2009年 7月 31日

映画『対馬丸』のエンドロール

 [続けて二つアップしています。一つ前の「映画『窯焚 -KAMATAKI-』評」も読んでください。]

 6月23日、今年の第12回日本自費出版文化賞大賞を受賞した『シベリアに逝きし人々を刻す ─ソ連抑留中死亡者名簿─』の著者、村山常雄さんのインタビューに新潟県のご自宅にうかがった。インタビューは『自費出版年鑑2009』に掲載されている。ここでは、インタビュー記事では載せなかった「滋賀」関係の話を紹介しておこう。村山さんが地元の水産学校を出てすぐ、その給料のよさ(内地に比較して)から就職なさった満州国立水産試験場は、内陸部で主に淡水魚の養殖技術を研究する機関だったので、滋賀県の水産試験場にいた人が大勢来ていたそうだ。同僚だった人の出身地として、滋賀県の地名がいくつも村山さんの口から出てきた。
 弊社からも、第二次世界大戦を題材にした『別冊淡海文庫17 湖国に模擬原爆が落ちた日 ─滋賀の空襲を追って─』が発行された。7月16日、長浜市役所で行われた著者の水谷孝信さん(長浜市内の高校の社会科教諭)による記者発表に同行した。すでに5紙ぐらいの地方版に紹介記事が載ったが、どこも書いていない、記事に組み込みにくい少し突飛な発言をこの場で書いておくと、水谷さんは自身の立場を、手塚治虫の後を受けて『PLUTO(プルートゥ)』を描いた浦沢直樹、あるいは同作のプロデューサー長崎尚志みたいなものと語っておられた。戦中世代ではなく、戦後世代が戦争体験を語り継ぐ時代になっているということ。
 ついでに、水谷さんからさらに一回り下の世代である私が思い出すことも書いておこう。「夏」「学校の先生」「死者の名前」で連想される三題噺みたいになるが、中学の頃に長浜市の市民会館で見た映画『対馬丸 ~さようなら沖縄~』(1982年)のことである。映画館ではなく、公民館などで巡回上映が行われた、アニメーションのいわゆる教育映画である。中学2年か3年の夏休みとしか覚えていなかったが、ネットで調べてみると、制作年は1982年=昭和57年だから私は中3である。言われてみれば確かに部活を気にせず見に行ったように思う。うわぁ、27年も前だ。サブタイトルはついていたことすら覚えていなかった。
 上映があるということを教えてくれたのは、理科のY先生だったと記憶しているが、担任のクラスではなかったし、違うかもしれない。チラシか割引券をもらって、その中に「作画監督/芝山努」と印刷されていたことだけは確かだ。テレビアニメ『ど根性ガエル』とかの芝山努さん、その絵を目当てに私は見に行った。第二次世界大戦末期、沖縄から九州への疎開船「対馬丸」が米潜水艦の魚雷で沈められてしまった実話に基づくお話。アクションシーン=子供が死ぬ場面は容赦なしに恐いわけで、「さすが芝山努」な出来だった。
 のだが、この映画で一番記憶に残っているのはエンドロールだ。国民学校名(もあったように思う)と判明している死者の名前が下からダーッとあがってきて、いつまでたっても終わらないのである。もう終わるかなと思ってもまだあって、まだあって、まだあって……3回ぐらいは「うゎ、まだある」と思った。

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