人々は、自然の驚異と常に向き合わないといけない生活をしていました


齊藤慶一さん 齊藤慶一さいとう・けいいち
野洲市歴史民俗博物館学芸員 
1985年、富山県生まれ。佛教大学大学院文学研究科日本史学専攻修了。滋賀県立琵琶湖博物館、愛荘町立秦荘図書館の嘱託職員を経て、2012年より野洲市歴史民俗博物館に勤務。趣味は俳句。/td>

──今年は土砂崩れなど自然災害が再び注目された年でもあり、今回取材をお願いいたしました。先にご経歴をお聞きしましたが、齊藤さんは、この館の学芸員さんの中では一番お若いのでは?

 はい。ですから、企画展を担当するのはまだ2回目です。去年、県内最大の河川である野洲川をテーマにした「野洲川の歴史と文化」という企画展を初めて担当させてもらいました。野洲川の下流域にしぼってですが、野洲川が北流と南流の2川に分かれていた時代のことを紹介しました。その中の一つのコーナーで水害を取り上げたことが、今回の企画展につながっています。

──野洲川が流れる野洲市は、水害の常襲地域でもあったわけですね。

 戦後で一番大きかったのは昭和28年(1953)の洪水ですが、計算してみると10年に1回の割合で野洲川は氾濫していました。たぶん地元の方にしたら、洪水というのは日常茶飯事とまでは言いませんが、誰もが生きているうちに何度かは経験するものだったのだと思います。

 去年の企画展のあと、昭和28年の水害をもう少し詳しく調べる必要を感じたのと、自然というものをもう一度見直すことが必要なのではないかと考えたのが今回の企画展の始まりですね。

──今回はタイトルも「近江の自然災害」となさっており、野洲市の範囲だけでなく、滋賀県全域にまで範囲を広げておられますね。

 はい。ただ、すべての災害をあつかうことは困難ですので、代表的な地震と水害にしぼっています。自然現象、地震や大雨などによる被害を経験するのが普通のなかで人々が暮らしてきて、その地域が発展してきているということなどを、何か語れないかと考えました。

──歴史というと、何年に誰それが何をしたというように人間主体で語られるものですが、そうではない歴史の側面ですね。

 まず自然があって、そのなかで人間の社会が築かれていると考えたときに、自然の脅威に対して人がどう向き合ってきたか。ちょっと堅苦しい言い方ですが。

その1 近江を襲った地震の痕跡と記録

──では、展示構成を踏まえて、順番にご説明いただけますか。

 まず、第一章は「近江における地震の痕跡」と見出しをつけました。地震研究者の寒川旭さんが提唱しておられる「地震考古学」という学問分野があるのですが、その始まりは昭和61年(1986)に寒川さんが滋賀県高島市の北仰西海道遺跡という縄文時代の遺跡で液状化の痕跡を確認なさったことからです。つまり、滋賀県は「地震考古学」発祥の地なんですね。その後、県内の発掘調査で、主に琵琶湖周辺の26遺跡、28ヶ所から地震の痕跡が見つかっています。

1 八夫遺跡 発掘現場の噴礫断面

1 八夫遺跡 発掘現場の噴礫断面(野洲市教育委員会保管)

 その例として、野洲市八夫の八夫遺跡で確認された弥生時代中期に砂礫層が液状化して、礫が噴出したことを示す地層を紹介しています。

 よく地震後のニュース番組などで「液状化」という言葉を聞きますが、砂の層で起こりやすい現象です。礫と呼ばれる大きな砂利などの層が噴礫している跡というのは珍しいものです。大規模な地震がこの地域にもあったという証拠で、マグニチュード7.5前後だと推定されています。

──竪穴住居で暮らしていた時代ですね。

 はい、そうです。この噴礫層から、弥生時代の人々が大規模な地震に遭遇したことがうかがえます。

 次に紹介するのは平成18年(2006)に長浜市西浅井町塩津浜で発見された塩津港遺跡です。葛籠尾崎の東側の入り江にあった11世紀の港跡と神社跡で、輸入陶器などのほか、国内最古をふくむ多数の起請札木簡が出土して話題となりました。

 今回の展示で注目したいのは、この港と神社が、地震で琵琶湖に発生した津波によって被害にあったらしいと想定されていることです。神社の建築物の柱の多くが北に傾いていること、液状化にともなう噴砂や地割れが確認されること、本来、大切に隠されている神像が出土したことなどから、何かしら、突発的な災害があったのだろうと考えられます。

──襲ってきた津波で押し流され、地中に埋まってしまったわけですか。

 同時代の中山忠親という公家の日記『山槐記』などを見ると、元暦2年(1185)に起きた地震で琵琶湖の水が陸地に流れ込んだという記述もあり、津波が発生した可能性があるとされています。その日記によると、田が3町(約300m)ほど裂けた所もあったそうです。

──地震の発生によって、琵琶湖北端の塩津が被害を受けたと考えられるわけですね。

その2 寛文の大地震 ─湖西で土砂崩れ、膳所城にも被害─

 
 江戸時代初期、寛文2年(1662)の近江・若狭地震については、被害の状況を描いた絵図[表紙]などが残されています。この地震は、若狭湾沿岸の日向断層による地震と琵琶湖西岸の花折断層北部による地震の二つの地震が連動して起こり、近畿地方北部に大きな被害を与えたものです。大津・彦根などでは少なくとも死者約70名、倒壊家屋約3600軒の被害が想定されています。特に葛川谷(大津市)では、「町居崩れ」と呼ばれる大きな土砂崩れが発生しました。この土砂で町居村と榎村が埋まっただけでなく、安曇川がせき止められ天然のダムが形成されたために、坊村が水没しました。500人以上の人が亡くなられたと伝えられています。

──南北に通る鯖街道の東側の斜面が崩れたのですね。この時でしたか、朽木氏の偉い人が死んだというのは。

 そうです、その地震ですね。お殿様が圧死したとされています。もう一つ、この寛文の大地震の被害を記録したものとして有名なのが膳所城の絵図です。地震発生から約3ヶ月後に膳所藩によって作成されたこの修復願いの絵図には、天守や櫓が傾いたなど、被害状況がとても細かく描かれています。上部には、修復案の図面もついています。

 野洲地域では、将軍上洛の際の宿泊所として利用されていた永原御殿の櫓が二つゆり落とされて破損したそうです。東日本大震災の場合も約1000年前には同程度の地震があったことがわかっていたわけで、歴史学的に自然災害を探れば、ある程度のことを想定することができます。

──滋賀県の場合も大規模な地震が発生することを覚悟した方がよさそうですね。続いては、これまた避けては通れない洪水関係の記録を紹介していただけますか。

その3 琵琶湖洪水と瀬田川浚え ─今も向き合わなければならない問題─

 琵琶湖の水が引き起こす水害は、近江の一つの特徴とも言えるものです。これは常に起こっているので、記録を見ていくと、さまざまな知恵と工夫がなされて、現在に至っているんだなと思わされます。

──琵琶湖から流れ出している川は瀬田川だけなので、瀬田川に土砂がたまって流れが悪くなると洪水が起こるという話ですね。

2 明治二十九年大洪水浸水区域之図『里内文庫』「琵琶湖水理淀川水制資料」のうち

2 明治二十九年大洪水浸水区域之図『里内文庫』「琵琶湖水理淀川水制資料」のうち (栗東歴史民俗博物館蔵)  薄紅色の部分が浸水区域を表している。

 そうです。排水が追いつかないから、湖岸周辺が水没してしまう。そのために瀬田川の川浚えをすることに力を注いできたのが近江の歴史です。少し話が先に話が飛んでしまいますが、雨がロープのようだったと記録されている明治29年(1896)9月に発生した大洪水の時と同じ量の水が琵琶湖に流入したら、やっぱり湖の水はあふれるそうです。いくら洗堰が整備されたといっても、決して水害が完全に解消したわけではありません。

──湖岸堤ができてもダメなのですか。

 2mぐらいあふれるそうです。現時点では、人間の技術は自然に勝てないようです。

 ちなみに琵琶湖洪水というと、雨が降って、琵琶湖からあふれた水がザァーッと流れてくる光景をイメージしがちですが、一定のプロセスがあります。

 大雨が降ると、まず低地に水がたまって、冠水が始まります。次に、その水を排水すると、川が増水して、堤防からあふれた水が再び集落を襲います。琵琶湖の水が押し寄せてくるのは、その後です。

 一度だけでなく、二重、三重の被害になるわけです。川の水位が下がったら、今度は逆に琵琶湖からあふれてくるという、非常に恐ろしい水害なのです。

──当時は、洗堰が整備されていないわけですから、そうなりますね。明治29年の洪水では非常に長い間水没していたのですか。

 237日間と記録されています。ただ、それは全域ではなく、ある測定した地点のことだろうと思うのですが。数ヶ月間、水が引かなかったのは確かです。排水が追いつかないのです。琵琶湖の水位は9月中旬にピークを迎え、常水位に戻ったのは11月末であったといわれています。

 例えば、彦根では市内の80%が沈みました。大津の中心部は全域が浸水したといわれています。当時の石山鳥居川の量水標の常水位は約83㎝でしたが、9月11日には3.1m増の約4.1mの水位を記録しています。湖岸の唐崎の松も、わずかに頭部をみせるだけになったそうです。

 浸水区域を表した地図によると、旧野洲郡は、ほぼ浸水しています。この時は、野洲川も決壊しているわけです。琵琶湖沿岸地域の吉川という集落の吉川治良左衛門家の場合、家族全員が蔵の2階で生活したと伝えられています。

 これは琵琶湖博物館所蔵の写真で、吉川の住民を写したものですが、けっこう皆さんニコッと笑っています。人間は大変な目にあっても、カメラを向けられると笑っちゃうんですね(苦笑)。足下にあるのは、みんな田舟なんですよ。

3 琵琶湖洪水石標 吉川家庭園内

3 琵琶湖洪水石標 吉川家庭園内(寿福滋氏撮影)

 こちらの写真は、灯籠の形をしていますが、洪水時の水位を刻んだ石標です。この石標には、江戸時代の万延元年(1860)と慶応4年(1868)、明治18年(1885)にも発生した洪水の水位が記録されており、とても貴重なものです。

 当時の吉川家当主で、この洪水石標を設置した吉川治良左衛門さんは、瀬田川の流量を調節するために明治38年(1905)に完成した南郷洗堰の建設工事を推進したお一人です。

──水害の恐ろしさを実感していた人だったのですね。

 こちらの写真は、今は取り壊されましたが、吉川家の蔵の内部です。琵琶湖の水が押しよせた高さまでの壁の土はなくなってしまって、竹組みがむき出しになっています。実際に計ってみても、その高さが洪水時の水位と一致したそうです。

 例えば、湖岸近くの集落では家を建てる時、琵琶湖に向いている側面には、できるだけ窓をつくらないようにしていたそうです。それでも沈んでしまうわけですが、そういう知恵が生活のなかに息づいていたということですね。

4 吉川家旧蔵に残された洪水時の水痕

4 吉川家旧蔵に残された洪水時の水痕(消滅)

──江戸時代にさかのぼって、その辺のお話をお願いできますか。

 近江の人は瀬田川浚えをすることに熱心でした。

 今回展示する「瀬田川自普請組合村絵図」は、そうした当時の状況をよく示す絵図の一つで、「自普請」というのは自分たちで普請、工事するという意味です。幕府が直接事業を行わない場合は、湖岸の村々がお金を出し合って川浚えをせざるをえませんでした。ただし、あまり被害にあわない高地に位置する村は参加しておらず、同じ湖岸の村でも温度差がありました。

 幕府がなかなか許可しなかったのは、水の流れがよくなると今度は淀などの下流域の人々が困るので、反対運動が起きたからです。こうした上流と下流の駆け引きはいまでも同じらしいです。当たり前ですが、洗堰から水を流せば流すほど、今度は下流域の人々が危なくなる。ダムが整備され、水量もある程度調整できるようになりましたが、そういった問題は江戸時代と変わっていません。

──解決法はないのでしょうか。

 琵琶湖河川事務所にお聞きしたところでは、瀬田川の流水量を増やすように改修する、宇治川流域の天ヶ瀬ダムのところでできるだけ水をためられるようにする。この二つの処置で調整しながら排水するしかないようです。

 水に関しては、近江の人々が常に向き合わないといけない問題であったということですね。江戸時代に『農稼業事』という農書を著した、近江の湖東の児島如水という人物がいます。この人などは、冠水することを前提に、稲の栽培方法を記しています。つまり、何年かに一度は沈むことが当たり前なんです。自然災害が起こるということを想定して暮らしていたことがわかります。

その4 “暴れ川”野洲川 ─10年に一度の被害の中で─

 続いては、県内最大の河川、野洲川の水害を紹介しています。さきほども言いましたように、野洲川は10年に1回の割合で氾濫する「暴れ川」だといわれてきました。北流と南流の二つに分かれていた下流部を一本化する改修が昭和56年(1981)に完了し、頻発した水害には終止符が打たれたとされていたのですが、去年(2013年)の9月中旬に襲来した台風18号の時は危なかったです。

5 いろいろ帳

5 いろいろ帳(安治自治会蔵 滋賀県立安土城考古博物館保管)

──大津市の大戸川や高島市の鴨川の水があふれてかなりの浸水被害が出た時ですね。

 そうです。野洲川は一応氾濫することなく収まりましたが、堤防から濁流が溢れ出る恐れがありました。
 そうした野洲川の水害を記録したものとして注目できる資料が、室町時代の明応年間(1492〜1501)の「いろいろ帳」という野洲市安治自治会の共有文書です。

──名前がおもしろいですね。

 本当にいろいろ書いてあって、メモ書きしたような文書です。難解な部分が多いのですが、そこに、「つつみきれ(堤切れ)」、つまり堤防が決壊したことが記されています。

 この時代には確実に、野洲川に堤防がつくられていたわけです。堤防が築かれるということは、この頃には野洲川の流路が決まっていたと考えることができます。また、川ですから、複数の集落をまたがって堤防をつくる必要がありますよね。水野章二さん(滋賀県立大学教授)は、村落連合が堤防を造り上げていく原動力になったのではないかと考えておられます。

6 川田村さこね畑絵図

6 川田村さこね畑絵図(個人蔵)

──なるほど、運命共同体という意識が生まれますね。

 次は江戸時代の「さこね畑絵図」ですが、「さこね」というのは守山市川田町の小字名です。野洲川の中にあった中洲を畑地として活用していたことがわかります。

 この辺りは野洲川が南北流に分かれるところです。そのため、洪水が引き起こるリスクが高い場所です。さきほども言ったように、水害の発生を前提にした生活体系が築かれていたわけです。

──こういう土地ほど肥沃だったりするので、今もあちこちの川の河川敷などに畑がありますよね。湖北だと桑畑にしたとか。

 この「さこね」も、明治以降には桑畑になったそうです。

──絵図が描かれたのは、年貢を納める必要があったからですね。

 細かく区画して色分けされていますが、それぞれ領主が違います。近江ではよくあったことですが、複数の領主によって支配された「相給地」なのです。堤防工事も、それぞれの領地の役人が寄り合って決めるための堤普請所というのがありました。

──この古い写真にある石積みは、ずっと奥までつづいていますね。

7 旧野洲川北流石垣堤防

7 旧野洲川北流石垣堤防(吉川周男氏撮影・提供)

 野洲市吉川にある矢放神社の前に築かれていたもので、明治26年(1893)から2年がかりで築かれました。ご覧のとおり、かなり立派なものですが、野洲川放水路にともなう整備事業によって、今は農地となっています。

 放水路の完成とともに失われたものとしては、去年の企画展「野洲川の歴史と文化」で紹介した吉川の野洲川北流に仕掛けられた簗もありますね。500年以上前から存在していたことがわかっている簗で、江戸時代にはここで捕獲された魚が兵主神社を通じて朝廷に献上されていました。簗を設ける権利は「簗衆」と呼ばれる人々だけが持っていて、北流が廃川になって簗は消滅したわけですが、「簗衆」という組織は存続していて、現在も寄り合いをなさっています。

その5 昭和28年の野洲川大洪水 ─語り継ぎたい当時の経験─

 そして最後に紹介しているのは、昭和28年(1953)の大洪水です。この年に襲来した台風13号にともなう豪雨で野洲川北流の右岸堤防が195mにわたって決壊、死者3名、重傷170名、流出・半壊家屋1713戸、田畑の流出・埋没地約500haという大被害を出しました。

 当時の状況を伝えるこれらの写真は、辻川信義さんという方が、その惨状を後世に伝えたいという思いから、各方面から収集なさったコレクションの一部です。

──これは上空からですね。

 この白い部分が砂で、川から集落に向かって濁流が流れ込んでいます。この土砂と水が野洲の井口集落に流れ込んだわけです。他の写真は、地上で撮影された井口と須原の状態です。

8・9 (上)野洲川北流の決壊現場 (下)決壊場所の築堤

8・9 (上)野洲川北流の決壊現場 (下)決壊場所の築堤 (ともに辻川信義氏提供)

 次が決壊現場の写真です。恐ろしいですね。すぐに、保安隊(現、自衛隊)が派遣されてブルドーザーで堤防をつくりました。先日、当時を知る方にお話をうかがったのですが、その方はこの時にブルドーザーを初めて見たそうです。

 他にもお聞きした話では、昔は堤防が切れそうになったら、まず牛を逃がしたそうです。それだけ自分たちの生活に密接な生き物だったのですね。高台にある神社やお寺に、とりあえず牛をみんな持ってくる。石段を上がったら20、30頭の牛がひしめいていてびっくりなさったとか。

──そういうお話は現実感がありますね。お話を聞いた方は、おいくつなんですか。

 先日うかがった方は88歳。当時はお子さんだった方でも、皆さん70〜60代ですね。

 ある方は、それほどの災害になるとは思っておらず、田舟をちゃんとつないでいなかった。洪水が落ち着いたらまず田舟を回収しにいき、近くの木に縛りつけてまわったそうです。

 役場の対策としては、桶に飲み水を入れて、田舟で運んで回ったそうです。濁水で井戸などもやられているわけですから。

 野洲市野田に野田沼内湖という内湖がありました。戦時中から戦後にかけて干拓され、昭和28年当時は農地になっていたのですが、やはり低湿地なので、水が流れ込んで一面が再び湖のようになっています。9月でしたから稲刈りがまだ行われていなかった地域もあり、食糧の面でも被害は大きかったのではないかと思われます。11月に入っても水位が上昇したままで、田舟に乗って稲を刈り取っている写真もあります。泥水に浸かっていたので、脱穀した時もトラックの排気ガスのような煙が舞っていたといいます。

現在(廃川後)の同じ場所

現在(廃川後)の同じ場所(2013年9月撮影)

──干拓された内湖には住宅地になっている所もありますから、その話は怖いですね。

 このような野洲川の水害に関する聞き取りをもっと記録しておきたいと思ってます。

 ちょっと暗い話を続けましたが、滋賀県は、水害がくり返し発生してきた地域です。近江の人々は水が襲ってきたら、それに対応した生活の知恵をつくり出していたのではないかと思います。そういう部分も、近江の文化、特徴の一つとしてまとめることができればよいなと思います。

──本日は準備中のお時間をさいていただき、ありがとうございました。
(2014.9.11)


編集後記

今年は大きな自然災害が続き、自分たちが暮らしている、あるいは訪れる土地の来歴を知っておく必要があるなと思わされます。本誌を編集中の10月10日現在、特別警報級(数十年に一度の大災害が予想される)の台風19号が、明日からの3連休に日本へ上陸すると報じられています。(キ)


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