新館オープン記念 特別企画展について 清朝後期は動乱の時代でありながら、華やかな書が活発に交換されていました。観峰館学芸員 寺前公基さん

特別企画展HP:http://www.kampokan.com/exhibition/1535.html

「公開承認施設」の認可を目指した新館

──まずは、新館が建設された経緯をお話しいただけますでしょうか。

 開館20周年を今年の10月で迎えるというのが一つと、平成24年4月に公益財団法人の認可を受け、博物館として、もっと地域に密着した活動を行おうとする場合、それまでの当館の施設では十分な環境が整えられていませんでした。

 そこで、温湿度管理が徹底され、重文なども含めた指定文化財でも、多館から借用する作品でも受け入れることができる収蔵庫と展示室を備えた新館を建設したわけです。将来的には文化庁による「公開承認施設」の認可を目指しています。

──外観や内部の特徴はなんでしょうか。

 鹿島建設のデザイナーによる設計ですが、開放的なエントランスで、エントランスからすぐに展示室に直結するようになっています。これまでだと、広い空間の中に、どこにメインの展示室があるのかわかりにくいという欠点があったので。

 また、作品の移動を考え、デッドスペースのないシンプルな造りを基本にしています。これまでは入り組みすぎていたので、逆に平屋建てのシンプルな造りで、いわゆる博物館らしさを出しています。

皇帝としての教養を示す溥儀の書

─最初の企画展に、「華麗なる清朝後期の書画」をテーマに選ばれた理由は。

 当館のコレクションのメインは中国書画で、その中でも多いのは、清朝後期から中華民国の初期のものです。つまり、清朝後期は、コレクションの一番核となる作品が多い時代です。さらにその清朝後期のキーパーソン、誰でも知っている人物といえば、ラストエンペラーの溥儀※6でしょう。そこで、日本に数点しかない溥儀の書のうち2点を、それぞれ東京国立博物館と早稲田大学會津八一記念博物館からお借りして、溥儀を中心に展覧会を組み立てました。

 当館コレクションの中には、東博所蔵の溥儀の「楷書七言対聯」と同じような、対聯(掛け軸で対になっているもの)の蝋箋という非常に華麗な作品が多いので、溥儀を中心に、動乱の時代ではあったけれど、華やかな作品が多くつくられていたという文化面での特徴を紹介できればと思います。

──紙が赤や青など色とりどりで、一般的な書の展示とは印象が違いますね。

 そうです。この蝋箋という紙は唐の時代から作られていたものですが、特に清朝後期によくつくられ、活発にやりとりされたものなんです。蝋箋は、基本的に贈り物用に使われるので、たいていは右側の部分に誰に送ったかということが書いてあります。

 じつは、今回の展示品のような大きな蝋箋は作り方の技術が継承されなかったために、いまではつくれないんです。その点でも、清朝後期特有の作品たちだと言えます。

 書かれている文字は、蘇軾などの有名な詩人の漢詩の一節であることが多いですが、自作の詩を書く場合もあります。

 作品には、結婚や引っ越しをお祝いする意味を込めたものがあり、きらびやかな蝋箋がお祝いの気持ちを一層引き立たせます。注文主や贈る相手の趣味で色を選んだのだろう作品も多く、日本人の感覚からすると、「えっ?」と思うものなど、本当にいろいろな色使いがあります。

──展示される溥儀の書には何が書かれているのですか。

 一つには、杜甫の詩が書かれています。「過去を振り返ったら、すごく楽しかったな」という内容の詩なので、ちょっと意味ありげでしょう。

 もう一つの東京国立博物館蔵の作品は、完全に自作詩で、おそらく溥儀の名による書を求められて書いたものだと思います。

 両者ともとてもしっかりした整った書で、溥儀は『ラストエンペラー』(ベルナルド・ベルトルッチ監督、1987年)という映画などのせいで、奔放な人物というイメージがありますが、皇帝としての嗜み、基礎教養をしっかり身につけた人だったことがわかります。

 中国の科挙という役人の試験でも、尊ばれる字というのは、王羲之を中心とした、誰が見てもきれいでバランスのとれた字でしたから、その点は溥儀も同じです。

──新館を利用した今後の企画展は、すでに決まっているのですか。

 この後の来年2〜3月には富岡鉄斎の展覧会を予定しています。今回は中国のものがメインでしたから、次は日本の作品ということで、他館からお借りした作品も交えながら展開していきたいと思っています。

 将来的には、当館のある東近江市内の貴重な文化財を展示し、市民の方々に気軽にご利用いただける施設になりたいと思っています。

──企画展準備でたいへんお忙しいところ、ありがとうございました。
(2015.9.4)


※6 溥儀  (1906〜1967)清朝最後(第12代)の皇帝。宣統帝。辛亥革命で退位し、満州事変後の1934年、日本に擁立されて満州国皇帝となり、康徳帝と称した。



編集後記

滋賀県は「明治の三筆」のうちの2人、日下部鳴鶴(彦根市)と巌谷一六(甲賀市)を生んだ地であり、観峰館は彼らの書も所蔵しています。彼らと親交をもち、その書に影響を与えたのが、明治初期、駐日清国公使の随員として来日した楊守敬。書の歴史は日中交流の歴史でもあります。 (キ)


ページ: 1 2 3 4

連載一覧

新撰 淡海木間攫

Duet 購読お申込み

ページの上部へ