2009年 4月 15日

BL彦根藩士(門外漢の近江文学史 その5)

 4月5日付毎日新聞の書評欄で三浦雅士さんが紹介していた、揖斐高(いびたかし)さんの新刊『近世文学の境界—個我と表現の変容』(岩波書店)には、江戸時代初期の漢詩人で、彦根藩士だった石井元政(もとまさ)[出家後は、同じ字で「げんせい」]のことを書いた論文が収録されています。
 揖斐さんの江戸時代の漢詩に関する本は、文化史としておもしろく読めます。ご本人も今度の本の「あとがき」でお書きになっているとおり、従来の文化史や文学史ではこぼれ落ちていたものが拾い集めてあるから。私が編集補助で関わった『12歳から学ぶ滋賀県の歴史』に載せさせてもらった大溝藩(高島市)藩士・前田梅園の漢詩も、揖斐さんの本がなければ、私のような門外漢が目にすることは永遠になかっただろうと思います。
 また、前置きが長くなりました。
 毎日新聞の書評でもかなり長い引用(現代文になおしたもの)があったとおり、元政を特徴づけるものとして揖斐さんが拾い上げてきたのは、同じ彦根藩士だった重仲という男性に宛てて書かれた長い長い恋文(長さ2m余り)です。
「かたみに分けし袖の俤(おもかげ)も、昔の空には似るべくもあらず。ひたぶるの思ひのつまなく、さめがたき床の上に、暁かけて露むすばぬ夢の浮橋も、明わたる空に絶はてぬ。いく夜もいく夜もかく明かす中に、ものにたぐふべくもあらぬ悲しび、思ひやるべし」
 「かたみに分けし袖」というのは、二人が別れの時に交換したお互いの着物と帯のことで、元政は重仲の着物を身につけて彼を思いつづける日々を江戸詰の時代に過ごしたわけです。手紙の末尾の二人の名前にはそれぞれ「布雲」「長山」という一種の号が記されていて、元政はいわゆるウケ(であるから、たぶん年少)、重仲はセメだったようです。夜明けには消えてしまう「夢の浮橋」という言葉が出てきますが、元政は『源氏物語』の研究者でもあり、松永貞徳から学んだ和歌にもかなりの才能を発揮しました。近江の文学史の上では、ちょうど北村季吟の先輩格(実際に季吟に教えたこともある)にあたります。
 歌集には、重仲と交わした和歌も収められています。
    佐和へかへりけるに    重仲
  うたかたのあはれかはらぬ契(ちぎり)哉むかしにかへる鳰(にほ)のうら波
    返し
  としへても鳰のうら波立かへり深きよるへときみをたのまん
    重仲へつかはしける
  みし夢の俤(おもかげ)まてもしほれきぬなきぬらしつる袖の枕に
 「佐和」というのは、彦根市佐和町、城下町建設の初期に町割された内町4町の一つ「佐和町」のことでしょうか。
 「江戸時代の日本では男色が一般的だった」というのは、例えば朝鮮通信使一行の一人として来日した申維翰(シンユハン)が残した紀行文『海游録』の付篇「日本聞見雑録」の中でもはっきり記されています。「(日本では14~15歳の男娼を)国君をはじめ、富豪、庶民でも、みな財をつぎこんでこれを蓄え、坐臥出入のときは必ず随わせ、耽溺(たんでき)して飽くことがない」と記し、気軽に話せる仲になっていた雨森芳洲に「あなたの国の風俗習慣は奇怪きわまる」と言ったところ、芳洲に「君はまだその楽しみを知らないからさ」と笑って返され、「彼のような人格者ですらこんなことを言うありさまだ」と書いています。
 そんなわけで、室町、安土桃山、江戸時代の日本の場合、実際がそうだったのですから、パロディの一種としてのボーイズラブはなりたたないともいえます。と同時に、男色抜きの時代小説は、現代男性作家によるある種の「妄想の産物」でしかないようです。
 元政の業績については、1997年に彦根城博物館でテーマ展「深草元政—彦根ゆかりの詩僧—」が開催され、図録も刊行されています。じつの姉が2代藩主井伊直孝の側室となり、3代藩主直澄を生んだこともあって、経済的には何も不自由はしていないようです。母が石山(大津市)生まれだったことから、幾度も石山寺を訪れており、石山の地でつくられた漢詩(五言律詩の中に近江八景が読み込まれています)も残されているそうです。これは『源氏物語』好きにも影響しているでしょう。非常に筆まめな性格があれこれの資料からうかがえます。

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