丸子船復活

 江戸時代を中心に琵琶湖で活躍した木造輸送船・丸子船が改修され、この春、遊覧船として復活することになりました。
 丸子船を買い取った元観光船船長の三上さん親子と、修復を手がけた船大工の松井さん親子にお話を伺いました。

▲表紙写真:大津市堅田の松井造船所で修復中の丸子船「丸子丸」

● 表紙の言葉 ●


 復活した丸子船はエンジンを搭載した「最新型」 。それでも船首近くに見える模様「ダテカスガイ」は、船体構造にはほとんど関係のない、昔からのダンディズムだといいます。非効率的ながら(だから?)カッコイイ。21世紀の琵琶湖には、そんな木造船がよく似合います。

座談会

1月24日(金) 午前10時~ 大津市・松井造船所にて

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松井三四郎さん
(松井造船所代表)
1913年生まれ。12歳頃から堅田の杢兵衛造船で修行を始め、20歳頃から棟梁。今では丸子船の建造技術を知るほとんど唯一の現役船大工。

三上亮一さん
(琵琶湖・丸子船保存会/まるみ遊船船頭)
1957年生まれ。元則さんの長男。畑違いのサラリーマン生活の後、2001年から丸子船の復活に向けて父を手伝う。

三上元則さん
(琵琶湖・丸子船保存会/まるみ遊船代表者)

1928年生まれ。琵琶湖汽船で観光船船長を務め、1981年退職。その後、丸子船保存会を設立し、丸子船の再生に尽力。

松井三男さん
(松井造船所造船責任者)
1947年生まれ。三四郎さんの長男。主に鋼船やFRPの船を手がけていたが、琵琶湖博物館展示用の丸子船建造の際に父を手伝い、伝統的木造船の建造技術を継承。


現役最後の丸子船を買い取って

▽丸子船を復活させようとしたきっかけからお話しください。

三上元則 この船を持っておられた湖北町尾上の山岡さんという方から、もう船の守りができないので処分したいと相談を持ちかけられたんです。50年以上前につくられた現役最後の丸子船なんですが、山の岩場で木材を出したりしておられたんで、船板が割れてるような状態でした。
 私も困りまして、とにかく松井さんに見ていただいたんです。

松井三四郎 港に浮いてるから底は見えへんし、突堤の端にひっついとるから、外からは見にくかったんですけど、底はもう保たんやろけどなあと思た。中のほうもちょっと見にくかったけど、うまく包まれて、わりあい状態がよかったね。三上さんも、でけたらなんとかしてやりたいということで、なおるもんならやってみようと思たんです。

三上元則 私は長年、観光船の船長として琵琶湖の天候に神経を尖らせてしてきましたので、こういう頑丈な船にはすごく魅力を感じるんですわ。いま琵琶湖で風速13~15m吹いたら、出て行ける船はなくなりましたのでね。100万円で買い取って、持ち金かき集めて2000万円まででなおるんやったらと思ったんですわ。

▽もう一度、走らせてみたいと。

三上元則 会社で30年余り毎日遊覧船を周航してて、お客さんは琵琶湖の本当にきれいなところを見て帰っておられないのではないか、という疑問もあったんです。自分の思いどおりに案内できたらという夢もありました。それに松井さんの素晴らしい技に感動したんです。

▽松井さんは船大工として何年になられるんですか。

松井三四郎 12歳で修行に入ってからやと70年か。丸子船を手がけたのは、修行中で5、6隻ですわ。木造船やったら数知れまへん、100や200やないからね。木造船のなかでも、この丸子は小さいほうです。

乗りかけた船は降りられない

▽実際に修復作業に入ってからは、いかがでしたか。

三上元則 柱ほどの厚さの舟板と底板をつなぎ合わせて、大きいハンマーで長い船釘 *1 を丸く打ち込む。この年齢でどこからそんな力が出るのかと恐れ入りましたね。

松井三四郎 大きな釘やったら、もう私らではちょっと打てへんけど(笑)。

▽三男さんはいかがでしたか。

松井三男 プラスチックと鉄の船の仕事が多くて、木造船の仕事は少なかったんで、勉強になりますね。

▽苦労された点は。

松井三男 特にないですね。

松井三四郎 以前に琵琶湖博物館に展示する丸子船を新造しましたやろ。あのときは琵琶湖中探して歩かはったあげく、私とこに担当者さんが来られたんです。丸子がどんなもんか知らなかったんで、まず船の模型をこしらえて見せまして。仕事の合間にぼちぼちと作業に入って1995年の3月に仕上げたんです。

三上亮一 そのときの様子をビデオで見せていただいたんですが、素人が見ても一からつくるより修復するほうが大変だと思いますね。今回は腐っている部分を切り取って、新しい板をパッチワークのように入れてていくわけですよ。ほとんど流木のような状態の船をここまで形にされたんです。三男さんは「苦労はない」とおっしゃいましたけど、これはすごいことですよ。

▽材料の調達も大変だったのでは。

三上元則 底板には樹齢200年以上で、船の長さ以上のスギの大木が必要でね。

松井三四郎 250年から300年になってますよ、みな。

三上元則 ああ、300年。それも、芯の赤いところしか使わんのですからね。

松井三四郎 なかなかスギの大きなもんがないでね。これは京都市左京区の北山杉ですわ。

▽スギのほかには、どんな木材を。

松井三四郎 部分によって、スギ、ヒノキ、ケヤキ、マキのだいたい4種類を使い分けます。スギやヒノキは近くにありまけど、マキは岐阜の御嶽山にしかないんです。昔は高野山にもあったんですけど、いまはもう観光地になってしもて、お寺さんにしか残ってない。そやけど、そこは絶対に切れんからね。

三上元則 船室の窓枠ひとつにしても、50年間大事にしておられたケヤキの立派な木を使ってるんです。あの窓枠に使えるケヤキは、全国どこ探してもないんですよ。輸入で安いケヤキは入ってるけどね。ほかにも、松井さんの造船所にいっぱい積んであった宝物のような材木をほとんどこの船に使っていただいてね。

▽資金的にもかなりかかったのでは?

三上元則 なおしていくうちに悪いところが見つかってくるんでね。2000万の予定が5000万に膨らみましてね。借金しても、とても足りない。そこで保存会を結成したんです。名誉会長は滋賀大学名誉教授の岡本巌先生で、会長は最近まで県の建設協会の会長をしておられた杲馨さん。会員は45人ほどで、なかには協賛金を寄付していただいた方もおられます。
 私も何べんも挫折しかけたけど、途中でやめるのは松井さんの名誉にもかかわるし、松井さんにも「金のことを言うとったらできあがらんので、行けるとこまで行こう」と言っていただいて、三男さんには手間代なしでやっていただいてるんです。もう言葉では言い尽くせないほど感謝しています。

松井三四郎 「乗りかけた船は降りられない」でね。

唯一の船大工による唯一の船

三上元則 もともと丈夫な丸子船なんですが、さらに安全性を保つために肋骨やキール *2を入れたりして旅客船と同じ構造になっています。運輸局の小型船舶機構で検査を受けたんですが、長さ12m以上の木造はこれまで検査の実績もなく、全国でこの船1隻だけですねん。しかも客船となったら世界で1隻かもしれません。

松井三四郎 船大工も、琵琶湖の範囲では10人ぐらいいると思うけど、12m以上の船を作る免許はもってはらへん。全国でも自分1人ですわ。

三上元則 人間国宝になってないのが不思議ですね。しかも丸子船は琵琶湖だけにしかない固有の木造帆船ですよ。そんな希少な文化財を12歳から90歳まで手がけてはる。この船は百石船で60キロの米俵が250俵以上載せられるんですが、松井さんはその倍の二百石船をつくる技術をもっておられるんですよ。その技術の継承に対しても、行政なりが支援すべきやと思うんですけどね。

松井三四郎 たいていの免許やったら学科だけで取れるけど、木造船は13年間の実務経験がなかったら取る資格がないんです。海運局で調べてもらったら、息子は30年も木造船をなぶってるからもう試験も何にもないということでした。

三上元則 審査できる人がいてへんので試験のしようがあらへん。大学の工学部でも、こんだけの船の設計や造船技術を教えられるところはないでしょう。三男さんは丸子船の技術もしっかり受け継いではりますし、鋼船もつくっておられるんです。

松井三四郎 滋賀県で鋼船設計の1級免許をもってるのは息子だけですわ。大阪にもあまりいないし、琵琶湖やったら500トンまでの船なんで、3級免許があれば十分なんですけどね。

三上元則 ああ、ほんと言うたらね。

▽1級は、何トンまで。

松井三四郎 船のトン数のある限りです。

松井三男 でも、後継者がないでね。船自体の需要が少なくなっているんですよね。

松井三四郎 琵琶湖という、これだけの湖があるんやから、一人もないちゅうことではね、どうもならんやろうと思うんですね。

松井三男 それは思うね。琵琶湖があるかぎり船はいんねやから。

松井三四郎 いまの状況では、孫に「おまえ後を継げ」てなことを言えない。県のほうでもね、何をするにも、もちっと楽にでけるようにね。どんな商売でもでけるようにしたげてくれたら、また船も出るやろと思うね。漁船にせよ何にせよもうちょっと盛んになるよう、後継者の育成にも力を入れてほしい。

三上元則 船の修復にしても、もう個人でやるのは懲りました(笑)。こんなアホなことする人間はもういないでしょうから、やはり行政の支援があればと思いますね。

三上亮一 私も丸子船が琵琶湖固有の船だということは知識としては知っていましたが、実際に松井さん親子の技を見ていると本当に実感しました。技術を伝承されてる方も松井さんらしかいなくて、琵琶湖固有ということは地球上にここしかないっていうことになるわけなんですよね。
  そう思うと、琵琶湖に適した船に進化させていった先人の知恵や、丸子船そのものの無駄のないスマートさにも魅力を感じはじめました。それでいて、ダテカスガイ *3といった粋な飾りもある。

▽ダテカスガイというのは。

三上亮一 舳先の側面にある黒い虎模様っていうんですかね。ファッションというか、昔の人のこだわりが感じられます。

▽丸子船固有のものなんですか。

松井三四郎 いや、堅田や坂本あたりだと、農家が使う船にもあるけどね。ヒラカスガイともいう銅板で板をつないでるんです。誰が発明したか知らんけど、船体構造としてはこれという役目のない飾りですわ、いわば。

三上亮一 もうひとつ感じたのは、生態系ががらっと変わってしまって琵琶湖固有の魚たちも消えていく運命になってきている。その固有の魚と固有の船というのがオーバーラップしてきたんです。

三上元則 ほんまに琵琶湖は変わってしもたねえ。昔は浜大津の水でも米かしてね、小便した横で汲んだ水でお茶を沸かしたりしたけど。魚のアラとか食べ残しがあったら、ほかすというより、もったいないから魚の餌にしたり、そういう循環があったんやけど。
 でも、いままでの経験から見て、これ以上汚さなかったら琵琶湖はある程度、昔の姿、水質に戻るような気がするんですよ。何十年ほど経ったら自然と琵琶湖の水は全部入れ換わるって言うとんねやからね。そういう希望はもってます。

琵琶湖のシンボルとして次世代に伝えたい

松井三四郎 昔から堅田は木造船、丸子船の本場なんですよ。

▽堅田流 *4と長浜流 *5があるといいますね。

松井三四郎 長浜流ちゅうても、数が少ないです。琵琶湖の船大工は堅田で習って、よそへ出ている人がほとんどです。

三上亮一 ほやから本場ちゅうことなんでしょうね。

松井三四郎 堅田には40何軒ちゅう船大工があったんやから。ほかにはそんな船屋あらへんのです。堅田に次いで、昔の大津でも4、5軒ですわ。堅田がもうほとんど木造船の根本やと思うんですよ。よそには、こんなに船大工がかたまっているとこはないからね。2、3軒あるところも、ほとんどが堅田から出てますもん。

三上亮一 昨年、地元の堅田小学校の生徒さんが、総合学習の一環で丸子船を取り上げられたんです。松井さんにもお話を聞いたり図書館で調べたりしていました。子どもたちは、堅田の船大工さんが生み出した丸子船に乗ってみたいと結論付けているんですよ。

三上元則 松井さんが子どもたちに大きい模型を見せながら説明しはったんですよ。子どもたちが熱心なもんで、もっと詳しい話を学校までしに来てほしいと私に言うてくれはったんです。私は忙しいて行けなんで、代わりに息子が話をしてきよったんですわ。

三上亮一 私もものすごく勉強になったんです。ある男の子が、修復中の船を見て「わあ、自然破壊や」と言ったんです。というのは、木材が切られるということは、いまの子どもたちの目には自然破壊と映る。どきっとしたんですが、「いや、そうじゃない。木は森から切られてここに来ているけども、松井さんの手によって船として生かされるんだ。松井さんの話だと、木造船というのはちゃんとメンテナンスすれば百年は大丈夫だ。また生かされて、また僕らを生かしてくれるんだ」。
 「いまは使い捨てになっているけども、昔の船大工さんたちは船をつくるのに必要な木を、山の神様に『どうかこの木を一本切らせてください』とお願いしてから切っているんだ」。そう言うと、自然破壊ではなく逆に自然を大事にしているんだということをわかってもらえました。
 そして「みんなの住んでいる堅田には船大工さんたちが昔はたくさんいはって、自然を大切にしてたんだ。だから君ら僕も、そこらに空き缶をぽいと捨てたりとか、水を汚したりとかせんようにしような」と言うと「そや、そや」みたいな感じになって。それがすごく印象的で、丸子船船がそうした自然とのかかわりをつなぐひとつの道しるべのように感じられましたね。
 時代遅れのものは消えていくのが運命と片付けるものじゃないと思うんです。今回、この船が琵琶湖に浮かぶことによって、木造船は琵琶湖に適していて似合うということを次世代の子どもたちにアピールしたい。それが糸口となって、たとえば造形大学で木造船をつくってみたいと思う人が出るかもしれない。そういうひとつのきっかけにしたいなと思っているんです。
 浮かべてこそ船ですから、琵琶湖に固有の船をひとつのシンボルとして残しておきたいという気持ちがありますね。湖面には丸子船ががんばっているぞ、水の下には固有の魚たちもがんばってるぞ、といったメッセージをいろんな人たちに伝えられたらと思います。

大手業者にできない“非効率”な観光ルートを

▽元則さんは運行管理者として、亮一さんは船長として乗り込むわけですが。

三上亮一 まず、人さまを乗せるという責任を考えると緊張感が走りますね。操船も含めて、まず第一にそれです。

▽亮一さんは、もともと船のお仕事をされていたんですか。

三上亮一 いや、まったく畑違いのサラリーマンでした。15年ぐらい前、いま問題になっている水上バイクから入って、知り合いのモーターボートで遊んでいた程度のかかわりしかありませんでした。

三上元則 船長ほど責任の重い仕事はない。私も30年間、慣れたからといって気を緩めたことはないですね。船長てほんま孤独でね、誰も助けてくれしません、一人が判断せなね。人と相談しとったら「船頭多くして山船に登る」で、まっすぐいかしませんし、うまいことやっていけません。こんなしんどい仕事、あまり息子に勧めたくなかったんですよ。しかもお客さん、人間を扱うた商売、客船ちゅうなものはね、二度とこんなことしとないと、そればっかり思ってたんですよ。それをまた今度、こんな歳いってせんならんてのは、もうこういうように生まれてきたんかいなと思てね。

三上亮一 自然を相手に人さまの命を預かるということですからね。

三上元則 バリアフリー法の関係で定期航路の就航はできなくて、団体の予約専用の遊覧船になります。江戸時代を中心に活躍した船ですから、その頃の人情味あふれる温かさを団体のお客さんに味わってもらいたいんですよ。

▽どんなところを回るんですか?

三上元則 決まりきったコースは考えてないんですわ。琵琶湖をぐるっと見ると、ヨシが生えていたり、松林や水泳場があったりと、同じとこどっこもないんですわ。その場所を近寄ってみたら、近いとこ遠いとこに山があってね。ほんまに山が借景になって、どこ行っても景色がええ。

三上亮一 湖岸道路から見る琵琶湖ではなく、琵琶湖側から見る景色の素晴らしさを、この丸子船で体験していただきたいですね。効率のいい観光は大手さんに任せて、私らは逆に非効率な観光を考えています。丸子船は喫水 *6も浅いので大型観光船も行けない浅瀬に近いところまで行けたりもしますんでね。

三上元則 アイデアは山ほど私の頭の中にあるんです。追い手風になったりとか条件がよかったら、帆も仰いでね。「これが江戸時代に走っとった船の速さです」って言うてね。

▽エンジン切ってですか。

三上元則 もちろん、エンジンも切って。帆走してやね、「わあ、こんなのろいのかいな」「昔はこれが速かってん」って。

三上亮一 ちょっと怖いですね。

三上元則 コースによっては、白鬚神社を安芸の宮島みたいに鳥居をくぐって参道へ行けるようにして、松井さんに賽銭箱をつくってもろうて船の中に置くとか。

三上亮一 賽銭泥棒や(笑)。

三上元則 神主さんにお祓いしてもらって、それ渡したらええねやからね。
 沖島では、漁師さんに漁業を見せてもらったり、いろんな話をしてもらうとか。また、気に入った人は一晩泊まって、朝早う行って漁業の体験してもらったりね。生態系の変化で、こういう魚しか獲れへんようになったとか、昔はこういう漁があったとか、実際に実演したりね。

▽具体的なコースというのは。

三上元則 お客さんに合わせてやけど、考えてるのは琵琶湖大橋から琵琶湖を一周するコース。湾にも入ったり、岸辺に寄ったりしてると、5日ぐらいかかりますわ。

▽泊まりながらの一周ですね。

三上元則 民宿とタイアップしてね。それから「琵琶湖八景」巡り。八景いうても、琵琶湖上だと、雄松崎と海津大崎、竹生島やね。天候が悪いときには、昔の「近江八景」巡り。堅田まで行ったら比良山も見えますし、浮御堂もあります。琵琶湖博物館も希望があれば案内できます。ほいで、石山寺、南郷の洗堰まで行きます。
  これは県とのかかわりになりますけど、私の思うてる観光地には、いま桟橋がないんですわ。海津を散策しようと思っても、渡しが着く桟橋がありません。県がいま経営しているのは琵琶湖博物館と竹生島だけで、これをなんとかしてもらわんと。

▽船の名前は。

三上亮一 ずばり「丸子丸」です。これは夢なんですが、いつか2隻目の丸子船が実現したら「三四郎丸」と名付けようと思っています。

三上元則 「丸子丸」の船室にある42インチの大型テレビでは、丸子船や松井さんらのビデオを流そうと思ってます。

▽期待しています。本日はありがとうございました。

問い合わせ先

まるみ遊船
(三上元則さん・亮一さん)

TEL・FAX●077-579-2265

TEL丸子丸(直)●090-5893-6293

URL● http://marumi-yusen.com/

E-mail● marumi-yusen@mtj.biglobe.ne.jp

丸子船とは
 船底がやや丸く、船の側面に丸太を二つ割りにしたもの(オモギ)が取り付けられた琵琶湖固有の木造帆船。江戸時代を中心に日本海側と京都・大阪を結ぶ物資輸送の手段として活躍したが、昭和30年代までにほとんど姿を消した。

 平均的な大きさは長さ15m、幅3mで、船腹が1mと流線型となっている。上部には屋根で覆われた船室があり、帆柱に帆をかけて走行した。大きな丸子船は米俵400石(225俵)、普通のものでも米俵80石ほど(180俵)を積むことができた。元禄時代、琵琶湖には1200艘以上の丸子船があり、堅田地域にはその20%にあたる250艘余りが保有されていたとされる。

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