中国語にも「母親湖」という、「マザーレイク」と同じような言葉があります。


楊平さん顔写真 楊 平よう・へい(ヤン・ピン)
1975年、中国遼寧省生まれ。筑波大学大学院人文社会科学研究科博士後期課程修了。2007年9月より滋賀県立琵琶湖博物館に勤務。環境社会学専攻。博士(社会学)。

──楊さんご自身は、中国でも北の方のお生まれなんですね。

 はい、東北部の遼寧省(りょうねいしょう)です。やや寒いところです。

──どういった経緯で日本へいらっしゃったんですか。

 高校卒業後、大学の日本語学科に入学して、日本人の先生や学生といっしょに学ぶ中で、日本の伝統文化、着物や踊り、町並みなどに興味を持ちました。日本を実際に見てみようと、その後、高知大学に学部生として入りました。2年生で人文学部の社会学系の方へ進みました。

 そして、夏休みに中国の江蘇省(こうそしょう)、今回の企画展でも取り上げている太湖の近くへ旅行しました。調査ではありませんでしたが、その頃、きれいな水や環境問題に興味をもつようになっていて、どこか湖の近くに行きたいと思って、選んだのが太湖でした。

 行ってみたら、いろいろと調べてみたいなと思うようになりました。昔の水路が残る町並みなどの文化的な面にも興味を持ちました。

──お生まれになった遼寧省は海に面した都市部ですから、同じ中国といっても全然違うのでは。

 そうですね。東北部は水が少ない地域ですが、江南地方は家のドアを開けると、すぐ水路や川があってという感じ。「出門見水、以船代歩」(家を出ると水が見える、船が歩きの代わり)と昔からいわれており、気候も景色も雰囲気もかなり違います。

──その後、筑波大学の大学院へ行かれたのは、どういうきっかけで。

 高知大学では環境経済や環境政策の分野を学んだのですが、別の方法がないかなと思い、当時、筑波大学におられた環境社会民俗学の鳥越皓之先生の研究室で学びたいと考えていました。

──以前は琵琶湖博物館におられた嘉田由紀子さんとも何冊か共著のある方ですね。

 生活分析から環境を見てみようという立場だったんです。私は、学部生のときに先生の本を読んだことがあり、研究室で勉強をさせてもらいたいなということで筑波大学の大学院を受験しました。

──そして、2007年に琵琶湖博物館に来られて、その後、国内外のさまざまな分野の研究者が集まった「東アジア内海の新石器化と現代化:景観の形成史」という研究プロジェクトに参加しておられますね。

 はい。総合地球環境学研究所のプロジェクトで、東アジアの景観と環境の変化をテーマとしています。私はやはり中国の太湖を対象としたのですが、沖縄や韓国などが専門の研究者や、何千年、何万年の単位で考えておられる考古学の研究者の方がおられて、たいへん刺激を受けました。

 例えば、槙林啓介さんという研究者は長江下流域の遺跡から見つかった水田跡を調査し、最初期の稲作と水田の姿を明らかにしようとされています。企画展に先だって3月22日に琵琶湖博物館で開催した講演会「魚米之郷を語る」でも、講演していただきました。

──その講演は行きました。これまで稲作の起源地というと雲南地方とされていましたが、最近は長江の中・下流域とする説が有力になっているそうですね。湿地帯を利用した原初的な水田跡からはコイ科の魚の骨も大量に見つかる、もともと野生のイネが生えていた湿地は魚の産卵場所でもあったという興味深いお話でした。

 そうなんです。長江や太湖周辺の遺跡から最も古い炭化米などが発見され、それが起源ではないかというふうにいわれてきているんです。私がやっている社会学という分野でも、人々の暮らしが歴史の中でどのような変化を経て現代の姿にたどりついたのか、そうしたバックグラウンドも考える必要があります。

──他にプロジェクトの研究者の方から刺激を受けた面はありましたか。

 環境工学の研究者である朱偉先生(中国・河南大学)にも刺激を受けました。現在の中国の湖の水をきれいにするためには、環境工学の手法の方が、結果につながるのが早いんですね。科学技術なしには解決しきれない問題をいっぱい抱えていますから。

 ただ、工学は工学でそれを活かすための課題がたくさんある。そうすると、文系と理系が協力していく、意見交換も非常に大事だと思います。

第1部 湖と暮らし ─長江文化と日本列島─

──それでは、今回の展示を順に回りながら解説していただけますか。展示レイアウト

 最初の展示Aでは、太湖・洞庭湖と琵琶湖の歴史とそれぞれのつながりが紹介されています。

 まず、湖そのものを比較すると、面積は琵琶湖(670㎢)に対して、太湖(2,250㎢)や洞庭湖(2,740㎢)は3倍以上ありますが、大きさのわりに平均水深が太湖で約2mと浅いという特徴があります。水の流れも早くありません。

──ですから、湖の成り立ちから見ると、長江の下流で形成されたラグーン(潟湖)である太湖は大中の湖(だいなかのこ)に、長江中流で水量調節の役目を果たしている洞庭湖は宇治川の南にあった巨椋池に似ていますよね。スケールがケタ違いですが。

 そうです。だから、太湖や洞庭湖のまわりには湿地帯や小さな湖がたくさん点在しています。

 向かい側の展示Bでは日中の文化的な関わりとして、洞庭湖周辺の水郷風景を描いた瀟湘(しょうしょう)八景と、それをもとに日本で考案された近江八景をパネルで展示しています。

愛湖ちゃん

今回の企画展示のイメージキャラクター「愛湖ちゃん」

──次に、長い絵巻Cが展示されています。

 これは、「清明上河図(せいめいじょうがず)」といって、華北の北京と江南の杭州(こうしゅう)を結んだ京杭大運河の周辺の繁栄する姿を描いたものです。オリジナルは国宝級の文化財で、展示しているのは中国の出版社が製作した印刷物です。

──運河を進む船や通りの商店、通行人などがとても精密に描写されていて、この絵を眺めているだけでも半日過ごせそうです。

 隋の時代(7世紀)に完成した延長2,500㎞の京杭大運河によって、江南地方で生産された食糧が政治の中心地である華北へ輸送されるようになりました。「蘇湖(そこ)熟すれば、天下足る」(長江下流域が豊作であれば、中国全土が飢えることはない)という言葉があります。現在も太湖や洞庭湖周辺が豊かな食糧生産地であることは変わっていません。

第2部 水環境と知恵 ─水文化にみる湖との暮らし─

江南地方の水郷の風景

江南地方の水郷の風景(撮影/楊平)

──次の展示Dの模型は、太湖周辺の水郷地帯のものですね。

 黒い屋根と白い壁、そして水路と橋がこの地方の街の特徴です。いまも車道ではなく、水路がすべてという感じで、水が流れる水路がないことには生活がなりたたないのです。もちろん水道も通ってはいるのですが、まだまだ水路で洗濯をしたりもしてます。洗剤は使わずに。

 町並みと水路の模型の中に置かれた船には、鵜飼いのウがのっています。こういう小型の船は中で暮らしているわけではなく、漁に出たり、移動するためだけの船です。

住居とそこから水路へ続く階段、水上の船の模型

住居とそこから水路へ続く階段、水上の船の模型

 水郷地帯は観光地としても非常に人気があります。ウを使った魚捕りも、日本と同じように観光資源になっています。展示写真に写っている船のうち、赤い提灯がのっているのは観光用の船ですね。

 つづく展示Eでは、水環境として川端(かばた)を紹介しています。高島市針江辺りの集落をモデルに模型もつくりました。中国式の川端もあるので、水との暮らしについて比較してみてもらえればと思います。細かな違いはありますが、人々の生活、文化というのが非常に似ているんだと感じていただければうれしいです。

──中国の石組みの洗い場は、滋賀県では能登川地域の水路にあった階段式のものに似ていますね。それらの多くは、昭和30年代以降の自動車の普及とともに埋め立てられて道路になったわけですが。

第3部 魚と湖 ─漁にみる湖との暮らし─

 ここFでは漁業で用いられている漁具と捕れた魚介類の料理を紹介しています。太湖や洞庭湖でエビを捕る漁具、浅い水辺や田んぼの中や水路でタウナギを捕る漁具など、さまざまな伝統的な漁具が並んでいますが、多くの漁具は、太湖、洞庭湖、琵琶湖でよく似ています。中国の場合、漁具の素材が化学繊維などに変わってしまっているので、琵琶湖の方が昔の古い形を残しているものもあります。

──タツベ、モンドリなどの漁具や定置網のエリは、日本にいつごろ伝わったのですか。稲作といっしょに来たのでしょうか。

 それが、これまでの研究では不明なんです。米づくりほどは古くはないようです。それほど古い遺跡からは出土していません。

──つづいて、それぞれの地域の伝統料理が展示Gされています。中国では、海の魚よりも淡水魚の消費量が多いのだそうですね。じつは、今日のために調べるまで上海ガニは淡水のカニだということも知らなかったのですが。

 上海ガニ(チュウゴクモクズガニ)は、太湖の東にある淡水湖、陽澄湖(ようちょうこ)で養殖されているものが最高級品とされています。上海ガニのサンプルも展示しています。最初にできあがってきたものは、一応カニには見えるんですが、生物系の学芸員から、「これでは別のカニだ」という指摘があって作り直してもらいました(笑)。

 展示写真は、江南地方の飲茶の料理で、休憩時間などにみんなで楽しむものです。魚の形をしているのは、お餅のような感じです。緑色の葉で包んであるのは、豚肉と粘り気のあるお米のオコワが入っているチマキです。この展示は、女性や小さなお子さんも興味があるかと思います。

展示パネルの前で食文化について説明する楊さん

展示パネルの前で食文化について説明する楊さん

──どれもおいしそうです。料理の見た目は、琵琶湖は地味な印象で、似ていませんね。中国の魚料理は、蒸したり焼いたりしたものが主体で、フナずしのような発酵食品の文化は太湖周辺にはないようです。別のルートで伝わったということでしょうか。
 そして、展示室の中央には大きな船が展示Fされています。

 「家船(えぶね)」の原寸模型です。最も湖に近いところで暮らしている彼らの生活を、できるだけリアルに、具体的に紹介する展示をめざしました。船尾の方が生活スペースで、食事の煮炊きをする道具もあります。船室の屋根の上は涼しいので、夏にはここで寝ころんでお休みしたりします。そして、船首の方は漁をするためのスペースです。

 「家船」というのは日本の民俗学で用いられてきた言葉ですが、こうした船を居住空間にしている人々が太湖周辺に5万人ほどいるといわれています。現在は陸地に土地も持っていて兼業農家のようになっている人々もいますが、本来は漁業を生業としていて、朝起きてから寝るまで生活のほとんどを水上で過ごす人々でした。飲み水も湖から取るし、洗濯もする。

 日常用具の多くは手作りですし、例えば、ご飯をつくる場合、カマドで火を起こす燃料が必要ですね。そのため、水辺のヨシの手入れや刈り取りなどをして、それを燃料にします。

──家船に暮らす人々は、太湖に特徴的なのですか。

太湖周辺で暮らす漁民たち

太湖周辺で暮らす漁民たち(撮影/楊平)

 太湖だけではありません。洞庭湖にも昔はいました。あとは、長江にも住んでいました。香港の近くにも同じように船で暮らす人たちがいました。

──琵琶湖でも、そういう例はあったのですか。

 琵琶湖の場合、さまざまな物資を積んで菅浦(すがうら)や大津などの港を行き来した丸子船では、一時的に寝泊まりをしていたそうです。

──太湖の家船は、動力はついていないのですか。

 ついていません。かつては帆で走りました。大きな帆柱が6本ぐらい立っていて、漁師さんたちは風向きを読んで、今日はどこへ行って、どんな漁をするかを決めます。彼らは、この船とは別に、あちこち移動するための小さい船もいくつか持っています。

──家船で魚を捕ったら、どこか市場みたいなところに持っていくのですか?

 そうです。魚市場へ持っていく場合もありますし、朝一番に漁に出た家船が帰ってくる8〜9時ごろに、定期的に買いにくる業者もいるんです。彼らが町へ売りに持っていったり、あるいは家船で暮らす人々は農家と密接な結びつきがあるので、米と魚を交換したり、売買されるルートはいろいろあります。

第4部 米と湖 ─農にみる湖との暮らし─

──そして、次の区画へ向かう通路には、何か置いてあります。

巨大なタツベ

巨大なタツベ

 巨大なタツベIです。魚の気分で入ってください。本当は出られなくなるのですが、反対側に抜けられるようになっています。

 次の区画では、それぞれの湖周辺の農業を紹介しています。
 まず、最古の稲作遺跡ではないかといわれている7,000年ぐらい前の水田跡や集落跡Jを紹介しています。その向かい側は、太湖周辺の水田農業の解説です。農具の模型を置きましたが、これも琵琶湖周辺で使われていた農具と非常に似ていています。

──あれは、唐箕(とうみ)ですね。名前のとおり中国から伝わったので、日本と同じ形です。その奥はなんですか?

 水を高いところへくみ上げる竜骨車で、これも日本の農村でも普及しました。

 こちらの壁面Kは、太湖の近くで行われている養魚(淡水魚の養殖)を紹介しています。2種類のやり方があり、一つ目は太湖の北側の江蘇省で行われているやり方です(パネル1)パネル真ん中に水面が見えるのが養魚池で、手前にヒシの池があります。それとは別にハスの池があります。そして、イネが生えている田んぼがあります。まず、小さな稚魚をヒシの池で飼います。ヒシの葉っぱが稚魚のエサになります。育ったら、大きな養魚池に移します。季節が夏になったら、日よけの効果があるハスの池に移します。ハスの葉っぱが影をつくり水温が低く保たれています。

 こうした魚の移動と別に、水も移動させます。田んぼの用水はこっちの養魚池から持ってこれるように細い水路がつくってあります。つながっているので、田んぼの中に稚魚が入ってくることもあります。これは「複合的養魚」と呼ばれます。

 もう一つのやり方は太湖の南側の浙江省で行われているもので(パネル2)、そのまま田んぼの中に魚を放しています。ですから、この田んぼは無農薬で、年中、水が張られています。

──乾田にしないのですね。浙江省(せっこうしょう)側は山間地なのでしょうか、棚田になっています。

 そうです。地元では、この棚田の近くにある川から自然に魚が田んぼに入ってきて始まったと伝わっています。1000年以上の歴史がある水田養魚として、FAO(国際連合食糧農業機関)によって世界農業遺産に認定されています。日本でも石川県の「里山里海」などいくつか認定されていますね。

──赤い魚ですが、コイですか?

 はい、コイの一種で、「田魚」と呼ばれています。観賞用ではなくて食用です。中国では赤はおめでたい色なので、高級食材とされています。

──その次のパネルは琵琶湖の農業、一般的な日本の米づくりで、その次に洞庭湖の農業が紹介されています。

 洞庭湖の農業(パネル3)は、水位変動が激しいので、それに合わせて農作業を行うという特徴があります。一部では、いまでも機械化されておらず牛を使っています。田の畦にいろいろな野菜を栽培しています。田んぼの水路では、タウナギを捕ります。

──ニワトリもいたりして、日本人が見ると懐かしい風景ですね。

 江南地方は、米と魚以外に養蚕もたいへん盛んな地域です。昔は、カイコの蛹や糞を魚のエサにして循環させていましたが、今は変わってきています。

──その向かいには中国の民族衣装Lと等身大のイメージキャラクターがあります。

 お子さんだけですが、中国の民族衣装に着替えてもらって、今回の企画展のキャラクター・愛湖(あいこ)ちゃんといっしょに写真を撮ってもらえるようになっています。愛湖ちゃんは、子供たちに少しでも湖に関心をもってもらいたくて私が考えました(笑)。

──どうしても、竹生島の弁天様を思い出してしまうのですが……。

 中国でも、弁天様は水の神様ですが、弁天様ではありません(笑)。

第5部 湖と暮らしの未来へ ─エピローグ─

 そして、最後のコーナーMです。昨年は、滋賀県と湖南省が友好提携を結んで30周年でした。湖南省から訪問団を迎えて琵琶湖上のビアンカなどで記念式典が行われたほか、水質保全技術に関する交流の覚書が交わされました。その際、滋賀県に寄贈された壺などを展示し、琵琶湖博物館と湖南省博物館の協力関係などについても紹介しています。

──中国は、いま経済発展が進むなかで、特に太湖周辺では工業化や都市化が進み、水質の悪化が問題になっているそうですね。

 そうした変化に対して、中国であろうと、日本の琵琶湖周辺であろうと、人々が感じることは共通しています。みんな、きれいなものをきれいだと思っていて、子供の頃から親しんできた風景を残したい、水もこれ以上汚してはいけない、生き物や緑も残したいという感覚は同じだと思います。

 滋賀県のキャッチコピーに用いられたことから、琵琶湖を「マザーレイク」と呼ぶことがありますが、中国語にも「母親湖」という同じような言葉があります。やっぱり「母なる湖」という意味なんです。

──水辺というのは生あるものを生み出す場として、考えられてきたのでしょうね。その点は水田も同じです。

「魚のゆりかご水田」観察会

6月21日、野洲市須原の「魚のゆりかご水田」観察会では、参加者が多くのフナやコイ、ナマズを捕まえた(撮影/辻村耕司)

 そうですね。先ほど展示を紹介したように、江南地方の水田では、昔から魚とイネがいっしょに生きるような環境ができていたのです。けれども、時間がたって環境が変わっていくにつれて、そうしたやり方は一般的ではなくなろうとしています。何千年という歴史、伝統があるのに、いったん消え去ると、もう一度取り戻すのにはたいへんな時間と労力が必要になります。

 これは滋賀県、琵琶湖の周辺でもいえることで、いま、琵琶湖周辺の田んぼを使って、「魚のゆりかご水田プロジェクト」という取り組みがあります。人と生物、あるいは湖との関係を取り戻そうという試みです。魚が産卵のためにのぼれるよう水田の水路に魚道をつくっているわけですが、実際、何を取り戻すのかといえば、人と環境の距離なんですね。水路をさかのぼる魚を日常的に目にする。子どもが、田んぼに入って魚をつかむ。ある時期から失われた、そうした関係を取り戻す取り組みになっています。
 こうした環境との距離感は、ほっておくと維持されないものだろうと思います。琵琶湖の周りと同様、太湖の周辺でも時代とともに暮らしの環境も変化し、水路や水との関わりが薄れていっています。

──滋賀県でも、琵琶湖が生活とは切り離されている感じがあります。

 例えば私が高知に住んでいたときは、「ウツボのたたき」といって、ウツボの身にちょっと火を通した半生っぽいものを食べました。あれも、高知でなければ、ヘビみたいで、顔も怖いし、わざわざ食べようとはしないですよね。地元産の普通の食べ物として出てくるから、子供の頃から何の疑問も持たずに食べて、実際おいしいという記憶が残る。だんだん、そういう状況がなくなってきているように思います。人との接し方でも、実際に会って話すのと、ネットで読んだ情報やメールのやり取りだけですますのとは違います。湖や水田などとのつき合い方も、実際に触れるよりも、情報が先に来てしまっているように思います。

──今回の企画展を担当なさって、どんな点が難しかったですか。

 湖と暮らす人々の「知恵」をどう表現するかという点ですね。

 社会学という分野で、湖との暮らしを展示して、来館者にわかるように表現するということは非常に難しいと実感しました。魚や昆虫の展示なら、活動範囲が限定されているので、模式図にすることもできますが、人間の暮らしというのは、多方面に広がっている、ある意味で目に見えないものなので、その辺をどう表現をするか。どうやって伝えればよいのか悩みました。

 しかも、伝えたいのは固定された生活様式ではなく、昔に比べて湖がこんなに変わった、それにつれて人々の暮らしも変わってきているという側面なので、正直、まだうまく伝えられていない部分があり、今後の課題として進めていきたいと思っています。

──準備中に印象に残っていることはございますか。

 昨日、家船が壁に寄りすぎているというので、職員全員に集まってもらって動かしたんです。手をかける部分がなくて、人力で持ち上がるとは思えなかったのですが、力を合わせることの重みを実感した瞬間でした(笑)。また、地元の多くの方々のお力をお借りして企画展示の開催ができました。心から感謝しております。

──本日は準備中のお時間をさいていただき、ありがとうございました。
(2014.6.22/7.12)


編集後記

今号では、担当学芸員さんに企画展示を解説していただきました。スペースの都合で、琵琶湖周辺の水場や漁具など、言葉による説明はあれども写真はないものがいくつかあります。ぜひ展示で現物をご覧ください。(キ)


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