新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2018年 6月 14日

新撰淡海木間攫 其の七十 ローリエの枝 ルネ・ラリック

成田美術館 副館長 成田充代

 1921年にシールペルデュ(蠟型鋳造)で制作されたこの花瓶は、ちょうど手のひらに収まる大きさで、一見シンプルな小品にも見えますが、手には天然石のようなあたたかな感触が伝わります。裾文様にやわらかに溜まった光が木漏れ日のようにきらめきローリエ(月桂樹)の葉に生命感が溢れ、シャンパーニュの風にそよぐ葉音が聞こえてくる感覚にとらわれます。当代一流の蒐集家を感嘆させた才能の懐の深さを感じさせられる一点です。眼と手で愛でるオブジェ・ダールの喜びを知り尽くしたコレクターのための逸品と言われています。
 この作品は、19世紀末から20世紀初頭にフランスで活躍し、エミール・ガレ、ドーム兄弟と並びガラス工芸家の中で五本の指に入ると言われているルネ・ラリック(1860〜1945)の作品です。
 フランスの北東部シャンパーニュ地方(マルヌ県)アイに生まれたルネ・ラリック、彼が生を受け母の故郷であるこの地は、シャンパン(シャンパーニュ)の産地として知られ、丘陵に見渡す限りブドウ畑が広がる自然豊かな村でした。パリに居を構える一家は、しばしば母の郷里を訪れ休暇を楽しんだと言われています。
 フランス、シャンパーニュの恵まれた自然の中で幼少期を過ごし、豊かな感性を育んだルネ・ラリックは、アール・ヌーヴォー期には宝飾作家、アール・デコ期にはガラス工芸作家として二つの異なる分野で頂点を極めた人物として知られています。時代の流れ、芸術の分野が変わっても、「自然」は彼の生涯のテーマでした。ラリックの作品には、その頃出会った自然界のモチーフが数多く登場します。
 彼の愛した「自然」、この作品をご覧いただきながら永遠のテーマとして自然とその神秘に対する畏敬の念を抱き続けたルネ・ラリックを思いおこしていただければ幸いです。

2018年 6月 14日

新撰淡海木間攫 其の六十九 ヒトエグモ Plator nipponicus (Kishida, 1914) クモ目ヒトエグモ科 

甲賀市みなくち子どもの森自然館 河瀬直幹

ヒトエグモ

重ねた植木鉢の内側に潜むヒトエグモ雄 (2017年3月、大津市、清水良篤氏撮影)

 ヒトエグモは、頭部先端から腹部後端までが5~8㎜(脚を含めた横幅は約20㎜)と小型のクモ類です。しかし、その特異な形態と、生態の謎から、日本のクモ関係者の間で注目されています。
 まず、ヒトエグモの体形は、クモ類で最も扁平と言われており、厚さが1㎜に満たない体です。「ヒトエ」は“単衣=裏地がない薄い和服”に由来します。この体で、屋外の石垣や土塀の狭い隙間に潜んだり、家屋内では本の間から発見されたりして驚かれます。人に見つかっても、完璧に平たい姿勢のまま、ゆっくり横歩きで逃げる様子は本当に奇妙です。
 つぎに生態ですが、非常に稀なクモで、既知のほとんどの記録は京都府と大阪府の旧市街地で、単発的なものでした。しかも寺社や古民家の家屋周辺にのみ発見され、野外の森林などで見つからないことが謎を深めます。このため、日本蜘蛛学会元会長の吉田真氏は、ヒトエグモが韓国各地に分布することから、古い時代に朝鮮半島から渡来した荷物に潜んで、京都や大阪の市街地に侵入した外来種でないか!?との仮説を提起しています。
 このヒトエグモの1雄が、2017年1月、甲賀市水口町京町の民家で古本を整理中の男性により発見され、みなくち子どもの森自然館に届けられました。“極めて珍しいクモ発見”のニュースが広がると、滋賀県内の長浜市、近江八幡市、大津市、甲賀市から予想を上回る新情報が届きました。そのうち、長浜市尊勝寺町と大津市札の辻のお寺からは、各1雄の標本が得られ、滋賀県内における分布が明白となりました。また同年、関西クモ研究会の藤野義人氏により京都市街のヒトエグモ生息分布調査の結果が会誌に掲載され、市街広域の寺社の石垣や物置等から多数記録が報告されました。
 以上のとおり、これまでクモ研究者が家屋を積極的に調査しなかったために稀だったようです。古くからの市街地がある京都や滋賀には、このクモが確実に生息しています。意外に身近かもしれないヒトエグモに、ちょっと注目してみては?

2017年 8月 4日

新撰淡海木間攫 其の六十八 絵絣の見本

大津市歴史博物館副館長 和田光生
絵絣の見本/図柄は異なるが、織りあげられた木綿絣/柄の見本とともに販売された綛糸

 田上郷土史料館には、衣生活資料が多数収蔵されています。なかでも女性が腰に巻いていた「三幅前垂れ」(7ページ写真)は、さまざまな絵絣で織られており、華やかな印象を与えます。絵柄は、年齢によって使い分けていたそうで、若者は大柄で一幅に1列で4つほどの絵柄が見られる「四ツ絣」、高齢になるほど小柄となり「十六絣」など、年齢に合わせて使い分けていました。
 古くは綛糸を数か所しばって藍染した「ククリ絣」が織られていたようです。そのころは十字や井形など簡単な図柄だったようですが、明治時代後期以降に絵絣が拡がるようになります。もちろん自家製で絵絣を織り出すことは難しく、絵絣糸を購入して織っていました。田上地方には、湖東から絣糸を売りに来ていたようです。麻絣が盛んだった湖東地方の技術を生かし、木綿絣用の糸を作成し、販売に来たのです。手機で織るので、緯絣ばかりでした。
 絣糸は綛にして売られますが、それがどのような模様の糸か見ただけではわかりません。そこで糸と一緒に織り上がりの図案を添えて販売されていました。織る時は、この図案を見ながら織り上げたのです。田上郷土史料館には、織り上げた三幅前垂れやその端切れなどとともに織り上がり見本の図案も収集されています(7ページ左下写真)。絵絣は、紺地に白で絵柄を表す黒絣と白を地として、紺で絵柄を表現する白絣があり、上田上牧町では白絣が好まれました。
 三幅前垂れなど伝統的な服装も、戦後大きく変貌し、その多くは廃棄され、資料として残ることも稀でした。田上郷土史料館は、こうした失われやすい衣生活資料を意識して収集し、その調査研究も重ねてこられました。絵絣の問題も、田村博望氏の「郡田新蔵創案の板締絣」(『民俗文化』第381号、平成7年、滋賀民俗学会)でまとめられています。

2017年 4月 12日

新撰淡海木間攫 其の六十七 「日本藩史」草稿 北川舜治著 静里文庫蔵書

草津市立草津宿街道交流館館長 八杉 淳

「日本藩史」は、日本各地の藩主について記した歴史書で、静里文庫の蔵書として10冊の自筆草稿と、15冊の自筆校本があります。草稿は、マス目や縦罫入りの用紙に記されています。一方の校本は、舜治が開いた私塾「修文館蔵」の文字が刷られたマス目入りの用紙に漢文体で記され、校合の際の訓点など朱書が施されています。また、15冊に分冊され、それぞれが表紙を付して製本、調えられています。
 この「日本藩史」は、明治12年(1879)12月に版権免許、同17年4月に「六書堂」から全8巻で出版されています。
「日本藩史」を著した北川舜治は、天保12年(1841)栗太郡部田村(草津市青地町)生まれ。幼少期から祖父である浄光のもとで教えを受け、8歳のときには四書(儒学の基本となる4つの書物)を暗唱するなど、周囲からは奇童と呼ばれていました。安政6年(1859)、19歳で京都に遊学。山本榕堂の門に入り、経史や博物学を、その翌年には山本主善のもとで医学を、そして伊藤輶斎に儒学、高島晋斎、遠山雲如からは詩文を学んでいます。
 文久3年(1863)、郷里に帰り、私塾を開くとともに、医者として開業。医師としての仕事に励むとともに、生徒を集め、和学や儒学を教えました。その傍らで自らも修史の志を立て、国詩や経史、西洋訳書を書写しています。
 私塾を開いたのち、明治8年(1875)に滋賀県に出仕。史誌編纂兼学務担任や文書掛を務め、明治15年(1882)に、家庭の事情で県の仕事を辞職するまでの間、「日本文学志」全8巻、「日本外交志」全4巻、「経典彙纂」全4巻などを編著。明治20年には大阪住友吉左衛門の委嘱を受け、住友家歴代の家記をまとめた「垂裕明鑒」全31巻を編纂しています。その後も「滋賀県沿革志」「近江名所記」「瀬田川浚渫工事(瀬田川浚渫沿革記)」4巻などを滋賀県の委嘱を受けて著すなど、多忙な職務の合間に、自ら「柳暗花明舎」や「読我書屋」と名付けた書斎で、精力的に著作活動を続けました。そして、明治31年(1898)には、これまでの著作活動の集大成ともいうべき、「私撰国史」175巻を編纂し、宮内省に献納しています。
 北川舜治が生涯62年にわたり、自身が著した草稿・著作や収集した蔵書数百冊が、戦後、彼の郷里に鎮座する小槻神社に寄託され、舜治が号とした「静里」を冠し「静里文庫」と名付けられて今日に至っています。

2017年 1月 27日

新撰淡海木間攫 其の六十六 日野祭礼之図 渡辺雪峰

近江日野商人ふるさと館 旧山中正吉邸
岡井健司
日野祭礼之図 渡辺雪峰

 渡辺雪峰は、山梨県富士吉田出身の日本画家・書家。明治元年、幕末の志士新徴隊の一員であった父平作の次男として、山形県庄内で生まれました。明治6年(1873)、郷里の富士吉田に父とともに帰郷し、絵を嗜んだ父の影響を受けて幼少期から画業を志しました。画を渡辺小華、書を長三洲に学び、明治35年(1902)に東京へ出て日本文人画協会を主宰し画家としての地位を確立しました。山水画のうち文人画の系譜をひく南画を得意とし、明治・大正・昭和にわたって活躍、昭和24年(1949)、富士吉田の福源寺にて没しました。

 本図は、箱裏書により、明治26年晩春に雪峰が湖東日野渓を訪れた折、偶然に綿向神社の祭典を見る機会を得、北浦雅契氏の求めに応じて描かれたものであることがわかります。

 雪峰が目にした祭典は、日野町村井に鎮座する馬見岡綿向神社の春の例大祭・日野祭のことで、5月3日の本祭には、綿向神社と御旅所である雲雀野の間を3基の神輿や神子・神調社の行列が渡御し、16基ある曳山が巡行する湖東地方最大の春祭りです。

 本図には、多くの見物人で賑わう祭りの日の御旅所の様子が、力強く大らかな筆致で活き活きと描かれています。図中を詳細に観察すると、御旅所に集結した曳山(現在、御旅所へは1基のみが巡行)、奉納が廃止されて久しいホイノボリ(和紙と竹で作った幟・図中央右)や、現在とはデザインの異なる神輿舁き・神調社の衣装が精緻に描き込まれるなど、古式の日野祭の様子をうかがい知ることができ、民俗資料としても価値の高い作品と言えるでしょう。

 絵を所望した北浦氏とは、御旅所が位置する日野町上野田に本宅を構え、東京八王子にて酒造業を営んだ日野商人北浦権平氏のこと。江戸時代中期から明治の頃、多くの画人たちが日野商人の財力と文化力を頼って日野を訪れました。日野近郷の蒲生郡桜川村(東近江市)には山梨県甲府で酒造業を営んだ近江商人野口忠蔵家があり、当代当主の夫人は女流南画家として著名な野口小蘋でしたから、雪峰は野口家との縁を頼りに日野の地を訪れたのかもしれません。

2016年 10月 11日

新撰淡海木間攫 其の六十五 小型横型水冷ディーゼルエンジンHB型

ヤンマーミュージアム 伊東妃李子

 これは、ヤンマーが世界で初めて小型実用化に成功した横型水冷ディーゼルエンジン「HB型」です。(出力/回転数:5─6馬力/550─650rpm、ボア×ストローク:110mm×190mm、気筒数:1、機関重量:500㎏)
 ディーゼルエンジンは、ドイツのルドルフ・ディーゼル博士により、1892年に発明され1897年にMAN社にて実用製品化されました。他のエンジンと比べ、安全で耐久性が高く、燃費がよく低質油でも使えるという経済性に優れたエンジンでしたが、当時は2階建て建物ほどの大きさがあり、扱いが難しいものでした。
 ヤンマーは当時、主に石油エンジンを扱うメーカーでしたが、創業者である山岡孫吉が、ドイツのメッセ(見本市)でディーゼルエンジンに出会い、厳しい農作業を軽減する動力源としてこれ以上のものはないと、燃費がよく耐久性に優れたディーゼルエンジンの小型実用化に取り組むことを決意しました。
 ディーゼルエンジンは、大型も小型もその原理自体は変わりませんが、燃焼条件が異なるため、小型小馬力になると技術的に大変難しく、先進国であるドイツでも商品化した例はありませんでした。しかし、「貧しい農村はもちろん、あらゆる分野においても、資源の乏しい日本では、燃料節約型のエンジンが欠かせない。近い将来石油エンジンを上回って動力機関の主役のひとつとなる。」とその将来性に確信を持っていた山岡孫吉は、小型ディーゼルエンジンの開発に熱意を注ぎました。
 開発を始めてから約1年半後の1933年(昭和8年)12月23日、世界で初めてディーゼルエンジンの小型実用化に成功しました。人力で運べるまで小型化軽量化し、始動も容易な構造としたことで、農業の籾摺り機や、灌漑用ポンプの動力源として幅広く普及が進みました。以来、小型ディーゼルエンジンは日本国内のみならず世界中のあらゆる農業・漁業・建設業の現場などで、優れた動力源として活躍しています。


※ヤンマーでは、12月23日を「ディーゼル記念日」と定めており、この小型横型水冷ディーゼルエンジンHB型を展示しているヤンマーミュージアムでは、毎年「ディーゼル記念日特別企画」を開催しています。入館料の割引や、特別イベントなどを行なっていますので、この機会に是非ご来館ください。

2016年 7月 7日

新撰淡海木間攫 其の六十四 五百井神社 木造男神坐像

栗東歴史民俗博物館学芸員 中川 敦之

木造男神坐像

 冠をかぶり袍(上衣)を着ける貴族の姿をし、瞋怒相をあらわすこの神像は、栗東市下戸山の五百井神社の主神像です。10世紀後半から11世紀初めの作品と考えられています。

 木俣神を祭神とする五百井神社は、延長5年(927)成立の延喜式神名帳に「蘆井神社」と記される式内社として知られていますが、平成25年9月、台風18号がもたらした豪雨によって発生した山崩れに本殿や拝殿が呑み込まれ、一帯が土砂と倒木に覆われるという壊滅的な被害を受けました。被災後、神社の関係者や地元の人たちが中心となって、土砂に埋もれた神像を探し出す作業が行われ、2週間ほどのちに発見されました。なお、同時に14世紀末から15世紀初めの木造獅子・狛犬も発見されています。

 発見された神像と獅子・狛犬は、神社の関係者や地元の人たちの要望により、平成26年1月に栗東歴史民俗博物館に寄託されました。その後、平成26年9月から12月にかけて、MIHO MUSEUM(甲賀市信楽町)で開催された「獅子と狛犬」展にそろって出品され、修復作業も行われています。
 ところで、この神像の袍には緑青や朱の彩色が残されています。社伝によれば、五百井神社は仁寿元年(851)に正六位上、永治元年(1141)に従五位下の神位をそれぞれ授けられており、六位の朝服として定められた深緑色や五位の朝服として定められた浅緋色と、袍に残された彩色の一致がみられる点が注目されます。
 この神像は、平成27年12月に滋賀県指定有形文化財の指定を受けました。五百井神社の地元・下戸山では、毎年5月5日の五百井神社の例大祭の継承や社殿の再建に向けた取り組みが続けられていて、この神像の滋賀県指定有形文化財としての指定は、地元での取り組みに弾みをつける話題と言えるでしょう。

※本像は、10月8日(土)から11月23日(水・祝)まで滋賀県立近代美術館で開催される「つながる美・引き継ぐ心(仮称)」展に出品されます。

2016年 4月 12日

新撰淡海木間攫 其の六十三 「朝霧の川」中路融人

東近江市近江商人博物館学芸員 上平千恵

朝霧の川

 この絵は、湖国の原風景に心惹かれ、60余年もの間、その風景を追い求め、描き続けた日本画家・中路融人(文化功労者・日本芸術院会員)の作品です。
 その作品に向き合うと、画面からは不思議と肌寒い季節の凛とした空気や水辺の潤い、土や木々の匂いも感じるような気がします。

 東近江市の名誉市民でもある中路画伯の創作の原風景は、幼い頃、母に連れられて訪れた東近江市にありました。

 「大きな杉に囲まれた鎮守の森やコブナやモロコが釣れる曲がりくねった小川がたんぼの間を流れ、のどかな田園地帯が広がっていました」と当時を回想されています。

 今回ご紹介したこの絵のようなうねった小川や田園の中に榛の木が立ち並ぶ風景は、かつて滋賀県でよく見られましたが、県下では昭和50年代から急速に圃場整備がすすめられ、こういった風景が次々に消えていきました。

 その消えゆく風情を追いかけるように、何度も何度も湖国に足を運び、デッサンし続けたといいます。

 一枚の作品の創作をひもとくだけも、滋賀県の歩みの一端を顧みることができます。

 「水と木が私の創作の舞台装置だ」と語る中路画伯は、デッサンを大切にし、雪に輝く伊吹山や榛の木の立ち並ぶ田園風景、葦がゆれる琵琶湖畔など、自らが心ゆさぶられた一期一会の自然の表情を豊かに表現されています。

 このたび中路画伯から、長年にわたり制作された多数の日本画が東近江市に寄贈され、これらの作品を多くの人びとに鑑賞していただくために、平成28年4月17日に中路融人記念館をオープンすることになりました。

 日本画家・中路融人画伯が心惹かれた湖国の情景との出会いが、滋賀県の新たな魅力の発見につながるのではないかと期待しています。

●中路融人記念館開館 特別無料観覧会
 2016年4月16日㈯ 午後2時〜午後5時
 プレオープンとして、無料で入館していただけます。
●オープン記念展「中路融人の世界 ─湖国の風景に魅せられて─」
 2016年4月17日㈰〜7月24日㈰

2016年 2月 2日

新撰淡海木間攫 其の六十二 大津算盤

大津市歴史博物館学芸員 高橋大樹

大津算盤(宝永2年 個人蔵 大津市指定文化財)

 時は慶長17年(1612)、ある一人の男が、新たに長崎奉行に就任した長谷川藤広に同行して長崎に旅立ちました。その男の名は、大津一里塚町(現、大津市大谷町)の片岡庄兵衛。このとき庄兵衛は、長崎に舶来していた明国の商人から一つの算盤を入手し、あわせてその製造技術を伝授されたといいます。その後、帰郷した庄兵衛は改良を重ねて日本型ともいうべき算盤を初めて開発しました。「大津算盤」の誕生です。

 大津算盤は、裏小板をはめ込み、釘や金具を使わず、上2つ・下5つの玉は弾きやすいように菱形に削るなど、高度な技術・製法をもって製造されました。また、その需要は、片岡庄兵衛が幕府勘定方の御用を務めるなどして増加していき、一里塚町周辺には片岡家だけでなく多くの算盤屋が立ち並ぶようになりました。そして、江戸時代を通じて東海道は大谷・追分付近の土産物としても広く知れ渡りました。

 写真は、片岡庄兵衛が製造したものではありませんが、同じく一里塚町で大津算盤製造に携わっていた美濃屋理兵衛製作の算盤。現在確認されている大津算盤の中で、最も古い宝永2年(1705)の銘が刻まれています。美濃屋には、大津算盤製作道具も伝わっていて、その分業工程が、『滋賀県管下近江国六郡物産図説』などにも描かれていてよくわかります。

 そうした大津算盤職人たちの画期は、嘉永7年(1854)にやってきます。株仲間の結成です。この時、片岡庄兵衛は、算盤屋や職人を統制する取締役に就任しました。もちろん、結成以前から庄兵衛は算盤屋を主導する位置にありましたが、このとき改めて、仲間の名前や所在地、庄兵衛による算盤製作や買い入れ算盤のチェック体制、さらには職人や弟子の統制までもが仲間内で確認されました。

 その後、明治時代には内国勧業博覧会に出品されるなど、大津算盤が改めて注目されますが、東海道線敷設にともなって一里塚町の一部も用地買収の対象となり、大正初年頃には製造されなくなり廃れていってしまいました。
 読み・書き・そろばん、算盤パチパチの歴史の裏に、その製造にかかわった大津一里塚町の片岡庄兵衛をはじめ算盤職人たちのドラマが見えかくれします。


●片岡家に伝わった古文書・算盤等は、当館で平成28年3月6日㈰まで開催されるミニ企画展「大津算盤をつくった人々(大津の古文書9)」で展示中です。

2015年 10月 6日

新撰淡海木間攫 其の六十一 「生命の徴─滋賀と「アール・ブリュット」」について

滋賀県立近代美術館学芸員 渡辺亜由美

 滋賀県の福祉施設では、戦後間もない1948年から粘土による造形活動が行われていました。その活動は、障害のある子どもたちの教育的な営みとして、かつ職業訓練の場として、1946年に設立された近江学園(現:滋賀県立近江学園)でいち早く始まりました。粘土による製品づくりを推進する取り組みは、その後信楽寮(現:滋賀県立信楽学園)で生産された「汽車土瓶」(図1)へとつながっていきます。月に2万個の注文を得ていた汽車土瓶の大ヒットは、自分たちの仕事がさまざまな人の役に立っているということを強く実感できる取り組みでもあったのです。
 こうした製品づくりとともに、知的障害児たちの手による豊かな表現を守り・育む中でひろがった自由な造形活動も、滋賀の福祉施設の大きな財産です。粘土や絵画などの創造性溢れる活動は、自発的な成長を信じ、一方的な指導を行わないという温かな眼差しの中で行われてきました。そして、90年代以降、福祉施設で生まれた作品の一部がローザンヌのアール・ブリュットコレクションなどの国外の美術館でも紹介されるまでとなり、今日大きな注目を集めています。その中では、荒々しさと繊細さが共存する伊藤喜彦さんの「鬼の顔」(図2)、無数のトゲで覆われ愛嬌のある顔のついた澤田真一さんの作品(図3)などの粘土造形の他、ブルーの色が織り成す萩野トヨさんの刺繍作品(図4)など、滋賀の歴史ある土壌から誕生した豊かな作品たちも多数紹介されました。
 こうした独特の歴史を持つ滋賀県の福祉施設の造形活動の取り組みを中心にご覧いただける展覧会が、滋賀県立近代美術館で10月3日(土)から始まる「生命の徴─滋賀と「アール・ブリュット」」展です。本展ではその先進的な取り組みがどのように継承され、展開してきたのかを県外や国外の作品も含めた約150点の作品を通じてご覧いただきます。
 表現という可能性を知り、それによって広がった作り手たちの世界─。本展が、彼らの生命の徴である数々の作品とその魅力に出会う、すばらしい機会となれば幸いです。

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