積む膳所

 小林翠渓(1902〜55)は膳所の画家。出身は舞鶴ですが尋常高等小学校を卒業した大正7年(1918)、浜大津付近で米屋を営んでいた叔父の紹介で当時の膳所町へ移り山元春挙に入門、画塾「早苗会」の塾員となりました。当時の春挙は44歳。文部省美術展覧会鑑査員、京都市立絵画専門学校教授、イタリア万博・サンフランシスコ臨時万博鑑査員、そして翠渓入門の前年には帝室技芸員を拝命し、押しも押されもせぬ京都画壇の重鎮でした。
 当然ながら、春挙に入門する者たちは、すでに文展入選の実績をひっさげた実力者や、京都絵専卒業生など高等教育を修了した画学生など、いずれも腕に覚えのある画家たちでした。翠渓のように特に学画経験もなく16歳で入門するケースは、幕末明治初期の前時代的な徒弟制のような入門で、当時でもかなり異色と言えるでしょう。実際、他の塾員と異なり、彼は、第1期工事が竣工して間もない膳所中庄の春挙別邸「蘆花浅水荘」での住み込みであったようです。
 逆にそのことで、常に春挙の動向を間近で見聞できたためか、写生画法の達人であった春挙の技術を、京都市立美術工芸学校や京都絵専出身の門人たち以上に吸収することになりました。ちなみに、春挙の写生はすべて毛筆によるもので、毛筆をまるでドローイングのごとく運筆できる点が、春挙や早苗会塾員の特技でした。彼らはこの毛筆ドローイングをそのまま本画(完成作品)にも応用しており、あえて緑青などの彩色を薄く施したまま、下地のドローイング線描をみせて、葉繁み、草原、しぶき、などを表現しています。つまり水彩画と同様の効果を、水墨の毛筆で表現しているわけです。もっとも、早苗会塾員がすべてこの写生画法を存分に使いこなせたわけではなく、鉛筆で写生を済ますこともあったことは、古参門人である西井敬岳も語っています。
「先生の鉛筆のスケッチは見た事がない。いつも矢立(江戸時代の筆入れ。ここでは内蔵の毛筆)だった。矢立の写生は却々鳥渡やれぬ。難しい。然しあれでないといかぬ。」
 古参門人ですら、降参した毛筆による春挙の写生画法。それを継承した翠渓の成果が、大正10年(1921)に描かれた本作です。観光地以外では写真記録も少ない当時にあって、かつての美しき膳所の四季の情景やさえぎるもののない広い景観だった膳所を、翠渓の秀逸な写生画が我々に教えてくれます。

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