座談会:近代滋賀の教育人物史

滋賀県教育史研究会の設立・活動休止・再興

──今回刊行された『近代滋賀の教育人物史』の内容に入る前に、滋賀県教育史研究会の成り立ちをご説明いただけますか。

木全 平成9年(1997)に研究会を設立して『滋賀県教育史研究』という紀要を1号だけ出しました。フィールドワークで近江八幡の学校巡りをしたり、3年ぐらいはいろいろやったんですが、大学院生などの学生主体だったので、卒業して人が入れ替わったりすると、なかなか継続的な活動は難しく、休眠状態になってしまった。

宮坂 8年くらい活動休止期間があったようで、滋賀県の大学に着任した僕が久保田さんと相談して、会を再興させようじゃないかという話になり、木全先生をご紹介いただきました。

 そして、平成21年(2009)3月に活動を再開させ、定期的な研究会を催すようになりました。

久保田 宮坂先生もすでに教育史の専門研究者でしたが、滋賀県というフィールドでは、木全先生が第一人者でしたから。私は滋賀大学で木全先生に教わりましたし、教員の時代に滋賀大の大学院で学んだ時も助言をいただきました。

坂尾 僕も現職の教員でありつつ、滋賀大の大学院生として入会しました。だいたい2か月に1回、JR大津駅前にある滋賀大学のサテライトプラザで研究会を行い、フィールドワークもこれまでに2回ありました。甲賀市と東近江市に行きましたね。

宮坂 滋賀県師範学校の講堂が甲賀市信楽町に移築されて、「谷寛窯」という信楽焼の工房になっているんです。そこを見学させてもらいました。

木全 例えば、今は近江八幡の観光案内所になっている白雲館も、滋賀大に来た昭和59年(1984)頃に初めて見て、これは学校に間違いないと思ったけれど、当時は屋根がつぶれ、壁も落ちそうなひどい状態でした。地元で保存運動が起こり、改装したのはいいけど、内部が観光案内所というのは私からするともったいない。学校資料館にしたらよかったのに。

 近江八幡には、明治初期・中期、大正、昭和初期それぞれの学校建築が残され、近江兄弟社の幼稚園まである。八幡の学校建築巡りとかしたら、見るところがいっぱいある。

教育関係資料の豊富な滋賀県

──滋賀県は、教育・学校関係の資料が残っている方なのですか。

木全 滋賀は県の行政文書、とくに明治期のものが豊富に残っている県です。

宮坂 空襲で焼けなかったことが大きいですよね。

坂尾 ただ、『滋賀県教育会雑誌』(のちに『近江教育』と改題)という滋賀県教育会が発行していた戦前の機関誌は、発行元のあった県の教育会館が昭和28年(1953)に火事になった時に燃えてしまって。

宮坂 だから、各号を所蔵している筑波大学や早稲田大学などに行って見せてもらわなければいけない。

坂尾 彦根市立図書館にかなり所蔵されていますが、スキャンしてデジタル化されたものでもよいので、すべて県内で見られるとありがたいんですけどね。滋賀県の教育資料なんだから。

池田 人物によっては県庁文書がほとんどなくて、個人蔵の資料が見つかったり、木全先生が足で集めて作成した資料目録があったおかげで書けた人もいます。

宮坂 栗東歴史民俗博物館(栗東市)にある里内文庫は目録も整備されているし、非常に便利です。

木全 里内勝治郎は、処分される県の書類を買い込んだり、書き写したりして個人で持っていたんだよね。すごい資料です。

池田 公文書が失われるのは空襲で焼けるだけじゃないんです。戦後でも昭和の市町村合併の時に、どこも保存するところがないから帳簿などを焼いています。盛大に焼いたから、「新しい役場が火事かと思われた」という話を聞きました。

坂尾 学校でも、増改築や統廃合があると、明治からの書類はなくなったり、行方がわからなくなります。平成の大合併になると、学校資料は合併後の市町の図書館に寄贈する場合もありますが。

久保田 生徒数が減って廃校になる場合、文書類は統合される学校へ送られますが、結局、ほとんどは処分されます。受け取った方で、保存するために倉庫の建て増しするような予算はありませんとなった段階でほとんど捨てられる。

坂尾 青年学校※1なんて、受け皿の学校がなかったから、資料がなくて研究がほとんどありません。

木全 ない。僕はこの前、伊香郡の青年学校を調べたんだけど、なかなか大変だね。でもたまに学校の中で見つかることがある。

坂尾 20年ほど前に信楽中学校の会議室の棚の上にあった開かずの扉を開けてみたら、青年学校の資料だったことがあります。

宮坂 校長がちゃんと意識していれば、資料は残っていくものですよね。長野県はそうです。滋賀県で資料が残っている学校というと、どこがありますか。

久保田 彦根東高校は金亀会という同窓会が資料館を建てて保存されています。明治初期の書簡資料まですべて残っていたので、『彦根東高百二十年史』をまとめられたんだそうです。県立盲学校も見事に残しておられた。今回の本の山本清一郎の部分は、ご遺族が残しておられた資料も使いましたが、その多くは盲学校の資料室にあったものです。木全先生に「行ってこい」と言われて、あまり期待しないまま行ってみて驚きました。こうした例は稀で、一般に歴史資料にとっては危機の時代でしょう。

宮坂 他府県では、学校の記念誌がつくられると、「もうつくったからいいよ」と、使った資料や、その他の資料までまとめて焼却処分されたという話も聞きます。

久保田 資料を燃やすのは校長ではなく教頭ですよ。今自分がその立場なので(苦笑)。年度末にした仕事の1つは、文書の廃棄です。みんなが、「これは捨てていいですか」と教頭に聞きにくるので、バッサリいってます。

木全 昔の教科書についてもそう。国定教科書が採用される明治36年(1903)より前の教科書はユニークなものが多いのですが、めったに残っていません。ところが、ある小学校へ行ったら、明治20年代のいろいろな教科の教科書が大量に残っていたんです。学校側は、「場所がないので、いらない」と言うから、「滋賀大にください」と言って、段ボール箱3箱くらいもらってきた(笑)。

宮坂 資料は本当に危機的な状況です。本書の関係で僕が3年くらい前に行って見せてもらった資料が、すでに所在不明になっていた学校もありますから。

木全 長浜の中村林一は、小学校の移転か何かの際に、学校資料を個人で保存しつづけたわけです。ご遺族が長浜城歴史博物館に寄託されて、中村林一コレクションとして20年以上前に整理を依頼されました。明治10年代後半から20年代、とくに教育令までの間の文書がたくさん残っていて、僕にとっては「宝の山」でしたね。

池田 公文書を個人の家に持って帰るなんてことは、今だと問題になるかもしれませんが、昔の人はそこが曖昧だったから。旧町村の行政資料が、村長や重役だった人の家にあることは多い。遺族の方は、「こんなものが出てきました。いけないことですね」とおっしゃるんですけど、「残していただいてありがとうございました。これは町史にとって非常に重要な資料です」と言って、もらってきたことがあります。

八耳 瀬田国民学校(大津市)の児童の絵日記の場合は、担任だった西川綾子自身が手元に置かれていて、亡くなった後に大津市歴史博物館に寄贈されて、平成28年(2016)に市の有形文化財になりました。

木全 結局残るものは、歴史に関心のある個人が残すんです。そのおかげで書ける。


※1 青年学校  昭和10年(1935)、実業補習学校と青年訓練所を統合して、全国市町村に設置された学校。小学校卒業の勤労青年に職業教育・普通教育・軍事教育を行った。


明治期──教育に力を注いだ県令たち

──では、ご自身のご担当以外で第1章の明治期ではどの人物が印象に残りましたか。

浅井 明治期の人物は、3人の県令から始まりますが、これは教育史としては珍しいのではないですか。

木全 あんまりないかもしれない。

浅井 ふつう明治初期の県令は、産業などに力を入れたはずで。教育に力を注ぐ県令は他の県にいるのかな。

宮坂 いますよ、長野県に。

一同 (笑)

馬場 初代県令の松田道之は内務行政の主流にいた人で、内務省では実力者でした。43歳で亡くなるのであまり知られてはいませんが。

宮坂 2代の籠手田安定はどちらかというと全国の方で有名です。逆に「滋賀で活躍した人だったの?」と言われたことがあります。

木全 そのとおり。牧民官(地方長官)として非常に有名です。ちゃんと地に足の着いたことをやる人で、明治9年(1876)の5月から8月の半ばまで3か月半も県下12郡の学校を巡回しています。引き受ける地元の側にしてみれば、接待の仕方や期日を調整するのが大変だっただろうけど。

馬場 この時期の自署率調査も貴重ですよね。

木全 文部省が各府県に依頼した調査で、男女とも6歳以上を対象に自分の名前を書けるか書けないかを調べさせた簡単なものだけど、明治の初めから継続して残しているのは滋賀県だけです。

馬場 籠手田が県内を巡回した頃というのは地租改正事業が全国的に本格化する非常に忙しい時期で、教育方面に力を割いたのは珍しい。

池田 久保田さん担当の外村省吾もおもしろい。彼が彦根で教員を養成する仮教員伝習所を構想したのは、おそらく旧彦根藩士族の子弟に対して何ができるかという思いがあったのだろうと思います。士族は秩禄処分で没落したようにいわれるけれども、警察官や教員など、就職先を確保するために士族側でもいろいろ動いていました。

久保田 僕の見立ては、彦根学校の設立は、彦根という町の近代化に向けた取り組みの1つというものです。旧彦根藩士族が製糸場や鉄道をつくったりして彦根地域を近代化するなかで、外村はいわば「彦根の文部科学大臣」として教育による近代化をめざしたと考えます。また、彦根という町についてさらに言うと、彦根の学校を大事にし過ぎて、滋賀県の他地域と対立する傾向もみられました。明治時代の滋賀県会(現在の県議会)で彦根学校を県立化する際にも他地域の議員から反発を受けています。

池田 木全先生が担当なさった正野玄三は日野で「学区取締」を務めた人物ですが、以前は学区取締といったものは単なる名誉職だぐらいに思われていました。それが当時の資料をもとに、非常に多忙な職務だったことがわかったんですね。家業の薬屋のかたわら、小学校の卒業試験に立ち会ったり、蒲生郡内を飛び回っています。『近江日野の歴史』第4巻の木全先生のご担当部分とあわせ、ここまで学区取締の実態を紹介したのは初めてではないでしょうか。

──1章で他にございますか。

宮坂 彦根の辻勝太郎が書いた『高宮小学校沿革誌』の自序に引かれた中国の歴史書『史記』にある言葉は、いいですよね。「前事を忘れざるは後事の師なり(以前のことを心に留めておくと、後にすることの役に立つ)」。学校の将来のために歴史を残すんだという自覚があったことがわかる。

大正期・昭和初期─女性の活躍と障害児教育

──つづいて、2章の大正期・昭和初期はいかがですか。

馬場 僕は自分の力で道を切り開いていった個性的人物、とくに中野冨美のような女性を何人か紹介したことが、この本の特長じゃないかなと思います。

八耳 中野冨美は、バックは誰もいない草津の商家の娘。東京で裁縫を本格的に習い、京都へ出て裁縫塾を立ち上げたんだけど、夫が亡くなって本人も病気になり、帰ってきて大津で新しい塾を開く。子育てをしながら、再婚はしますが、孤軍奮闘といってよい中で出資者を得る。出資者の家族の回想を読むと、しょっちゅう頼みに来るので、子どもだった自分にとっては嫌で仕方なかったと書かれている。結局、熱意に打たれてお金を出してもらえることになるんですね。

池田 同志社大学の先生に聞いたんやけど、創立者の新島襄は金を集めるのがとてもうまかったとか。

八耳 やっぱりそういう才能が必要なんでしょうね。戦争中に純美禮学園は財団法人化するんですが、その時に東洋レーヨンのトップが協力しています。

久保田 教育者であると同時に実業家でもなければならない。

木全 あんまり実業家然としていても嫌だけどね。

浅井 私は塚本さと一柳満喜子など、女性の教育者を担当しましたが、やっぱり人脈がものをいうところがある。この2人の場合はもともと名家の生まれですけど、学校を建てるにあたって、中央の教育者とのコネクションづくりも熱心にやっているなと感じました。一柳満喜子でいうと、兄の恵三が広岡家に婿入りしたので、大同生命などからお金が出ていたり、広岡浅子の実家の三井財閥からお金が出ていたりします。

木全 私立は普通もっと早く潰れるからね。大正時代に新教育をやっていた学校は、設立者は一生懸命だし、協力者も現れるんだけど続かなかった。一番の問題は財力。近江兄弟社はとても珍しい例で、相当テコ入れがあったと思う。

浅井 一柳満喜子はアメリカに留学経験があったので、アメリカ人のハイド夫人から寄付金をもらい、新しい園舎を建てると同時に新教育を取り入れます。日本でも新教育の流れは全国的に起こりますが、多くは小学校の場で、幼児教育に取り入れているのは独特なところじゃないかと思います。

木全 この時代に、幼児教育で「自主」、「自立」とか言っているものね。

浅井 それは今もです。うちの子たちが近江兄弟社のこども園に通っているんですけど、自主性をすごく大事にしていて、2歳の娘も自分の用意は自分でするように言われる。自主・自立の精神が受け継がれているなと思いますね。

久保田 そう言われると、公立学校の方は伝統というか、過去の遺産を受け継ぐのが難しいように思います。私の勤務校(中学校)の校区内に愛知川小学校があるんですが、河村豊吉によって昭和初期には国語教育のメッカだったけれど、今の同校の先生方にお話ししても、「へえ、知らなかった」という反応が返ってくる。

木全 前川仲三郎が勤めていた高島郡の百瀬小、現在のマキノ南小学校に資料を探しにうかがった時も、こういう人物がいてこういう国語教育をしていたことを校長先生はご存じなかった。非常に興味をもたれて、逆にこちらが持っていた資料のコピーをすべてさしあげました。

坂尾 山本清一郎西川吉之助は、「福祉の滋賀県」という面で、それぞれが作った学校には大きな意味があるのでは。

馬場 山本と西川に関する準備報告を聞いた時に、この本はおもしろくなると思いました。障害児教育の歴史は、一般的な通史では、初等・中等教育から区別された周縁の歴史として扱われる。しかし本書のような人物史の場合、それはむしろ教育の本質を鮮明に語るのだと思いました。さらにいえば、滋賀県の教育界が誇ってよい歴史を、本書は明らかにしたと思います。

池田 聾者(聴覚障害者)の教育に私財を投じた西川吉之助の場合は、資料的には具体的な金額などは全然出てこない。滋賀大学経済学部附属史料館にある西川家文書を見ても、聾話学校の記載はほとんどなく、今回の本で使った親族会議の資料が1点あったくらい。たまたま尾張徳川家の侯爵、徳川義親と知り合って、かなり大きな力にはなってくれるんだけど、結局最後は借家住まいになって自殺してしまう。

木全 時代の流れをいえば、明治33年(1900)の第三次小学校令で心身障害児に対する就学義務猶予・免除が書かれます。要するに、「学校へ来んでもいい」というわけ。義務教育から省かれた存在だった彼らに、大正時代から昭和初期にかけて目が向けられるようになる。それは「学問はいらない」と考えられていた女性に対しても同じで、大正半ばから高等女学校もふくめて女子教育が広がっていきます。

八耳 西川吉之助の娘で聴覚障害のある西川はま子は、谷騰や一柳満喜子など、いろんな人物と関わりますよね。谷がつくった私立昭和学園のことを私は知らなかったのですが、あの学校の精神は、その後継承されたんでしょうか。

昭和学園の生徒たちと谷騰

昭和学園の生徒たちと谷騰(『御大典記念 滋賀県小学校職員大写真帖』より)

木全 戦争中については、谷と西川の娘の昌子(はま子の姉)が近江兄弟社に入って、次男も職員になっていますね。
 公立学校へ行けない子を引き受けた昭和学園は、最近注目されている健常の子と障害のある子が一緒に学習するインテグレーション教育の走りともいえる。学習計画も生徒自身で立てるから、例えば、染織家の志村ふくみの兄で画家となった小野元衞は、ここに入学して絵ばかり描いていたわけ。近江八幡市立図書館に残っている画集を見たけど、これがまたすごい。

浅井 昭和学園が知られていないのは、これまで私立学校の教育を調べる研究者がいなかったせいでもありますよね。

木全 それは僕が反省すべき点でもあるんです。学校史は公立校が中心になって、私立の学校はほとんどふれない。例えば、京都の平安高校は、もとは彦根の藩校弘道館の跡地に、寺の子弟を教育するために創立された「金亀教校」という学校だから。それが京都に引っ越した。

──へぇ、そうなんですか。

木全 あまり知られてないよね。他に今回の本でも欠落しているのは、働きながら学ぶ子どもたちが通った実業補習学校やさっきも出た青年学校について。戦前、中学校や女学校へ行けたのは全人口の4分の1か5分の1ですよ。僕の両親もそうですが、ほとんどの子は小学校6年、ないしは高等科まで行っても8年で働きに出た。そういう人たちが夜間や季節限定で学んだ補習学校についてはほとんど資料が残っていない。

久保田 よく知られた近江絹糸(彦根市)の労働争議にしても、中心は自社経営の学校や市内の高校(ともに定時制)で学んでいた10代後半の若者たちですよね。

木全 もともとは、青年学校を義務化する時に、企業内の青年学校も義務化したんですよ。だから女子も工場内で学ぶ場ができた。それらが戦後、定時制の学校や企業の中の付属の高校になった歴史があります。

昭和戦前期──郷土教育の取り組みと国家主義への抵抗

──それでは、3章の昭和戦前期についてはいかがでしょう。

宮坂 昭和初期に郷土教育の先進的な実践校として全国的に知られた蒲生郡島村の島小学校の教員3人が重要ですが、担当している板橋孝幸さんが今日はおられませんね。

木全 1人目の神田次郎は、調べたことを地元の人たちに還元していくというか、全国一律の教育じゃなくて郷土に根差した教育をしようという立場。2人目の矢嶋正信は、そこから進んで書くだけでなく体験しようになる。座学から農業実習に重点が移って、米作に養豚やウサギの飼育を加えた多角的な農業経営を子どもに学ばせる。昭和初期の農村恐慌の後、地方の自力更生運動の中で全国各地でこうした「土の教育」が盛んになりました。

宮坂 今回の本にも載った、子どもたちが一生懸命学習園で働いている横で矢嶋校長が直立不動の姿勢で立っている写真が好きなんですよ。

木全 3人目の栗下喜久治郎は、滋賀師範を卒業してすぐに島小に着任した新人教員だったんだけど、神田・矢嶋校長のもとで郷土教育を実践し、20代前半の若さで全国的にも知られる教育者になっていく。東京の出版社からたくさんの著書を出し、生徒には「職員室でいつも原稿を書いている」姿が記憶されているというね。

──この時期の滋賀師範学校が優秀な教員を輩出していたともいえるのですか。

木全 神田と矢嶋は、明治の終わりぐらいの卒業生ですね。同世代の卒業生で今回の本では教育ジャーナリストという肩書きをつけた池野茂のコラムに書きましたが、明治の終わりの滋賀師範で校長を務めた山路一遊は、明治の人間ではあるけれど、かなり学生の意志を尊重する、自由にやらせるタイプで、生徒や職員からとても慕われていたようです。卒業生の中からは、自分で当時のいろんな思想を学んで実践する、多彩な人物が出ています。

八耳 歴史教育の村瀬仁市は、家が近くて、歩いておられるのを何回も見たことがあるんですが、こういうユニークな実践をされていたとは知りませんでした。生徒の「天照大神※2のだんなは誰や」という問いをきっかけに国史教材の問題点を研究していく。木全先生に聞いたら、「(師範学校)附属やから」と言われて、僕自身が附属の出身だから納得したんですが。エリート意識もあって昔から教師を崇め奉るというのではなく、試したり、困らせようとするところがある。

木全 そうそう。村瀬は戦後の回顧録(「教育回想私史」)で、ショックだったと書いています。普通の学校だと生徒は、疑念を持ちつつ言わないようなことでも、附属の生徒は言いますよ。

──それは神話から始まる戦前の国史は教えづらいですね。

木全 村瀬自身が、疑念をもっていてそのまま教えることに抵抗があった人だから。この人個人のセンスもある。戦後まもなくは適格審査ではねられた時期もありますが、最後は校長会会長を何年も務めた大校長です。長生きなさったので、もうちょっと早く知っていればお話を聞けたのですが。

久保田 八耳さんが担当した西川綾子は、NHKの番組※3でも取り上げられましたが、今回の本で絵日記が最後、唐突に終わった理由などを、より明確にしておられますね。彼女がキリスト教信者であったことと宣教師のニップ夫妻との関わりから。八耳さんは西川綾子の教え子でもあるんですよね。

八耳 僕が病気で休んだ時に、クラスの子らに見舞いの文章を書かせて届けてくださったり、優しい先生でした。『大津教会史』にはニップ夫妻に関する回想も寄稿しておられ、信仰心が強い方であったのは間違いないですね。

 これは書かなかったんですが、大津教会を立ち上げた矢部喜好という人は福島県の出身で、日露戦争時の唯一の良心的兵役拒否者として知られる人物です。2か月間牢屋に入って、その後、アメリカへ渡ってニップ宣教師と出会う。帰国後、膳所教会と大津教会を立ち上げます。満州事変が起こった時も、賀川豊彦※4らと一緒に武力で解決せず話し合えという声明を出しています。

池田 同胞教会はプロテスタントの中でもとくに反戦意識が強い教派。戦争中、すべてのキリスト教の教会が反対したわけではなく、むしろ協力的だったところが多い。

八耳 授業自体は、ちゃんと教科書どおり教えています。学芸会の演目は「楠公父子の別れ※5」だったり。そうかといって、鬼畜米英みたいなことは一切言わない。でも、児童たちがそういう意識を高揚させていったから、これはもう書かせる意味がないと判断し、絵日記をやめたのだと思います。


※2 天照大神 日本神話で高天原の主神とされる女神。皇室の祖神でもあり、戦前の国史教科書は、天照大神の物語が最初に置かれていた。

※3 NHKの番組 平成26年(2014)8月14日放送のNHKスペシャル「少女たちの戦争〜197枚の学級絵日誌〜」。

※4 賀川豊彦 (1888〜1960)キリスト教伝道者・社会運動家。兵庫県生まれ。著書に『死線を越えて』など。

※5 楠公父子の別れ 足利尊氏軍を迎え撃つため、桜井(大阪府島本町)で楠木正成と子の正行が別れたという『太平記』にある逸話。


滋賀県の教育関係の資料が集まってくる会に

宮坂 今日、お見せしたくて持ってきたのですが、これは、僕が浜野鉄蔵を書く時に使った資料なんです。ある日突然、先輩研究者の方から僕のところに送られてきて。その方が、東京の古書店で購入したものだけれども、自分が持っていても活用できそうにないから、滋賀で研究している私に使ってほしいと。

 何が言いたいかといいますと、研究会の活動を積極的に発信していくことによって、滋賀県の教育史関係の資料が自然とこの会に集まってくるような体制にしたい。

宮坂さんが先輩研究者から譲り受けた浜野鉄蔵に関する資料

宮坂さんが先輩研究者から譲り受けた浜野鉄蔵に関する資料

久保田 資料を処分するくらいなら、引き取りたいですね。

坂尾 いま、ちょうど小中学校の校舎の改築や、統廃合が増えているので危機的な状況なんですよ。残されていた資料は学校、もしくは地域の博物館へ全部まとめておくとかね。

木全 京都みたいに学校歴史博物館ができるとよいですね。どこか古い校舎を、校舎の保存も兼ねて学校資料の収蔵庫にするとか。管理は、退職した教員にボランティアでお願いして。

久保田・坂尾 やりますよ。

──本日は興味深いお話をありがとうございました。(2018.6.16)


編集後記

『近代滋賀の教育人物史』をお読みになった方からの連絡で、東近江市にあるお寺に神田次郎の碑があることが新たにわかったそうです。滋賀県教育史研究会に学校関連資料をご提供いただける場合は下記まで。(キ)
 滋賀大学教育学部 馬場義弘研究室
 〒520-0862 大津市平津2-5-1 TEL 077(537)7779


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