特集 近江の玩具あれこれ

 京都新聞滋賀版に2003年4月から2004年4月までの1年余り連載された「近江の玩具」が、別冊淡海文庫の一冊として刊行されることになりました。
 座談会中にもあるとおり、「郷土玩具“不毛の地”」と見なされていた滋賀県に、思いのほか多くのオモチャが眠っていたことが明らかになり、連載時にお読みになって驚かれた方も多いかと思います。連載を企画・担当なさった京都新聞の山中英之さんを司会に、執筆にあたった近江郷土玩具研究会の皆さんに連載の舞台裏や郷土玩具の現状と将来について語っていただきました。

▲表紙写真:4月3日に行われる近江八幡市の雛祭

● 表紙の言葉 ●

 五個荘町から近江八幡市にかけての地域では、3月3日の雛祭り(上巳の節句)を旧暦でおこない、家にある玩具を一堂に集めて飾る。雛人形と武者人形が並べられ、福助人形や信楽狸なども見える。最近は、スポーツカーのおもちゃやドラえもん、ガンダムなどの人形が並ぶこともある。

座談会

近江郷土玩具研究会

浅見 素石 さん

大正13(1924)年、京都府生まれ。元、京都女子大学教授(衛生学担当)。衛生学・郷土玩具に関する論考多数。大津市在住。

浜口 新次 さん
大正14(1925)年、大阪府生まれ。教職員として大阪府内中学校校長などを歴任。永らく郷土玩具文化研究会事務局を務める。郷土玩具に関する論考多数。大阪府摂津市在住。

奥村 寛純 さん
大正15(1926)年、大阪府生まれ。『伏見人形の原型』『小幡人形』『浪花おもちゃ風土記』『京洛おもちゃ考』など郷土玩具・郷土史に関する編著書多数。大阪府三島郡島本町在住。

藤野  滋 さん
昭和31(1956)年、滋賀県生まれ。藤野商事株式会社代表取締役専務。元、小幡人形後援会「グループ凸」副代表。神崎郡五個荘町在住。

司会進行
山中 英之 さん (京都新聞滋賀本社編集局デスク)

近江は「郷土玩具不毛の地」なのか?

司会 まず、なぜこの連載を先生方にお願いしたかというと、近江の郷土玩具にはどういうものがあるのかと、本屋などで探したのですが、まとめて紹介している本が1冊もなかった。それで、浅見先生にご相談すると、これまで「近江は郷土玩具不毛の地」というのが定説になっていたとのことでした。ところが、実際やってみるとけっこうあるなというのが私の実感です。浅見先生はいかがでしょうか。

 浅見 とにかく「郷土玩具不毛の地」という表現は、戦前からの名だたるコレクターの先生方がおっしゃっていますし、本にもいろいろ書かれています。
 五個荘町内に「小幡(おばた)人形」というれっきとした郷土玩具がありながら、武井武雄先生はじめ有名な玩具研究家の方々が全部無視された、あるいは見落としておられたのかわかりませんが、ほんとに私は疑念に思っておりました。
 お書きになるのは草津の「ピンピン鯛」か「大津絵」関係のものくらいでさっとすませて、関西在住のオーソリティである川崎巨泉先生から、京都におられた田中緑紅先生に至るまで、「小幡人形」を無視されたのが不思議でしかたないのです。これは、やっと昭和15年に、有坂與太郎さんの『郷土玩具展望』で初めて登場するわけです。その後の本にも近江の玩具の紹介というのはほとんどないように思います。
 しかし、私どもが集めてみたら、「あっ、ここにもある」、「あっ、そこにもある」と。丸1年、50回やってもまだ載せきれなかったものがいくつもございます。今回の連載によって、ともかく「郷土玩具不毛の地」という滋賀県の汚名は晴らせたのではないか、郷土玩具界に対しても資するところがあったのではないかと、私は思っております。

司会 では次に浜口先生。この連載を終えての感想からお願いします。

浜口 本当に、過去のいろいろな文献などを探してみても、滋賀県というと、やはり「大津絵」中心のものと「小幡人形」と、この2つ。まあ、これが出ていればいいほうです。名前だけあがっていても廃絶したものが多く、眼中になかったですね。昭和45年に全国郷土玩具の会が大津市石山の臨湖庵であった時も他には玩具らしいものはないと思とりました。大津界隈も探してみましたが収穫はなかったですね。今回の連載で思いのほか多くの玩具があることがわかり、正直なところ驚いてます。特に戦後のものは新鮮でしたね。今回の連載は本当に意義のあるものになったのでないかと思います。

司会 奥村先生、いかがでしょうか。

奥村 いま先輩の先生方もおっしゃられたとおりだと思います。
 これはどの程度の真実味がある話かわからず、亡くなられた武井武雄先生には申しわけないのですが、あの本をつくられるときに、全国の郵便局のネットワークを利用して報告を受けたと。その時たまたま滋賀県側の担当者の責任か、報告が非常に手薄で、ほとんど触れられなかったともいいます。それが後々まで影響したことになります。

 藤野  ただ、今回いろいろとあたってみて一つ思いましたのは、やはり京都という大きな光がありますので、周りが暗いというか、近江は陰に隠れていたのではないでしょうか。

浅見 たしかに。

藤野 例えば伏見(ふしみ)人形があまり大きな光ですので、「小幡人形」が目立たなかった。「小幡人形」がほかの地方にでもあれば、もっと早くに有名になっていたのかもしれない。あくまで「伏見人形」の亜流としか見なされていなかったというのが、実際のところではないかと思います。
 それは他のものに関しても、例えば今回取りあげたなかでいえば扇子(せんす)も、あくまで滋賀県は生産地であって、売っていたのは京都であると、そういう意味で損をしているというと単純すぎますが、もう少し注目されてよいものもあったのではないかと思います。
  それともう一つ、この連載の下調べの段階で感じたことですが、私の地元、五個荘町にご寄贈いただきました桃井喜三郎先生のコレクションや奥村先生のコレクション、能登川町の寺井大門さんのコレクションとか、そういう古いコレクションを実際に見せていただけたのはとてもありがたかった。
 そのコレクションの中にあるものをたよりに実際に行ってみましたら、ほとんどが戦前で終わっている。製作者の側も、まだかろうじて当時の記憶を持っておられる方がいらっしゃるけれども、あと10年たったらお話も聞けなかった方がほとんどだと思います。ですから、本当によい機会でした。

司会 編集者としてかかわった私の感想として、戦後の小菅のジープや、戦前の幻となったグリコのおまけは、ある意味で歴史の隠れた部分を見る思いで、非常に興味深いものでした。こういう新たな視点も紹介できたのですが、逆に紹介できなかったものも残されているかと思います。

 藤野 有坂與太郎さんの『郷土玩具展望』に書いておられるもので、探したのですが見つからないものがいくつかあります。例えば近江八幡の長命寺の「穀屋寺宝鈴」は、製造期間がとても短かったらしく、存在したのは確かですが、見つかりませんでした。それに竹生島の「竹笛」も。なかには白鬚神社の「かざぐるま」や菅浦の「竹製飛行機」のように実物を見たことのある人の記憶を頼りに復元したものもありますが。

奥村 それと、ぜひ載せたかったものに、いわゆる朝鮮通信使をかたどった小幡人形。延享五年に書かれた『朝鮮来聘使(ちょうせんらいへいし)』という詳細な記録があり、その中に一行が淀町へ入って休息をとると大勢の日本人がつめかけたと。それを目当てに、さっそく伏見人形屋がやってきて、唐人人形を「売り申し候」とあるのです。楽隊の太鼓などの奏者や、馬の背中で逆立ちをしたり、いろいろなパフォーマンスをする人形をつくって売ったわけです。小幡にもあとになって伏見からきたものでしょうが、いくつか型が残ってますな。

司会 近江にはいろいろな旧家があると思いますが、そこにこれまで知られていなかった玩具が埋もれている可能性はないのでしょうか。

藤野 それはどこまでを玩具とするか、次のテーマとも関わる問題です。例えば日野町の近江日野商人館には日野祭の山車をモデルに、出入りの大工につくらせて、子どもが曳いて遊んでいたという曳山が残っています。同様のものとして今回は彦根の「馬ぐるま」をあえて取りあげましたが、そういう各家のオリジナル、個人の家用につくったものまで入れると、もっと広がってくると思います。

郷土玩具の定義

司会 今のお話につなげて、郷土玩具の定義に移りたいと思います。本書中でも、奥村先生が、醒ヶ井の木彫りの紹介で、これは玩具と言えるのか、あるいは置物なのか微妙だということをお書きになっています。そのへんも含めて、どこまでを郷土玩具と考えればいいのか。浅見先生からまず。

浅見 斎藤良輔さんが書かれた郷土玩具の本に、著名なおもちゃコレクターの方々の郷土玩具の定義が掲載されていますが、みんな違うんです。
 ある方は、古くていまは手に入らないもの、特に江戸時代、せいぜい明治時代初期ぐらいまでのもので、「現在廃絶したものしか郷土玩具としては認めない」という厳しい立場。そうかと思うと、別の方は、おおらかに「とにかく味わいがあればおもちゃだ」という立場。もちろん「郷土玩具だから郷土性がなければいけない」という意見があります。それから「もてあそびもの、できればいわゆる実用には適しない。その二点さえ備えていれば、どういう来歴を持っていようと郷土玩具だ」という方もおります。
 私個人は、後者に近い考えを持っています。先の厳しい基準をお持ちの方と戦後3回ほど、ある誌上で論争したこともあります。結局、そんな古いものに限定してしまえば、コレクターの対象にするものがなくなってしまうわけです。あっても骨董品で、庶民が手に入れられるようなものでなくなる。それでは話にならないということで、私は努めて広く採って、戦後にできたものでもすばらしくて、郷土色が充分うかがえるものであれば郷土玩具だという立場でやってきました。それからもう一つは、美的に美しくないといけないと。私個人は、こういう三つの観点から考えています。

司会 浜口先生は、どのようにお考えですか。

浜口 「郷土玩具とは何ぞや」ということで論じ合った時期もございましたが、結局、結論が出ないままで、現在まで至っています。
 この定義は、具体的には何を集めるか、コレクションするかという問題になると思うのです。私が最近感じていることとして、現在の集め方は、我々が収集を始めたころと、かなり変わってきましたね。我々は、とにかく全国的にポピュラーなものを集めようということでスタートしました。全国あちこちを歩き、作者を訪問したり、目当てを持って旅行する集め方だったのですが、最近の人はもっと間口を狭くして、奥行きを深くという集め方。土に絞ってとか、紙に絞るという集め方。あるいは品目に絞る、お雛さまなら、お雛さまだけを集めるというやり方。興味の対象を非常に限定した集め方を、若い人は好むようです。ですから、集めるということでは、集めやすいのではないかと思います。

浅見 私の古くからの友だちが、定年退職してから趣味の張り子づくりをやって、今はもうセミプロクラスなんです。そこへ若い人が訪ねてきて、あまり熱心に来るからと、ちょっと古いけれど、わりと値打ちがあるものを見せて、「これどうや、譲ってやろう」と言ったら、「こんな汚いもの、いらん」と言われたそうです(笑)。いまの若い人は、かわいくてきれいなものでなければ相手にしないらしいですね。
 だから郷土玩具の見方そのものも、時代とともにだんだんと変わってくるのでないかと思っています。

司会 今回の連載にあたっては、当初から郷土玩具というとらえ方をわりと広くしまして、時代も古くから現在までとらえてほしいということで藤野さんにお願いして、いろいろ発掘していただいたのですが、藤野さんご自身は、郷土玩具かどうかの基準をどうお考えですか。

藤野 昭和50年代終わりから60年代初めにかけて、近江八幡や五個荘のお雛さまを、とにかく全部調べようということで、小幡人形保存会のメンバーといっしょにずっと回らせていただきました。

 この辺りは男節句、女節句なしで、旧暦の3月3日、つまり4月3日に雛祭をやるのです。お雛さまといっても、とにかく家中の人形とおもちゃを全部集めてきて飾る。いまでこそ「衣装雛」が出てきていますが、以前はそんなものはなくて、とりあえず一年に一度、おもちゃの供養の日だという定義だったんですね。
 そこにはロボットもあれば、ブリキの車もあれば、土産ものもある。何でも集めて、一日ここで休ませてあげる。今日はもうこれで遊んだらいけない日、一年に一度ここで供養をしてやる日だという定義を、どうやらこのあたりではされていたようです。
 一般の感覚とは少し違うのですが、今回のこの連載では、本来の郷土玩具という定義からは、はずれるものもあるのですが、「もし、4月3日に集めるとしたら、どんなものを集めただろうか」という基準で選ばせてもらったつもりです。

浅見 読書の中には、「これが郷土玩具?」とお思いになる方もあると思います。郷土玩具の定義というのは、難しい問題ですから。

奥村 昔は人形も持ち遊びものですね。江戸時代でしたら、喜多村信節(きたむらのぶよ)の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』では「玩弄(がんろう)」となっているわけです。そのなかに人形も入っている。ですから、いま人形と玩具と切り離そうとするのはけしからんとお怒りになる方もありました。西洋では、人形と玩具は別、「doll」と「toy」というわけです。
 それと、私が最近思いますのは、昭和40年代、50年代であれば、だいたい1000円以上のものは、郷土玩具に入らないと、そんなものは贅沢品だと、我々は教えてきたわけです。それが最近は、人によっていろいろですよね。先ほどのお話の裏を返して何ですが、汚い人形を探してきて競売に出し、3000円、5000円、場合によっては2万円、3万円の値で売ってけっこう楽しんでおられる方もいます。
 だけど、やっぱり「たかがおもちゃ」なのですから、あまり高くなって骨董品か美術品のような扱いを受けるというのもおかしい。郷土玩具のあり方というものを、もっと考え直さないといけないのでないかという気もします。

藤野 先の話の続きですが、ほかに今回は取りあげられなかったものとして、湖北・湖西の豪雪地帯で子どもたちが使った竹のスキーがあります。竹製のおもちゃはないかと探してみて目にとまったものですが、みんな自家製なのです。各家で竹を切ってきて、パンッと割って、火で焼いてスキーにして遊んでいたとのことでした。竹とんぼや杉の実鉄砲もそうですね。「どんなおもちゃで遊びましたか」と聞くと、そういうもので遊んだと。「郷土玩具は」と聞いたら、「ううん、ないな」という返答ばかりでした。

浅見 商品になっていないものでね。

司会 それは、これまで郷土玩具に含まれてこなかったのですか。

奥村 ちょっと郷土玩具にはなじみにくいですね。

司会 なぜですか。

奥村 去年の秋、豊中にある大阪音楽大学付属楽器博物館の方が、音の出るおもちゃはないかということで、おみえになりました。弘前(ひろさき)(青森県)の「人形笛」などを紹介したのですが、私が子どもの時分に遊び半分でつくったギンナンの実をコンクリートの上でガッとこすって、穴をあけただけのものを、「これは、いいわ」と持って帰られました。こういうものは玩具には違いないにしても、やはり「郷土」を上につけるのはどうでしょう。どこでもできるわけですから。

司会 それは地域ごとの特色があるのか、そうではなく、どこに行っても同じか、ですか。

奥村 そうですね。独楽(こま)といっしょですね。

藤野 例えば、竹とんぼも、私は棒がついていてピュッと回す竹とんぼしか知らなかったのですが、湖北に行くと、ガリガリガリとこすると先に付いた羽がプロペラのように回る「ガリガリ竹とんぼ」が多かったと言われます。でもこの竹とんぼがここだけかというと、全国にあるのです。

司会 しかしそれが郷土玩具から落ちるというのも、何か変な感じがしますね。一番子どもたちの身近にあった、竹とんぼのようなものが、郷土玩具に入ってこないというのは。

奥村 羽根に色を塗ったりというふうに何か独自性があれば郷土玩具になりますね。

 藤野 今回のものでは、白鬚(しらひげ)神社の「かざぐるま」を取りあげましたが、あれも全国にあったものです。ただ江戸時代にお祭りのときだけに授与していたというのがはっきりしているので、今回取りあげさせてもらいました。

司会 すると、郷土玩具は、いったんは商品になったもの、授与品にしても売買されるものということもできますか。

奥村 そこのところは難しいですね。めんこや独楽にしてもそうです。子どもがつくった白生地のぶっつけ独楽のようなものが、郷土玩具に入るか入らないかは難しいところです。ただ、それに色を塗ったり絵や字を描いたりすると、郷土玩具の資格も得られるわけですから。

司会 微妙ですね。

藤野 独特のものが出てこないと。

奥村 ある程度、特定できるようなね。

司会 それが個人的に自分で作って遊んでいたようなものでも、その独楽にその土地の個性があれば、郷土玩具であるわけですか。

奥村 そうですね。

藤野 例えば、彦根の「手まり」。手まりにはいろいろな作り方や模様があるのですが、戦前の彦根のものだけを集めると、だいたい似たパターンが浮かんできます。ところがどこか製造元があったわけではなく、各家でお作りになったものです。
 ですから、いまは情報がすぐさま全国化するため、特徴がなくなってきているのですが、そういう個性の認められるものは、販売はしていなくても郷土玩具と呼んでいいのではないでしょうか。

近江の郷土玩具の将来展望

司会 生活スタイルが、これまでの郷土玩具をはぐくんできた時代からかなり変わって、玩具を取り巻く状況もかなり変化していると思います。近年の変化をもとに、近江の玩具の将来展望ということに話を移したいと思います。いかがでしょうか。

浅見 私はやはり、郷土玩具を愛好する人口が増えてくれないと、どうにもならない、それが一番の問題と思います。今度の本によって、「ほほう。私が住んでいる土地にも、こんなものがあったんだな」ということで興味を持つ方もおられるだろうし、まだまだ本書に載っていないようなものが、次々と現れてくるかもしれません。
 やはり郷土玩具愛好家を何とか増やしていく手がないものかと思います。

司会 愛好家と同時に、つくり手の問題もあると思いますが。こういう郷土玩具のつくり手というか、つくらせる環境というか。

浅見 プロフェッショナルでやろうと思えば、売れなければ話になりませんから、やはり売れる魅力のあるものをつくるのが前提ですが、技術を持った方は山ほどおられると思います。土人形にしろ、竹細工、張り子にしろ。

司会 まずは需要ですね。しかし、玩具はいま大手メーカー主導になっていますね。そういう状況で、地域に結びついた玩具は、あまり楽観はできないと思うのですが。

浅見 おっしゃるとおり、楽観はできませんね。

奥村 はっきりいって、今のままの状態だと、郷土玩具は博物館や資料館に行かないとないものになってしまうと思うのです。一般に出回っているものも、言ってみれば、まったく趣味家のものです。やはり製作者を支援するひとつの方法ととして、「伝統工芸士」や「無形文化財」の指定に類するものを積極的に行っていただけないか。もちろん、それだけではなかなか食えないわけですが。

司会 浜口先生はどのようにお考えですか。

浜口 東京のデパートでやっていた全国郷土玩具展もなくなり、作家が育つ環境にありませんな。大阪や京都でもかつてそういう催し物があり、作者と収集家が出会うことで刺激が与えられ、よりすばらしい作品へと育っていきました。「小幡人形」の作者である細居文蔵さんはおもちゃの会にも頻繁に顔を出して、新作を見せては皆さんからの批評を聞いて、次の作品に活かしていた。そういう機会を作ることが必要です。また、以前は会でも定期的に作者を訪ねましてね、直接譲ってもらうことが多かった。そうやってコレクションの幅が広がっていったものです。そして、作者も育っていった。

  滋賀県の文化芸術会館から郷土玩具展に出品してくれないかという依頼があり、協力しているのですが、入場者には案外、地元の人が多いとのことです。資料館や博物館でもいいから、できるだけ多くの人の目にふれる機会をつくることが大事ではないでしょうか。

藤野 郷土玩具展に来場なさる方でも、見た人はみなさん、もう手に入らないと思っておられますね。ところが、例えば守山の「猩々(しょうじょう)」の張り子は、まだ守山で売られている現役です。それを地元の人もほとんど知らない。今回の本などによって、いまでも手に入るものに関してはここで買えますよということをはっきりすることも大切です。
  それから本書でも紹介されている、長浜の「浜独楽(はまごま)」はいわば新製品です。長浜の黒壁を中心としたまちづくりは「オリジナルのものだけでいこう」ということで、よそからの土産ものはほとんど受けつけない。そこで郷土玩具がないからというので、創作されたものです。
 たとえば、彦根には本来、「茶の実人形」などのお土産がいろいろとあったのです。ところがNHKの大河ドラマ『花の生涯』が当たって、観光客がドッときたときに外から土産ものもドッと入ってきた。それで元からあった土産ものが消えてしまったのです。大量生産のものが入ってくることによって、オリジナルのものが消えた。でも、逆に近年は人々が大量生産、どこでも同じものに飽き飽きし、それぞれの地域のオリジナリティにこだわったものが求められていると思います。「ここへ行ったら、これを買わなければならない」という名物として、郷土玩具が生き残る道もまだ残されていると思います。

司会 こういう地域に根ざした郷土性を非常に色濃く持つような玩具というのは、これから21世紀にますます必要になるかもしれませんね。
 郷土玩具博物館のようなものは、県内にあるのですか。

藤野 あります。守山市で宇野宗佑さんの個人コレクションを展示しているのと、五個荘町の近江商人屋敷あきんど大正館というところで、郷土玩具館ということで、桃井先生と奥村先生のコレクションを展示させてもらっています。

奥村 僭越ながら私もだいぶ前から、これと思うところがあったら、郷土玩具の里帰りということで郷土玩具を寄贈しています。

藤野 本渡市立歴史民俗資料館の「天草土人形」や松本市立博物館の「松本押絵雛」は、先生のコレクションですね。

奥村 そういうことで博物館、あるいは資料館に入ったままではいけないので、一方には保存と展示、さらに有効に活用すると。少しでも地元、出身地のお役に立ったら、人形も幸せだろうと思います。

スロー・トイのすすめ

司会 では、最後にひとことずつ将来的に豊かな玩具文化をはぐくんでいくうえで、こういうことを望むということを。行政に対してでも、一般の方、ある研究者に対してでもいいのですが、何か期待を込めて語っていただければと思います。

浅見 いまの若い人を、本当にかわいそうに思います。というのは、受験、受験で追い回されて、入試に出そうなことは一生懸命やるけれども、それに関係のないことは、学校もほとんど教えないし、本人も興味を持ってしようとしない。

 もっと豊かな人間性を育てるには、たとえ入試の対象ではないものにも、少しは関心を持ってもらいたい。私は特に江戸時代に興味を持っているのですが、江戸時代も政治がどうだ、将軍がこうだということばかり教えずに、暮らしや、ものの考え方がどうだったかということも、今後は入試の対象にするような教育をやっていただければ、また変わっていくのでないかと思います。

浜口 日々の生活の中で疲れた心を郷土玩具は休めてくれます。教員として組合活動の厳しい時期を乗り切れたのも、家に帰ると玩具が心を静めてくれたからです。気分転換に役立ってくれた。大変な時代ですから、郷土玩具はそういう役割も果たしていけるんじゃないか。ただ、同じおもちゃでも、孫がテレビゲームをやっているのをみていると、とても同じおもちゃとは思えませんが。

藤野 ハンバーガーなどのファーストフードに対して地産地消型の郷土料理などをスローフードと呼んで見直そうという動きがあります。同じようにテレビゲームなどの電子的な「ファーストトイ」に対して郷土玩具は「スロートイ」と呼んでいいんじゃないでしょうか。

奥村 いわゆる「いやし系」ちゅうやつでんな。

浜口 郷土玩具のなかには、「からくりもの」が、かなりあります。それを現在の教育、いわゆる体験学習と結びつけて、子どもに作らせる機会ができていますね。最近の博物館や資料館は大変で玩具の展示もみせるだけでは飽きられます。姫路の日本玩具格物館のように実際に手にとって遊べるようにすることが必要でしょうね。

奥村 そうですね最近は博物館も参加型、あるいは野外実習を盛んにやっています。その材料としてね。これまでのようにガラスケースの中に収まっているだけでなく、子どもといっしょに遊ぶというのはよいことでしょう。

藤野 ひとつの成功例というか、非常にきちんとやっておられるのが、愛知川町の「びん細工手まり」ですね。これは一度絶えたのですが、地元のみなさんが、その文化を伝承していこうということで、定期的に教室を開かれて、地元の多くの方が、つくれるようになっていて、外からも習いにきている。また、今回の連載がきっかけで、彦根商工会議所の主催による「茶の実人形」製作の実演会が行われました。子どもではなく、大人を対象としていますが、玩具を通して郷土を知ろうという動きも出つつあります。

司会 「茶の実人形」は、私のような素人が見ても非常に魅力があるというか、かわいらしいですね。土産ものとしても人気が出るのではないでしょうか。

藤野 ですから単なる保存、収集も、伝承という意味では大切ですが、それをどう活用していくかということが大事なのだろうと思います。例えば「押絵の米袋」にしても、昔は習俗として嫁入りのときには必ず持って行かなければならなかった。それも原則は本人がつくって――実は買っていたという話ですが――持って行かなければならないという習俗に結びついてあったようなものは、習俗が変わってしまうと、伝承自体が絶えてしまうということがあります。
 「手まり」にしても、日野で出てくる「手まり」は、彦根のものに比べてとても質素なんですね。なぜかというと、着物のしつけ糸をはずす、そのしつけ糸をまとめるために「手まり」をつくるからだと。さすが近江商人の土地柄です。俗に「彦根の百両袴、日野の千両天秤」(彦根の人は百両たまったら袴を買い、日野の人は千両たまってやっと天秤棒を買い換える)といいますが、そういう地域ならではの特色が表れるんですね。
 そういう意味では、マスプロダクションのものにはないローカルな特色というものが、もしかするとその地域の特色にもなってまいりますので、そのあたりを保存して、なおかつ活用をどうしていけるかだと、思っているところです。

司会 ありがとうございました。要はどのように生きたかたちで、玩具を活かしていくかですね。玩具の豊かさはそのままその地域の豊かさにつながっていくと思います。そういう意味では、この本が出ることで、郷土玩具の魅力、「スロートイ」の豊かさというものをみなさんに知ってもらい、見直されるきっかけにとして、地域の豊かさにつながっていけばと思います。
 今日はお忙しいところ、どうもありがとうございました。

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