2006年 2月 1日

幻の「現代に生きる三方よし」

三方よし研究所の前身は滋賀県AKINDO委員会の実行組織であったAKINDO会議という若手経営者の組織であった。

いまから10数年前、当時の知事が、「近江商人の経営理念を滋賀県の産業おこし、まちづくりにいかそう」と設立された。
公が作る団体は、お歴々の名前を連ねた組織が作られるが、実際は事務局が事業の遂行を行い、資金の流れや決算に関する決議機関として全く形骸化していることが多い。このAKINDO委員会も設立当初はかなり熱意があり、時代も良かったこともあって、大きな予算で大きな事業の展開もあった。

しかしながら残念なことにようやく世間が近江商人の理念を見直す機運が生まれる頃には、「スクラップ&ビルド」という役所の意向が優先され、発展的解散という美名の下で終焉した。

当時、血気盛んに解散への異議を唱えた仲間とともに設立したのが、NPO法人三方よし研究所である。

行政の都合で終焉したものの、世間は近江商人の窓口として滋賀県庁に問い合わせがある。
電話交換嬢は事情が良く理解できないながらも、それでも的確に事業を引き継ぐ部署につなぐ。

ところが担当者は、おおむね3年ぐらいで転任するので、多少の引継ぎはあるものの、詳細な状況は知りえることはない。こうした状況の影響で、本日滋賀県商工観光政策課から、ある問い合わせがあった。

『現代に生きる三方よし』という書籍がほしいという問い合わせがあったのですが・・・・。

同様の内容の電話は,これまでにもなんどもあった。
この書籍のタイトル、われながら、時代を感じると自信があった書籍である。企業の社会的責任 CSRが注目される中、300年も前に「三方よし」といわれる企業の責任を感じていた近江商人の理念が今見直されているのでこうした引き合いがあるのは当然である。

しかし、この書籍は、市販されなかった。

AKINDO委員会の終焉記念として発行が企画されたが、私は、当然市販するべきだと思い、少し勇み足で、記念本の印刷と同時に市販本を制作した。

ところが滋賀県の合意を得ることが出来ず、印刷した書籍は全て廃棄処分したのであった。
確かに私の勇み足はあったが、設立当時の心意気がすっかりなくなっていた担当者の気持ちを転向させることはできなかったのであった。

公的な機関の事業は、多くが社会的に評価されるものであるが、いつしか当初の設立の思いが薄れることは残念である。担当者がかわっても、事業遂行が順調にすすむことに行政のシステムの優秀さを痛感しているが、情熱や熱意が継続して伝わっていないことが多い。

近江商人が最も懸念したのが創業の志を末代に伝えることであったと思っているだけにこの幻の書籍、未だに残念である。

三方よし研究所は小さな組織ではあるが、歯をくいしばっても初心を貫きたいと思う。

2005年 7月 23日

琵琶湖のヨシ

13回を迎えた「三方よし 理念普及講座」は今回から三方よしなるほど講座としてリニューアル。
朝から真夏の太陽がギラギラのもかかわらず、ヨシ原からの涼風がさわやか

今回は、ヨシ博物館館長の西川嘉廣さんを講師に、ヨシ博物館の見学と講演会を開催。

第17代のヨシ商を継ぐことなく、薬学の研究に進まれた西川さんは、
退官後のヨシ文化普及への情熱と活動は素晴らしく、
第2の人生を「ヨシの保存と発展を」願い、
ご本人曰く、
「遅ればせながら稼業を継ごうとした」のであった。

今日、参加者された方には、西川さんの思いは十分に伝わったことと思う。

とは言え、決して気負うことなく、淡々としたお話ぶり、そして何よりもジョーク大好きな西川さん。

「簾の需要はめっきりスタレテしまった」が通じなかったことにいささかご不満。

食糧増産のためにヨシ原を水田にすることの要請に断固立ちはだかり、けん命にヨシを守り続けた先代の時代が逆風であり、今、ヨシ保護条例ができ、環境的に追い風となり「皮肉なもの」といわれるが、

研究者としての視点で収集されたヨシ博物館は、まさにご先祖の歴史を伝えると同時に、ヨシに関する広い世界を広げてくれる。

そして、ヨシへの思いが凝縮された『ヨシの文化史』を出版された。

ビール党でヘビースモーカー、そして少し難解なジョークを連発する西川さんの行動は、今後も注目されそうである。

2005年 6月 29日

琵琶湖の鮎

私ごときでお役に立つのかと心配しながら、平和堂様の中国人社員研修の講師を務めた。
日本流の商いの心、とりわけ近江商人について話をするようにとのことであった。

日本人にお話するのだって危ない私にとっては、前日よりかなり気が重かったが、幸いにも平和堂中国室顧問の唐(とう)先生がうまく通訳いただいたので、かなり理解いただけたようであった。

まもなく創業50年をむかえる平和堂は、彦根で誕生し、県内はもとより北陸、関西圏の次々出店し、昨年は東海地区にも進出している。何かと話題が多い流通業界で堅実な経営を続けておられる。

滋賀県と姉妹提携を結ぶ中国湖南省の長沙市に大型商業施設を建設されたのが平成10年。出店までには幾多の問題があったようだが、開店後は周辺はたちまちに大きく変化をしていると聞く。

創業者、夏原平次郎さんの商いの心はまさしく、近江商人の理念に合致する。とりわけ、「社会と会社」についての夏原さん説は納得のいくものである、早い時期から、企業の社会的責任について言及されている。さらに、企業理念というべき「5つのハトのお約束」では、顧客サービス、良品提供、取引先との信用を重視、みんなの幸せをきずくこと、そして地域社会のためにつくす、ことを唱っている。

夏原さんが、本腰を入れて商売を始められたのは40歳を超えてからのこと。その年の新聞記事で「琵琶湖の鮎と近江商人」をみるや、「琵琶湖の鮎でも大きく育ってみせるぞ」という決心がスタートであったといわれる。

琵琶湖の鮎は、県外の河川に放流されて大きく育つ、一方、近江商人も県外で商いをしたから成功したという話は、滋賀では通説のように語られていた。

この、通説に挑んだのが夏原さんの商い人生であった。ちょうど80歳を迎えられた時、自分史をおつくりになったが、お手伝いした私は、この著作のタイトルは『琵琶湖で大きくなった鮎』に限ると心に決めていた。しかし、どうしてもお聞き届けいただけず『おかげさまで80年』に落ち着いた。

このタイトルは、平凡ではあるが、まさしく夏原さんらしいものだった。と、今になって思う。

この中で一番感銘を覚えた内容が、
強いからといって、自分の欲望ですべてを画一化することはできない。青い空が美しいのは、そこに白い雲が少しうかんでいるからこそ、その青さがさらに際立つといい、商売は、地域の特性、慣習に逆らって力で組み伏せることはできないと主張され、独自路線を踏襲された経緯が記されているところである。

当時、力で組み伏せようとした企業が、今はその方向さえも定まらない状態の中、平和堂さまは、堅実なあゆみを続けている。おりしも本日は、株主総会の集中日、悲喜こもごも、企業の評価がくだされている。

「たとえ他国に行商に出かけても、その国一切のことを大切にせよ」と言い残した、中村治兵衛の言葉が、「三方よし」の原点といわれるが、夏原さんの商売の心は、そのとおりを実践されてきたのである。

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