新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2009年 4月 1日

其の二十一 優美な紋様をもつ流雲紋瓦(りゅううんもんがわら)

流雲紋瓦

 大津宮に深く関わりをもつ寺院としてよく知られている南滋賀町廃寺(大津市南志賀)から、サソリ紋瓦(方形軒先瓦)とともに、もう一種類、特異な紋様(優美といった方がよいかもしれませんが…)の瓦が見つかっています。「流雲紋(飛雲紋ともいいます)軒丸瓦」という名前で呼ばれているこの瓦は、いわゆる屋根の軒先を飾る丸い瓦の周縁部に流れる雲のような紋様が八個、時計回り(反時計回りの例もあります)にあしらわれていることから、この名前が付けられました。軒丸瓦とセットになる軒平瓦にも同じ紋様が表現されており、建物の軒先に葺かれた様子は優美な印象を与えるのではないでしょうか。

 この流雲紋の瓦は、近江国府跡(大津市三大寺・大江ほか)や、周辺部にある国府関連遺跡(堂ノ上遺跡、惣山遺跡、瀬田廃寺など)から数多く発見されています。流雲紋の形や方向、中央に配された蓮華紋の形などから数種に分かれますが、基本的には周縁部に流雲紋を表現する点で変りありません。

 しかし、この瓦は特異な分布を示しており、近江国府や周辺の国府関連遺跡、南滋賀町廃寺のほか、県内では、日置前廃寺(高島郡今津町)と東浅井郡湖北町今西から見つかっているだけです。県外でも、平城京跡・長岡京跡・平安京跡、下野国分寺跡などあまり多くありません。しかも、そのいずれもが軒平瓦のみで、軒丸瓦に流雲紋をもつ例は大津市域以外では、先の湖北町今西出土の一例が報告されているだけです。

 紋様もさることながら、その分布にも特異な点をもつこの瓦は、奈良時代から平安時代にかけての近江の歴史を知る貴重な資料であることから、早急に、その特異性を解明していく必要があります。

2009年 2月 2日

其の十九 戦後第1号のおもちゃのジープ

ジープ

 第二次世界大戦後の食料難の中、子ども達の心を浮き立たせたのは、ブリキで作られたジープのおもちゃでした。昭和20年12月、敗戦の4か月後に京都のデパートで売り出されたこのおもちゃは、発売当初1個10円という価格で売り出されましたが、爆発的な売れ行きをみせました。一説には、その年の暮れだけで10万個が売れるほどであったといいます。このおもちゃのジープを製造したのは、戦時中に東京から疎開で大津にやってきていたおもちゃ製造家の小菅松蔵さんという人物でした。この時作られたジープのおもちゃは、戦後第1号のブリキのおもちゃだとされており、このジープのヒットから他の玩具製造家も次々にジープを製作し、これをきっかけに、日本のブリキのおもちゃ産業が復興を見せました。まさに、戦後のブリキのおもちゃの歴史は大津から始まったといえます。

 通称「小菅のジープ」は、『日本金属玩具史』を始め、その他のおもちゃの歴史に関する本には、小菅さんのジープに関する記述は数多く見られるものの、実物の特定が行なわれていませんでした。そこで、本の記述や当時の関係者の話を手がかりに小菅のジープの実物探しを始めました。幸い、展覧会でお世話になっていた北原照久氏(ブリキのおもちゃ博物館館長)が、箱に小菅の名前の入ったゼンマイ動力のジープ(第1号から派生したバリエーションの1つ)をお持ちだったので、北原氏のジープと異なる点である、・ゴム動力であったこと、・ジープ本体のみで人形や他の装飾が無いこと、を手がかりに広く呼びかけました。ジープには会社名などもなく、探し出すのは大変だろうと思われましたが、呼びかけの結果、第1号型のジープ3台と、その後小菅さんが製造したバリエーション3台の計6台もの小菅のジープが見つかったのです。また、その中には、大津の小菅さんの工場でお土産に貰った物だというものもありました。

 第1号型のジープは、当初はゼンマイを調達できなかったためかゴム動力で、大きさも空き缶を再利用したため、長さ10cm程度の小さな物でした。また、売り出された当初は箱もなく、戦前のおもちゃの技術水準から比べると簡素な製品でした。しかし、ほとんどの工程が金型を利用したプレス作業で精巧に作られており、簡素なながらも実物そっくりの出来栄えで、当時の子ども達の喜んだ姿が目に浮かぶようなものでした。

 小菅さんは、昭和22年ごろまで大津でジープを製造し、その後再び東京に戻って昭和46年(1971)に73歳で死去するまでの間、自動車の玩具を主に製作し、「車の小菅」と称されました。特に戦後の東京時代に製造されたキャデラックのおもちゃは、その精巧な作りから自動車おもちゃの最高峰といわれています。小菅さんは、その生涯のほとんどを東京で過ごしましたが、昭和20年から昭和22年頃までの間に大津時代に、ブリキのおもちゃの歴史の中にその名を刻む、戦後第1号のブリキのおもちゃ「小菅のジープ」を作ったのです。 なお、この小菅のジープは、9月3日まで開催の「20世紀のおもちゃ―北原照久コレクション―」の中で展示しています。

大津市歴史博物館 学芸員 木津 勝

2009年 1月 1日

其の十八 冷水寺の胎内仏

胎内仏

 伊香郡高月町宇根(うね)地区では、平成9年(1997)県の「創意と工夫の郷づくり事業」の助成をいただいて、区の歴史と文化を紹介する場として資料館を平成10年に開館しました。間口2.5m、 奥行き5m、展示面積は10平方メートルほどの本当に小さな資料館です。

 ここで展示の中心となっているのが、区内にある冷水寺観音堂に収められている聖観音菩薩坐像(胎内仏とは、仏像の内部に納められた仏像をさす言葉)です。これは平成8年に観音堂の屋根を修復することになり、本尊の十一面観音坐像を高月町立観音の里民俗資料館に一時保管してもらった際、台座の中から発見されたもので、区に伝えられてきた古文書や伝承が本当だったことを証明するものとなりました。

 天正11年(1583)賤ヶ岳の合戦の際に、豊臣秀吉と敵対した戦国武将・柴田勝家によって伊香郡北部は焼き討ちにあいます。村人らが林の中に避難していたところ、観音さまが呼ぶ声が聞こえたので急いでかけつけましたが、すでに本尊は大きく焼損されていました。それでも村人らは、小堂を再建して大切に安置し続け、1世紀余りが過ぎた元禄12年(1699)、堂の扉が自然に開き、中から痛ましい姿を見せたため、村人らは講を組んで、元禄15年(1702)に京都で十一面観音坐像を造り、御開帳法要の際にその胎内と台座内深く納めたというのです。

 高さ約103.9cm、ケヤキの一木造りで、ご覧のとおり、表面が黒く炭化し、両腕の肘から先はもげ、顔もその表情をうかがうことができませんが、丸くふくよかな顔、大きな髻(もとどり)などからみて平安時代中期(10世紀)に製作されたものだろうとのことです。

冷水寺胎内仏資料館 館長 下村 正勝

2008年 12月 1日

其の十七 西河原森ノ内二号木簡古代の湖上交通を示す文書

木簡  西河原森ノ内遺跡は、野洲郡中主町西河原に所在する遺跡で、大きく三つの遺構面がある。このうち下層では七世紀後半から八世紀前半の掘立柱建物群が検出され、規模も大きく柱の掘り方も一辺一・五メートルのものも見られる。そしてそこからは、多数の木簡や墨書土器、さらに木製の矛・斉串・人形・馬形・陽物・舟形・琴柱・鞍など祭りに関る遺物が出土し、普通の村というより地方の役所のような施設である可能性が高い。この遺跡では合計四点の木簡が出土しており、いずれも注目すべき内容を持っているが、このうち森ノ内二号木簡は、衣知評という記載から七世紀後半のものとみられる文書木簡であるが、その内容は、近江国庁か中央政府の官人とみられる「椋直」(内蔵直)なるものが西河原森ノ内遺跡(馬道郷)に居住する卜部(某)に対し、自ら取りに行ったところ、運搬に使う馬が得られなかったので運ぶことができなかった。そこでおまえが代わりに舟人を率いて行ってくれ、その稲の在る所は衣知評平留五十戸の旦波博士の家であるとするもので、琵琶湖の水運を利用した物資の運搬がなされていたことを示している。他の木簡や墨書土器から、西河原森ノ内遺跡には志賀漢人と総称される倭漢氏配下の渡来氏族の顕著な居住が知られ、しかも旦波博士も志賀漢人一族の大友丹波史であり、湖上水運を利用した物資の運搬に、倭漢氏の一族である内蔵直氏と、その配下である漢人村主の志賀漢人一族の関与が知られることは注目される。

2008年 12月 1日

其の十六 堅田衆との関係を示す書状集

書状集

 尾張国・美濃国を手に入れた織田信長が近江国に進攻してきたとき、押さえておかなければならなかった勢力の一つに「堅田衆」がありました。堅田は、現在も琵琶湖大橋が掛かる湖の最狭部に位置し、対岸の守山までの間が手に取るように見渡せる立地条件を持っています。ここに住む人々は、平安時代以来、京都の鴨社に神饌を献納する供祭人を務め、職務遂行の必要もあって、琵琶湖全域を通行し漁業を行う特権を主張してきました。中世に入るとこれに、堅田に設けられた関所で関銭をとる権利や、海賊をかけない保障料を徴収する「上乗権」等を加え、湖上交通において確固たる地位を築き上げます。

 戦国時代、この堅田衆の指導者層として現れるのが「堅田諸侍」でした。居初氏を始めとした古代以来の供祭人の系譜を引く一族だけでなく、猪飼氏や南氏等の新興勢力も、その構成員をなしていたようです。

 このうちの南氏に宛てられた書状六通が、当館所蔵の「近江堅田関係書状集」です。写真のものは永原重虎書状で、近江国南半を支配した六角氏の重臣である永原重虎(野洲郡永原の在地領主)が、南氏から六角氏へ納めるべき永禄八年(一五六五)分の銭を早く進藤氏(同じく六角重臣で守山市木浜・小浜辺りの在地領主)に渡すよう催促したものです。南氏が六角氏に、定期的に銭を納めていたことが分かりますし、また他の書状からは、南氏と六角氏重臣達との個人的な贈答関係のあったことが伺えます。信長のみならず、六角氏も有力な湖上勢力である堅田と何らかの関係を持っていたことは想像に難くありませんが、具体的にそれを示す資料はあまり残されていません。この書状集は、わずかではありますが、両者の関係を垣間見る貴重な資料と言えるでしょう。

安土城考古博物館 学芸課学芸員 木 叙子

2008年 10月 1日

其の十五 近江商人の社会貢献「塚本兄弟の頌徳碑(しょうとくひ)」

塚本兄弟の頌徳碑

 今からわずか百年ほど前、琵琶湖の周辺には荒れ果てたハゲ山がひろがっていました。その最大の原因は、江戸時代の後期以降に激化した燈火用の松根の乱掘にあると考えられています。こうしたハゲ山は、降雨のたびに山肌が洗われて大量の土砂を流出したことから、滋賀県の河川の多くは、川底が周囲の平野部よりも高い天井川となってしまいました。天井川はふだんは伏流水化して田養水を得にくくする一方、いったん豪雨になれば、たびたび堤防が決壊して、人々の生活を重大な危機にさらしていたのです。

 こうした状況が深刻化した明治時代の中期、これを大いに憂い、その解決のために莫大な私財を投じた近江商人があらわれました。塚本合名会社(現在のツカモト株式会社)の当主定次と弟の正之こそ、その人物です。兄弟は神崎郡川並村(五個荘町)の出身で、湖東の秀峰・観音寺山を見て育ったことから、治水の肝要は治山にあると確信し、砂防・植林の費用として滋賀県に莫大な寄付をおこなったのです。それは明治二六年から大正時代にまでおよび、寄付額は滋賀県の当該事業費の半分にも達しました。

 塚本兄弟は治山治水はもとより学校の建設や道路の改修等の公共事業にも、莫大な私財をなげうちました。こうした社会貢献を惜しまなかった多くの近江商人の活躍こそ、今日の豊かな滋賀県を築き上げた、重要な原動力のひとつであったことは疑いありません。忘れ去られるには、あまりにも惜しいではありませんか。

安土城考古博物館 学芸課学芸員 北村 圭弘

2008年 8月 1日

其の十四 まつりの道具「銅鐸(どうたく)」

銅鐸

「銅鐸」。小学校の歴史の教科書にも登場し、最近の新聞紙上やテレビでもたびたび取り上げられることの多い名前ですから、皆さん一度くらいは耳にされたことがあるでしょう。(39個の銅鐸がまとまって出土した島根県の加茂岩倉(かもいわくら)遺跡は、まだ記憶に新しいでしょう。)また、形もお寺の釣鐘に非常によく似ていますから、吊り下げて鳴らして使われたのではないかと容易に想像できるでしょう。

 では、銅鐸はいつの時代に、何に使われたものなのでしょうか。銅鐸は、弥生時代にまつりの道具として使われた青銅製のカネです。山や丘の斜面に穴を掘って埋められた状態で見つかる場合が多いのですが、最近の調査ではムラに近い所からも見つかっています。故意に埋められた理由や、多量に埋める理由はよくわかっていませんが、一つの解釈として稲作の豊作を願ったり、豊作への感謝のまつりの道具として使われ、必要のない時は土の中に埋めて保管したのではないかと考えられています。最初は、鳴らして音を「聞く」カネでしたが、新しくなると目で「見る」カネとなり、大型化し、飾り立てられました。中には、絵画銅鐸と呼ばれる当時の生活や動物の描かれたものもあります。

 銅鐸は、畿内地方を中心に全国で約480個余り見つかっていますが、滋賀県も出土例の多い地域です(34例)。特に野洲町大岩山(おおいわやま)遺跡では、二四個の銅鐸が山の斜面から隣接して見つかっています。この地域は、畿内地方の東の入口ともいうべき位置に相当することから、悪しきものを排除することを願って多量の銅鐸を埋めたのではないかとの解釈もあります。

 このような、土の中から発見される昔の資料を考古資料と呼びます。基本的には発掘調査によって発見されますが、偶然工事中などに見つかる場合もあります。これらは、文献によって知られている史実を裏付ける場合もあれば、文字からでは知り得ない全く新たな史実をも如実に伝えてくれます。ひとつの考古資料から事実を決定することは簡単ではありませんが、逆に様々な想像や解釈ができるのが考古学のおもしろさとも言えます。

安土城考古博物館 学芸課主任 吉田 秀則

2008年 7月 1日

其の十三 大津市街にあったビワコオオナマズの産卵場

ナマズの産卵場

 琵琶湖在来の魚類の中で最大のビワコオオナマズ。大きいものは全長1.3m、体重20kgを超える。私は1988年以来この魚の産卵生態を調査している。意外と思われるかも知れないが、この魚の産卵場は、かつて大津市街に2カ所あった。梅雨時期に大雨があるとオオナマズが出現し、真夜中に産卵をくり返していた。しかし、いずれも私とごく少数の友人しか知らないままに、2カ所ともここ5、6年でダメになってしまった。ここでは、そのうちの1カ所について産卵場がダメになった過程を紹介しよう。

 理由は至って簡単、そう鋭い読者はもうすでにお気づきのように「人が環境を変えた」からである。その産卵場は琵琶湖の最南端、瀬田川と琵琶湖の境界部で、ずいぶん昔に人為的に造成された岩場であった。そこは私が観察を始めた当初、1989年6月3日の深夜に発見した場所だ。一般の方が見られたら、「へぇ~、こんな場所で」と思われるような環境である。そこは湖の中心部からやや入り組んだ場所で、おのずと水の入れ替わりが悪く、ビニールやら空き缶が散乱している。私の目からも決して好適な環境とは思われなかった。しかし、降雨があって、湖の水位が上がるとちゃんとオオナマズが姿を現すのである。湖岸道路のすぐ横に位置していたから、真夜中であろうとすぐそばを車がビュンビュンと行き交っている。ナマズの産卵する水音もしばしばかき消された。そんな場所である。この産卵場では最も多いときに20個体ほどのオオナマズが出現していた。

 1995~1996年は琵琶湖博物館のオープンに向けて、私自身がたいへん忙しくなったこと、また私の興味が次第に田んぼのナマズに向けられるようになったこともあって、オオナマズのことはたいへん気にかかっていたのだが、しばしその観察から遠ざかっていた。そして1997年の6月夜(もちろん、その前日に大雨があった)、久方ぶりにこの産卵場を訪れて、その変わりように私はしばし愕然としてしまった。オオナマズが現れるはずであったその場所は、工事用の浮きフェンスで囲い込まれ、土砂が搬入されて埋め立ての真っ最中だったのだ。思わず、私は「ごめんなさい!」と叫んでいた。もちろんオオナマズに対してである。うかつにも、その場所は、大津市が以前から推進していた『なぎさ公園』の一画であったのだ。私は、その夜は明け方まで眠れず、悔しさでベッドの中で寝返りばかりうっていた。今年もこの場所へ行ってみたが、1尾のオオナマズも見ることができなかった。私たちは、いつの日かこの産卵場を復活させなければならない。

琵琶湖博物館 専門学芸員 前畑 政善

2008年 6月 1日

其の十二 田んぼの中の林

田圃の中の林

 初めてこの林を見たときには、妙な違和感がありました。林というものは山の斜面にあると頭の中で思い込んでいたからです。もう20年近くも前のことです。見上げるような大きなケヤキとエノキ、ムクノキが頭をだしていて、その下には常緑樹が入っています。そしてその林は周りを田んぼに囲まれていたのです。

 当時、平野部の開発が始まる前には、そこにはどういう森があり、景観であったのかを考えていました。昔の森の跡が残っていそうな場所を考えて、地図帳で調べて、初めて八日市の駅に降りました。駅から愛知川の方に歩きだしてしばらくすると、そういう林のかたまりが幾つも田んぼの中に見えてきました。そして向こうには愛知川の堤防にそって林が続いていました。

 そういう景色を見ていると、私の頭の中では田んぼや人家は消えてしまって、その堤防の両側にある林と、ポツリポツリと田んぼの中にある小さな単位の林とがつながって、全体が一つの森であった時代があったのではないかと思えたのです。昔は川はしっかりとした堤防があったわけではなく、自由に流れ、その両側には小高い自然堤防ができ、その上にはケヤキやエノキなどの林ができます。そしてやがて林の中には常緑樹が入ってきます。時には川が氾濫して、林の様子が変わってしまうこともあったでしょう。けれど長期的に見れば川の周囲は同じような林に取り囲まれていたと思います。

 やがて人がしっかりした堤防を作り、川の両側の林は堤防の強化のために残し、また薪を取るために残して、周囲は田んぼにするために開発していったと思われます。そしてポツリと残されたもとの林の断片が今も田んぼの中に残っているのではないかと思うのです。

 最近、建部の森として行政と住民とで愛知川の川辺林をどう保全していくかが議論されています。おそらくその続きであったと思える断片のような林にも注目したいものです。

琵琶湖博物館 総括学芸員 布谷 知夫

2008年 5月 1日

其の十一 清流のシンボル「ハリヨ」

ハリヨ

 みなさんは「ハリヨ」という名前の魚を聞いたことがありますか。ハリヨは7~8cmほどの大きさで、その名のとおり背中や腹にトゲのある淡水魚です。かつては滋賀県の湧水地帯にごく普通に見られ、「ハリンチョ」「ハリキン」「ハリンサバ」などと呼ばれ親しまれていました。しかし、最近は湧水地の減少などのため生息数が少なくなっています。

 ハリヨは鳥のように、巣を作る魚としても知られています。春から秋の繁殖期になると雄は縄張りを持ち、そのしるしとしてあごから腹部にかけて鮮やかな朱紅色になります。そして水草や落ち葉の切れ端を集めて作った、「かまくら」を押しつぶしたような巣の中に、おなかの大きな雌を次々と導いて産卵させます。巣が卵でいっぱいになると、雄は稚魚が泳ぎ出すまで、巣にきれいな水を送り込んだり、外敵を追い払ったりつきっきりで世話をします。

 この魚はどこにでも住めるわけではありません。生息の条件は水温が夏になっても20℃以上にならず、水流が安定し穏やかであることが必要です。これらの条件を満たす場所は平野部にある湧水地帯に限定され、ハリヨは湧水とは切っても切れない関係にあるといえます。

 現在の滋賀県内の生息地は、米原町醒井を流れる地蔵川など、わかっているだけで10数カ所ですが、中には枯れた湧水をポンプで汲みあげなければいけないところ、水源の水溜まりだけに細々と生息しているところもあり、滋賀県でハリヨが生きていく環境は、たいへん厳しい状況です。最近は地元の自治会などが保護活動を始めるところもあり、清流のシンボルとして関心を持たれるようになってきました。絶滅の危機にあるハリヨと言う小魚を守ることは、さまざまな魚の住みやすい川と清らかな水を守ることにもつながるのです。

琵琶湖博物館交流センター 桑村 邦彦

新撰 淡海木間攫 | 一覧

ページの上部へ