2006年 5月 15日

酷く色っぽいイメージ――『母の声、川の匂い』評

 ゴールデンウィーク中に読んだ川田順造著『母の声、川の匂い―ある幼時と未生以前をめぐる断層―』(筑摩書房)について。
 江戸時代から8代続いた米屋の息子にしてアフリカをフィールドにしてきた文化人類学者の「自分史」というか、「家族」と「地域」=東京下町の歴史。
 母や姉や祖父の声にまつわる記憶の鮮烈さ、聞き書きをもとに下町言葉で再現された深川の暮らしぶりについては、多くの讃辞が寄せられることだろう。
 滋賀県民の私が書いておかなければならないのは、第3部に収録されている長編エッセイ「すみだ川」についてである。
 5、6歳の頃、「店の奥の仄暗い座敷で、三つ年上の姉が母に復習(さら)ってもらっている長唄の『賤機帯(しずはたおび)』。(中略。そこに唄われる)人さらいに拐(かどわ)かされたわが子・梅若を尋ねて物狂いした若い母親が、子の行方を知りたい一心で、隅田川の渡しの船頭にからかい半分に求められるまま、黒髪を乱して果てしなく川面に散る桜を網で掬(すく)う、酷く色っぽいイメージが、私の幼時の記憶にしみついている」著者は、一般には能の「隅田川」で有名だろうこの梅若説話の源を探ろうとする。
 梅若の命日とされる旧暦3月15日にいまも供養をおこなっている向島の木母寺にある絵巻物『梅若権現御縁起』に記されたストーリーは、能の「隅田川」とは細部が異なる。能では、子がさらわれるのは京の都だが、縁起では近江国の大津の浜なのである。
 両親が日吉宮に子授けの願をかけて生まれた梅若は、5歳で父と死別、7歳のとき比叡山の月林寺に入って修行する。12歳となった頃、同じ比叡の東門院の幼い修行僧と歌詠みで競って勝った梅若は、東門院の法師らに恨まれて寺を追われる。逃げた梅若は大津の浜に来たところで、みちのくから来ていた人買い・信夫藤太(しのぶのとうた)に会い、母のいる京の北白川に行きたいと言うが、藤太はだまして東へ下る……といった具合。
 川田さんの探索は続く。梅若説話は江戸時代初期、説教節や浄瑠璃にもなり、さまざまなバリエーションが生まれた。説教節、古浄瑠璃の例として引かれているもののストーリーは以下のとおり。
 暴力沙汰の騒動で辛うじて叡山を逃れた梅若は大津の辺りでみちのくの人商人喜藤次に会い、やはりだまされて東へ下る。「瀬田を過ぎたよこた川(現在の地図からは同定できず)のあたり」でおかしいと気づいた梅若が問うと、喜藤次は人買いだと名乗る。「気位の高い梅若は、幼きとて侮るなと刀に手をかけるが、喜藤次に組み伏せられさんざんに打擲(ちょうちゃく)された挙げ句、猿ぐつわをはませられ、歩め歩めと引っ立てられて隅田川まで来る。」
 「よこた川(現在の地図からは同定できず)」としてあるが、横田川=滋賀県内最長の川・野洲川の中流での呼び名だ。梅若たちは東海道を歩いてきて、横田川の渡し(湖南市三雲と甲賀市水口町泉の間)を渡ろうとしていたのだろう。現在、渡しがあった地点より少し西、国道1号が野洲川を越えるところにかかっている橋を「横田橋」という。
 大津で連れ去られた見目麗しき稚児が、野洲川の辺りでこっぴどく叩かれて猿ぐつわをはめられたまま歩いていく――。
 私は、こちらの方の「酷く色っぽいイメージ」が記憶にしみついてしまった。

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