2020年 8月 16日

前川恒雄の訃報に接したので、金井美恵子『カストロの尻』への異議申し立て

 4月10日、前川恒雄元滋賀県立図書館長が肺癌で亡くなった。89歳。追悼といえるほどの関連性はないが、1年以上前の前回当ブログの中ほどで「関係するネタがあるので、次回につづく」としたまま、誰も興味を持ってなさそうな気もしてそのままになっていたことを書く。
 前回ブログで「私は読んでいないのである」と書いた前川の主著の一つ、『われらの図書館』(筑摩書房、1987年)を古本で買った。申し訳ないが、本文は滋賀県内の地名を目で拾ってザッとですませた。編集者・松下裕の関わり具合を知るのが目的なので、最初に「あとがき」を読んだ。前川が「よそいきの言葉」で書いてしまった第1稿は、「この本の産婆役である松下裕、大西寛両氏が、『自分のことを具体的に』」という言葉にあわせて書き改めたという。そのことを、ゴーリキーが記したチェーホフと3人の貴婦人のエピソードを引いて書いているのは、チェーホフの翻訳者でもあった松下への心づかいでもあるのだろう。うまいものだ。
 取り上げるのは、2017年5月に出た金井美恵子の小説『カストロの尻』(新潮社)である。帯には「作家デビュー50年の集大成となる著者最高傑作!」とある。翌年には芸術選奨文部科学大臣賞を受賞した。書名のところで「小説」と書いたが、頭と最後にエッセイが置かれ、その間に9つの短編小説が並ぶという構成になっている。9つは「あたし」を語り手とした連作短編なのだが、あらすじはまとめようがない。最後のエッセイのタイトル「小さな女の子のいっぱいになった膀胱について」と共鳴するように、真ん中に置かれた5つ目の「廃墟の旋律」の中には、チャールズ・ブロンソン主演、リチャード・フライシャー監督の映画『マジェスティック』のあらすじを説明するなかで、「女が尿が溜って耐えられない程ふくらんでいる膀胱を自由にする必要からトイレを借りるために立ち寄る」という文章も置かれている。タイトルがスタンダールの『カストロの尼』の読み間違いからきていることを重視するなら、「海鼠(なまこ)」を「うみねずみ」、「禍々(まがまが)しい」を「うずうずしい」といった繰り返し現れる漢字の読み間違いを散りばめた小説ともいえる。
 前川の著作の編集者「松下裕」の名が出てくるのは、冒頭のエッセイ「『この人を見よ』あるいは、ボヴァリー夫人も私だ」である。金井は姉から後藤明生の長編小説『この人を見よ』(幻戯書房、2012年)で、中野重治全集(新版)収録の年譜における葬儀と受賞パーティ出席の数の多いことの異様さが指摘されていることを教わり、「なんという社交的で政治的な人物だろうか」と考える。
 後藤の『この人を見よ』は、50代半ばでカルチャーセンターの文学教室に通う元文学青年の「私」がつけていた日記が、いつの間にか「私」と同じ教室に通う男女が小説や作家について話し合う架空シンポジウムに移行して書き継がれる小説である。小説の形式で書かれた作家論・小説論、あるいは作者の後藤が主張していた「読むこと」と「書くこと」は千円札の裏表のような関係にあるという主張(カルチャー教室の講師である小説家は明らかに後藤自身がモデルにされていて、「文学=千円札」理論も講義で話されたことになっている)の実践ということでよいだろうか。
 登場人物の討論の対象となるのが、谷崎潤一郎の『鍵』、太宰治の『ヴィヨンの妻』、志賀直哉の『暗夜行路』、そこから脱線して中野重治の全集収録年譜に至る。文芸誌「海燕」に1990年1月号から1993年4月号まで連載されたが、未完のまま単行本化もされず、後藤も1999年に亡くなってしまった。そして、没後10年以上たった2012年8月に単行本が出た。私のパソコンでamazonのこの本のページを表示すると、「お客様は、2012/8/21にこの商品を注文しました。」と表示される。つまり、私は出版された直後に読んでおり、先の『カストロの尻』のエッセイにおける金井の感想を目にして、中野重治風の言い回しを用いれば「何言ってやがる」と感じたわけだ。
 さて、『この人を見よ』の方では、年譜の作成者は「松下裕」という名前で、「編集者の文章としては、やや主観的過ぎるんじゃないか知ら」「じゃあ研究者かい」「研究者というよりは、秘書とか、お弟子さんといった感じじゃないか知ら」という登場人物の発言が続き、年譜の異様さを中野本人よりは編者に求める方向に進みかけている。結論が出されるわけではなく、小説中人物の会話は別の件(芥川龍之介に対する中野重治の態度が横柄なのではないか問題)に移っていってしまう。
 ややこしいというか、当然というべきか、『この人を見よ』の作者である後藤明生は、松下裕を知っているのだが、小説中の単身赴任サラリーマンであったりする登場人物は松下裕を知らない。
 奇しくも『カストロの尻』と同じ2017年5月に出た後藤明生の対談集『アミダクジ式ゴトウメイセイ【対談篇】』(つかだま書房)には、松下裕との対談「チェーホフは『青春文学』ではない」(「ちくま」1987年6月号)が収録されている。
先にも書いたとおりロシア文学者としてチェーホフ作品の翻訳もしている松下と、早稲田大学露文科卒でゴーゴリを中心にロシア文学から創作上の方法論を得たと公言していた後藤の組み合わせに違和感はなく、対話もスムーズに進んでいる。
前回の当ブログで前川恒雄と松下裕がともに植民地下の朝鮮半島生まれだということは書いたが、後藤は彼らの2歳下でやはり朝鮮生まれである。
 その一方で、同書収録の柄谷行人との対談「文学の志」(「文學界」1993年4月号)で、柄谷が中野重治の名前を口にすると、後藤は「でも、中野というのは大したことないと思う」と言い、柄谷は「そうかい(笑)」と返さざるをえない。後藤は「さっき〔対談中に〕出た大西巨人をペテルブルグ派〔=後藤がプーシキン、ゴーゴリ、ドストエフスキーの系譜として名づけたロシアの幻想喜劇派〕だとするなら、中野はロシア文学の、いわゆる人生派、人道派だね。笑いがなくて、保守的、情緒的だね」「日本の文壇を支配したのは案外、中野重治だったかもしれませんね。明治以降の日本文学に最も影響を与えたのがロシア文学の人生派、人道派だったという意味でね」と続ける。
 この場では、後藤の中野重治理解に柄谷は反論していないが、頭の中では「いや違う」と考えていたのだろう。翌年の「群像」1994年9月号に掲載された大江健三郎との対談「中野重治のエチカ」(『大江健三郎 柄谷行人 全対話 世界と日本と日本人』講談社 2018年)では、中野重治のユーモアについて語っている。中野の小説は「一見して深刻な小説でさえ、なんとなくおかしいんです」「なぜおかしいのかというと、自分にこだわっていながら、実はちっともこだわっていないところがあるからです」。
大江の方も、「中野さんの文章を読むと、たいてい一つはおかしくて笑うところがあります。もともと彼が書いた文章を子供のときに単にユーモラスということで、これはおもしろい、この人に会いたい、と思ったことがあるほどです」としている。大江には、「中野さんの仕事をずっと読んできて、道徳と認識とどちらを優位に置くかというと、認識を優位に置く人だと思います」と、後藤の「中野=人道派」説を否定する発言もある。
 後藤 vs 柄谷・大江という構図になっているわけである。私は、後藤の小説を好きで読んでいた。当ブログの2013年11月4付け「そしてCui Cuiになる」の後半、写真集の写真を番号付きで説明しているところは、後藤の短編「十七枚の写真」(『しんとく問答』収録)のまねである。いや、まねというほどでもなく、ああいう小説もあったから、これもありだろうと踏んで書いてみたものだった。だから、未完で長らく単行本化されなかった『この人を見よ』も刊行後すぐに買ったわけだ。反対に柄谷の本はたいしておもしろいと思ったことはないのだが、この件に関しては柄谷に同意する。
 以前に当ブログで書いたとおり、小説『梨の花』で主人公が広告看板に描かれた髭男の顔を比較する箇所が「おかしくて」中野重治を読み始めた。私はその頃に住んでいた北浦和の古書店で、横積みになって1冊1000円の値札がついていた旧版中野重治全集(全19巻、筑摩書房、1959~63年)の1、6~8、10~13、15、17~19巻を買った。2~5巻は小説で、文庫本で入手できたから買わなかった。先に年譜の「異様さ」が指摘された新版全集(全28巻、筑摩書房、1976~80)がすでに刊行されていたので、旧版が安く手に入ったわけだ。そうでなければ、中野の随筆のたぐいを大量に読むことはなかっただろう。
 柄谷の言う中野の「こだわりのなさ」を私の思いつくところであげてみよう。以前の当ブログ「小波の世界――石井桃子と中野重治」(2014.5.25)で紹介した中野の随筆「髪の毛と愛人」。そこでは引用しなかったが、中国で見た男が意識せずにふれつづける恋人の美しいオサゲについて、「つまり私はほんとは〔絵に〕描きたいのだ」と記す。本来、これは作家が使ってはいけない言葉だろう。
 おかしさは、話の筋と関係なく差し挟まれる主人公の所見にもある。短編小説「プロクラスティネーション」(1963年)の主人公・安田は、妻が新聞記事を理解するのにほしいというのでビニール製の安価な地球儀を買う。テレビ台の上に載っているそれを見るとはなしに見て彼は考える。
「『グリーンランドつてやつは、小学校自分からあんなふうに白つぽくかいてあつたな……』理由があるのかも知れなかつたが、それは安田は知らなかつた。」
 もう一つ、『カストロの尻』の収録短編に出てくる「青紫色にあおざめて萎んだ惨めなペニス」という文章を読んでいて思い出した中野の短編「広重」(1954年)をあげておく。
 随筆といってもよい書き方で(実際、これまで随筆だと勘違いしていた。考えてみれば、これを読んだのは、文庫サイズの『ちくま日本文学全集39 中野重治』であり、持っている旧版全集=小説類は含まない巻のみには収録されていない)、「私」の絵画に関するとりとめのない記憶が綴られていく。広重の風景版画の海の青色から、「私」には小学4年か5年の頃に学校からの帰りの田んぼ道で同級生と交わした会話が思い出される。貧乏な百姓である彼の父親が箪笥の中にしまっていた春画に描かれていた勃起したペニスの亀頭は、青色だったというのだ。
 ここで例によって語り手は少し脱線する。「してみると、あのときとにかく亀頭という観念はあったのだな……」。
 後藤が柄谷との対談で「ペテルブルグ派」に属するのかもしれないとした、小説『神聖喜劇』で知られる大西巨人はといえば、旧版中野重治全集第18巻(1963年)の月報に寄稿している。1953年の約2カ月間、大西は妻とともに中野宅の一室を借りて暮らしていた。大西は中野について書くにあたり、「全部分をつつしんで書かねばならない」としたうえで、三つの思い出を書いている。
 一つ目は、中野宅での夕食時に一人娘の卯女に語った「プラウダ」のソ連人記者との会話。笑える小話みたいなもので全文引用する以外に伝えようがない(ので、それは控える)。大西は、「聞いている私も、なんとなく楽しかった」としている。二つ目は、ある講演会での会場からの質問に対する中野の返答で、わりあい有名だと思うので省略。三つ目が、最も詳細に書かれたエピソードで、中野宅に同居中、毎週土曜夜に放送されていたNHKラジオのクイズ番組「私は誰でしよう?」を聞きながら、採点表を用意してきた中野の娘の「卯女ちやん」に呼ばれて、大西と中野が対戦させられた話。第1回は8問中6対2で大西が勝利。翌週の第2回目も9問のうち6対3で大西が勝利。さらに翌週の第3回目、「中野さんは、そこの新聞雑誌類に子細らしく見入つたりして、本気で競り合つてはいないという姿勢を露骨に現し」ていたが、大西5対中野1で迎えた7問目、天井を仰いだ中野は数秒間上向きのまま、ついに「しぼり出すような声で『オーミトシロー』と絶叫した」。
 ついでに、新版全集第28巻「補遺」に収録されている「若い女性に望むこと」(『婦人朝日』1941年6月号)というアンケートに対する回答もあげておこう。中野曰く、「『滑稽』を理解すること、たとえば、害にならぬ程度の他人の欠点をそのまま受け取る心がけをすること」。
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 おそらく後藤の「情緒的な人道派」という中野イメージの方が広く浸透していて、後藤もふくめた後進世代は読まなくなったのだろう。金井は『カストロの尻』の冒頭エッセイで、「もちろん家には一冊の中野重治の本もない」と書いている。「もちろん」である。書店の新刊コーナーで手にとった呉智英著『日本衆愚社会』(小学館新書、2018年)の「まえがき」冒頭には、「今では誰も読まなくなった小説家に中野重治がいる」「五十年前の私の学生時代、まわりに中野重治を愛読する者は既に多くはなかった。私も全くといっていいほど読んでいない」と断わったうえで、呉は一つだけ好きな短い詩があって暗記しているとして、それを全文載せている。呉は1946年生まれ、金井は1947年生まれの同世代である。
 先の『大江健三郎 柄谷行人 全対話』のアマゾンサイトには六つのレビューが載っているが、その内容から一人として中野重治を読んだことがある者はいない(読もうとしている者もいなくて、この人々は何がしたいのか謎)。収録されている三つの対話の中で、中野をめぐる対話が、二人が最も楽しそうであることぐらいは、読めばわかると思うのだが。
 このように中野が読まれなくなったのは、時代遅れのプロレタリア作家というイメージゆえだろうが、『梨の花』から『歌のわかれ』『むらぎも』『甲乙丙丁』と戦後の長編小説を読んでいた私にとって、中野は「私小説」の作家である。古本屋で買って、存在自体忘れていたコンパクトなサイズの『日本短篇文学全集 第24巻』(筑摩書房 1968年)は、「室生犀星・中野重治・堀辰雄」というラインナップで、巻末の解説で丸谷才一が書いているとおり、犀星は中野と堀の「師匠筋」にあたる。だが、「日本文壇の師弟関係にありがちな卑しい感じがまったく見られない」。「(中野は)多くの場合、自伝的な材料を用いて、いわゆる私小説を書いている」「それは小説というよりは随筆に近い性格を帯びることが多い」。
 実際、旧版中野重治全集の題字は室生犀星が書いており、第1巻の月報の最初には彼の文章が収録されている。「中野君と四十年くらゐの交際はあるが、私の家にふらりと遊びに来たことが一度もない」とある。最後に中野が自伝的小説『むらぎも』で「私の顔の形容を」「〔川魚の〕鮴(ごり)のようだ」と書いた部分を訂正してもらいたい旨を、凝りに凝った訂正案もつけて書いている。ここを読み返してみると、今でいえば画像加工ソフトで盛りに盛った自撮り写真が連想されて笑えてくる。この犀星の憎めなさは、中野が若い頃、犀星の『抒情小曲州』を手にとった際の、「それは実に不思議な本であつた。(中略)作者はこの本をつくるために馬鹿のように一心になり、読んでいるものにその神聖な馬鹿さがそのまま乗りうつつてくる種類のものであった」(『本とつきあう法』)という感想と同種のものだろう。
 また、『カストロの尻』の最初のエッセイの方には、金井が女性の友人から受け取った手紙の中で、中野重治が「朴とつ系」と評されている箇所がある〔手紙からの引用なので原文のまま平仮名表記にしてあるのが、また間抜けで嫌味なのだが〕。この友人も中野を読んだことがなく、わりあい知られた随筆「素朴ということ」や短編小説「村の家」のタイトルから勝手なイメージを抱いたゆえの言葉だろう。悪いが、中野は話好きで筆まめで、無口からは遠い。
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 中野の葬儀出席の数が多いのは、単にそれだけ多くの人が死んだからということもできる。中野の随筆「たすき、はちまき、花たばの類」(1965年)は、「たくさん人が死ぬ。知り合いが死ぬ。これは自分が年取ってきたのだから仕方がない。こないだも私は知合いの葬式に行つた」と書き出され、葬儀場に並んだ花束、花輪、花籠に関して苦言を呈している。花を届けるのはよいが、立ててある「名札だけは取つてしまうのがいい」。
 中野が出席した葬儀の例をあげよう。滋賀ネタとして舟橋聖一の場合とする。彦根藩主井伊直弼を主人公にした『花の生涯』を書いた功績で、舟橋は彦根市名誉市民となり、私が頻繁に利用している彦根市立図書館には遺族から寄贈された蔵書によって創設された「舟橋聖一記念文庫」がある。2016年には館内に「舟橋聖一没後40年」とプリントされた横長の大看板が掲げられていた。
 中野は1949年発表の「舟橋聖一と森鷗外」という文章で、舟橋の小説「夫人と少婢」を厳しく批判した。語り手の「わたし」が中国唐代の詩人、魚玄機に関して説明する箇所が、作中でそうではないと言わせながら、その実、森鷗外の作(「魚玄機」)から剽窃していることを、該当箇所を逐一あげながら。他の機会にも、中野は舟橋の作品を大衆小説的だとして評価していない。
ただし、舟橋の側にも理由はあったことを、彦根市立図書館の郷土図書新刊コーナーに、石川肇著『舟橋聖一の大東亜文学共栄圏―「抵抗の文学」を問い直す―』(晃洋書房 2018年)が並んでいたので借りてしまった私は知っている。収録されている遺書によれば、舟橋自身が「舟橋家の十字架」と名づけている足尾鉱毒事件に端を発する一族の凋落のなかで、さまざまな出費を賄うために自身の望むところではない多作の流行作家とならざるをえなかったのだという。舟橋聖一の母方の祖父は足尾銅山を経営した古河財閥の番頭で、同財閥の初代・古河市兵衛は近江商人に含まれることもある。ついでに書いておくと、後で名前が出てくる志賀直哉は、古河市兵衛とともに足尾銅山を開発した実業家・志賀直道の孫である。
 舟橋は1976年1月13日に死去した。新版中野重治全集の年譜には、「一月十七日、十三日亡くなった舟橋聖一の告別式(午後二時から、新宿区下落合三ノ一七ノ四七の舟橋家)に行く」とある。この時、中野は74歳。
 『中野重治書簡集』(平凡社、2012年)には、この時の葬儀に関する手紙が収録されている。文芸評論家・本多秋五宛ての封書で「昨日(十七日)舟橋聖一の葬式に行つたところ、大鵬と柏戸とを見ました。色の白い、血色のいい、大兵(たいひょう)の全くの好青年で、大変いい気持ちでした。僕が焼香の方へすすむ、そこへ焼香をすました二人が、二十秒ほどの時間間隔で帰つてくるのと正面ですれちがつたのでした」と書いている。さらにもう1通、堀田善衛宛ての封書でも、「舟橋の告別式で大鵬、柏戸にすれちがいました。色白、サクラ色、大兵、はなはだいい感じでした」と書いている。日中国交回復以前の中国へ日本文学代表団の一員として訪れ、長いオサゲの1本がなびいたのを連れの彼が意識するでもなく手で弄ぶカップルとすれ違った幸せを語る「髪の毛と愛人」とほぼ同じパターンである。
舟橋は相撲好きとして知られ、『相撲記』という作品があるほか、長く横綱審議委員長を務めた。その関係で元横綱の大鵬や柏戸が訪れていたわけだ。だとしても、葬儀の場で「大変いい気持ち」になっている中野は、やはり大江の言うとおり、道徳よりも認識を優位に置く人ではないだろうか。
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 『カストロの尻』の最後に位置するエッセイは、金井が最近(2015年)になって読んだ『藤枝静男著作集』第1巻(講談社 1976年)に収録されている随筆「志賀直哉・天皇・中野重治」をもとに再び中野重治周辺の男たちについて書いている。
本題に入る前に気がついたことを一つ。「単行本未収録のこの文章が……」とあるので、私の頭に「?」が浮かんだ。私は『藤枝静男著作集』を持っていないが、「志賀直哉・天皇・中野重治」を読んだ記憶がある。持っている藤枝の単行本(随筆集)に収録されていたはずだ。探してみると、『茫界偏視』(講談社)という函入りの昔ながらの文芸書然とした単行本に収録されている。経緯はわからないが、著作集発刊の後(1978年)で編まれたものだった。骨董好きだった藤枝が所蔵する信楽焼について書いた「壺三箇桶一箇」と、彦根から湖東三山などを巡った際の紀行文「琵琶湖東岸の寺」のページに付箋がついている。20年ばかり前の私がつけたらしい。後ろの見返しのところに古書店の値札をベリッと剥がしとった跡があり、買った時の価格は不明。
この本をアマゾンで検索すると中古本の最低価格は351円(+配送料)で、著作集第1巻の最低価格1412円よりも安い。これらとは別に、2011年には講談社文芸文庫からタイトルに冠した随筆集『志賀直哉・天皇・中野重治』も出ている。こちらはアマゾンでKindle版が825円、中古本最低価格は1800円(+配送料)である。
 藤枝静男関連で滋賀ネタを少し補充しておく。藤枝は浜松市で眼科医を開業しながら執筆活動もおこなった作家で、初期の小説に大津事件に材をとった『凶徒津田三蔵』(1961年)がある。その取材に津田が巡査として勤務した駐在所のあった滋賀県東浅井郡(現、長浜市)の速水にも訪れている。小説にはその際の見聞をもとにした情景描写がある。「村は貧しく、桑畑にかこまれ、ここもまた〔前任地の滋賀県水口と同じく〕三方の視界を山にさえぎられていた。冬は冷たく雪は深く積もった。村をくぎる妹川の広い河原も桑畑にたがやされ、竹藪や櫟の林の向こうに白い流れがあり、対岸の土堤も深く竹藪に覆われていた」。書き写していても暗い気分になってくるが、まぁそのとおりである。とはいえ、南北に北国街道(現、国道8号)が通る周辺地域の中心集落で、平成の大合併で長浜市に編入される前は町役場が置かれていた。私が自転車で15分ほどかけて通った中学校もあり、当時、運動場の南隣はかなり広い桑畑だった。「妹川」は合戦の地として知られる姉川の支流で、私などは地図にもある現表記の「高時川」という名でしか呼んだことがない。
 住民が言うことを聞かないのと、そもそも言葉が通じないことでさらに精神的に病んでいく津田であった……というのは、津田の書簡類なども用いた富岡多惠子の小説『湖の南――大津事件異聞』(岩波現代文庫 2011年)を読んで知ったことで、『凶徒津田三蔵』で速水集落に関する部分は1ページにも満たない。その代わりに藤枝は、この取材旅行で目撃した、虎姫駅から米袋を積み込んで京都の宿屋に売りにいく「担ぎ屋の大群」の姿を、随筆(1960年5月発表)に書き留めてくれている(『今ここ』(講談社 1996年)収録)。
 話を戻そう。「志賀直哉・天皇・中野重治」(初出は1975年7月「文芸」)は、1946年に中野が読売新聞に書いた「安倍さんの『さん』」という、当時文部大臣だった安倍能成を非難する文章などを「不愉快」と感じた志賀直哉と中野の往復書簡、中野の評論『暗夜行路雑談』が指摘した主人公・謙作の特権階級意識を紹介しながら、藤枝自身が接した「白樺」同人の例として園池公致(きんゆき)に関する記憶を取り出してくる。園池は公家の生まれで、10歳から15歳ぐらいまで明治天皇に侍従職(いわゆる「お小姓」)として仕えていた。彼が書いた「白樺」明治43年9月号の「編集室にて」では、偶然電車で乗り合わせた家族連れの軍人の娘が小用を催したので、自分の家へ案内したエピソードが記されている。娘にトイレを貸している間の雑談で、父親のほうが森鷗外だとわかったので、「御高名は兼て承って居りました」と言って別れたという。無署名だったが、藤枝が問うと、園池は自分が書いたことを認め、「書生の便所を貸しました」と悪びれもせずに続ける。藤枝は、園池や志賀にみられた、平和主義とはまったく別種の「軍人蔑視」についてもふれている(このエピソードのとき、鷗外は陸軍省医務局長)。
 金井があきれているのは、藤枝をふくめて登場する男性作家たちは、「四つか五つの、小さな膀胱に尿を溜めて苦しんでいる女の子が『誰』だったのか、まるで興味を持たず、一切触れていない」ことだ。書生用の便所を使わされたのは、森鷗外の長女、森茉莉だぞと。
ただし、ここで「登場する男性作家たち」というのは創刊時の「白樺」同人と藤枝、その友人の文芸評論家・本多秋五のことで、中野重治はふくまれていない。この「編集室にて」を中野が読んでいたら、森茉莉の名をあげたかもしれない。次女の小堀杏奴については、批判的にふれた随筆があった。
 金井はホモソーシャルな男性作家の鈍感さを批判したのだろうが、中野は同時代ではそうしたものからは遠い稀な存在だった。「師匠筋」にあたる室生犀星が森茉莉と親交が深かったことは有名だが、その接し方とも異なる。
 例えば、旧版中野重治全集第8巻(1960年)の月報に、湯浅芳子が寄稿した文章「かけがえのないひと」が載っている。湯浅が中野に初めて会ったのは、1931年(昭和6)に中条(宮本)百合子と二人で中野の家を訪ねた時で、中野は病気だった妻の原泉の看病をしていたという。その後、1935年(昭和10)、湯浅は生計を立てるために、ロシア語教室を始め、ナップ(全日本無産者芸術連盟)のメンバーたち幾人かが通うようになるが、皆じきにやめていくなか、彼らとは別に生徒となった中野が一番長く、警察に逮捕されるまで習い続けた――と書くなかで、湯浅は中野が「とりわけ日本の男性にはめずらしいものを女への態度にもっている」としている。「これを女性への理解とかフェミニストとかいうような安つぽい言葉では表現したくない」「必要とあれば台所仕事でもなんでもやつてのける。あの真似はだれにでもできるというものではない」。最近、新劇の若手人気俳優が「好きな女性」のタイプを書いているのを読んで「些か嘔きけがしたのにくらべて、なんというちがいだろう」と締めくくっている。
 宮本百合子のパートナーだった湯浅芳子について、私もよくは知らなかったので、沢部ひとみ著『百合子、ダスヴィダーニャ(さようなら)――湯浅芳子の青春』(学陽書房、1996年)をアマゾンの古書で注文して読んだ。口絵にある晩年のくわえ煙草の写真がかっこよすぎる(もったいないことに何の手違いか、キャプションが「晩年の百合子」になっているのだが)。
同じく旧版全集第12巻(1962年)の月報では、作家の芝木好子が、「〔別荘のある〕軽井沢の近所では中野さんが一番働くので、壺井〔栄〕さんや私のところのオツトたち〔詩人の壺井繁治と経済学者の大島清〕は恐慌をきたしている」「〔終戦まもなくの頃に東京の中野家を訪れた時も〕若い幾人かのお客さんが集つて、さかんに議論をしていた。途中で中野さんは台所へ立つていつたと思うと、菜つ葉を洗いながら、そこから議論の応酬をしていた。夫人は新劇の公演かなにかで不在だつた」と書いている。
中野はといえば、例えば「ある日の雑録」(「文學界」1973年1月号)という随筆で、共産党のハウスキーパー問題(Wikipedia参照。それ以上の知識は私にもない)にふれて、この語を辞書で引いて「主婦」「女中頭」などほぼ女性に限定された訳語が並んでいることに驚く。「男のハウスキーパーというのも私の頭にはあつたからだつた」と書いている。
 読みたいと思いながら高価(6200円+税)で手が出なかったが、滋賀県立図書館が蔵書にしてくれたので木下千花著『溝口健二論 映画の美学と政治学』(法政大学出版局)を借りた。1947年に行われた溝口と田中絹代に作家の織田作之助が加わった鼎談での織田の「たとえば文学がわかったって、絵がわかったって、そんなものはすこしも女の魅力にならない」という言葉が「セクシスト発言」として引用されている。1913年生まれで、Wikipediaでは「愛妻家」と解説されている織田に比して、1902年生まれの中野の方は1944年の宮本(中条)百合子宛ての私信で文学について、あるいは獄中の中野へ本などの差し入れをおこなった童話作家、村上籌子宛ての私信で美術について書く。「なんというちがいだろう」。
 改めて書く機会もなさそうなので、滋賀ネタとして放り込んでしまうと、『溝口健二論』の「第4章 『風俗』という戦場――内務省の検閲」では、検閲台本の切除部分とフィルムを突き合わせて『祇園の姉妹』(1936年)における「『ぜぜうら』という言葉に対する徹底した抑圧」が考察されている。「ぜぜうら」は漢字で書けば「膳所裏(台本では、当て字で「ぜぜ浦」とも表記)」、現在の祇園東(戦前は祇園乙部と称した)のことで、かつて近江の膳所藩の京屋敷があった場所の裏であることから地元で使われた俗称。なぜ切除されたのか? 一応ネタバレは控えるが、これは現在でも製作者側の自己検閲で削除か架空の地名への変更がなされるだろう。
 話を戻す。中野が妻の原泉よりも針仕事などは器用にこなしたという話は以前の当ブログで書いたのでくり返さないが、妻や娘との対等さというのは、「ここ数年、私はわが家のなかでことごとになまり〔上京以来、誰からも指摘されたことのなかったわずかなイントネーションの違い〕を咎められている。女房子供からやつつけられ、その場でとつちめられている」(「展望」1966年4月号掲載「なまりの氏素性」)といったことも許容する態度を含む。
 湯浅が60年前に「安っぽい言葉」と書いたフェミニストのように理念先行で杓子定規にもならない。「『女史』などという言葉」(「大衆クラブ」1948年4月)では、「宮本百合子『女史』がこう言った」というような敬称は不要だと書いたあとで、去年九州の大牟田で、日本青年共産同盟出版部から出た本(1948年)に書かれていた「若い人々は男も女も同じ言葉を使え」「お互いの名を呼ぶにも呼びすてにしろ」という主張を実行したが具合の悪いことが起こったと聞いた。これについては「もつと落ちついて考える必要があると思う」と書く。
数年前(検索したら2016年だとわかった)、ビョークへのインタビュー記事が性別を強調した女性言葉になっているとして、インタビュアーを批判したブログ記事かtwitterをweb上で目にしたとき、70年近くも昔のこの随筆が思い出された。そもそも、これは男性言葉の側も同じくらい普通は使わない翻訳会話文の問題だろうと思う。
 なので、私はいまさら中野をフェミニズムだとかポリコレ的視点から再評価すべきだなどということを言っているのではない。なにせ、その方面から口を出されると、冒頭であげた前川の『われらの図書館』のあとがきで引き合いに出されたチェーホフと貴婦人たちのエピソード(チェーホフの家を訪れた3人の貴婦人たちは、最初、さも関心があるようなふりをして政治問題などについて話していたが、チェーホフが話題をマーマレードのおいしさに変えると、それまでのよそ行き口調をやめて、熱っぽく語りだした)すら、「女性差別だ」と批判の対象にされかねないから。
 中野の態度には、何かのイズム(主義)から来ているものではなく、とりあえず生来のものとしておくしかない自然さがある。キリスト教などの宗教的なものとも無縁だ。江戸時代に生まれていても、こうだったのでないかとすら思える。
 「小学校三、四年生くらいまでは」「いくら叱られても父親と手をつないで歩きたがつた」娘が成長すると、父親に「着物の着方がだらしがない。不精ひげが伸びてみつともない。そんなへんな格好して歩く人は誰もいない。道のまんなかで、何かに感心して大きな声で独り言を言うのはやめなさい。見ず知らずの人をつかまえて、買いもしない品物を、これは何に使うものですかなどと訊いたりするのは恥ずかしくてたまらない、うんぬん」と言い出すと、あと3年で60歳になる時期に書かれた随筆で中野はなげいている(「男を馬鹿にするな」『婦人公論』1954年6月号)。この文章の本題は男女共学反対論に対する反対で、タイトルはそちらに由来する。なげきは、自分が子供の頃にはまだいた髷を結った老人=頭の古い男に自身がなっているのではないか、いや、そのつもりはないという前振りである。
 現在進行形で妻と娘から事あるごとに「とつちめられている」私が感じるのは、中野の父―娘関係のモダンさ、現代性である。明らかにファザコンの鷗外―茉莉なんかは古臭くてかなわない。

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