新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2022年 3月 17日

新撰淡海木間攫 其の八十六 四季大津写生図巻のうち粟津別保付近・膳所眺望・雪に積む膳所

 大津市歴史博物館 学芸員 横谷賢一郎

四季大津写生図巻のうち粟津別保付近・膳所眺望・雪に積む膳所

 小林翠渓(1902〜55)は膳所の画家。出身は舞鶴ですが尋常高等小学校を卒業した大正7年(1918)、浜大津付近で米屋を営んでいた叔父の紹介で当時の膳所町へ移り山元春挙に入門、画塾「早苗会」の塾員となりました。当時の春挙は44歳。文部省美術展覧会鑑査員、京都市立絵画専門学校教授、イタリア万博・サンフランシスコ臨時万博鑑査員、そして翠渓入門の前年には帝室技芸員を拝命し、押しも押されもせぬ京都画壇の重鎮でした。
 当然ながら、春挙に入門する者たちは、すでに文展入選の実績をひっさげた実力者や、京都絵専卒業生など高等教育を修了した画学生など、いずれも腕に覚えのある画家たちでした。翠渓のように特に学画経験もなく16歳で入門するケースは、幕末明治初期の前時代的な徒弟制のような入門で、当時でもかなり異色と言えるでしょう。実際、他の塾員と異なり、彼は、第1期工事が竣工して間もない膳所中庄の春挙別邸「蘆花浅水荘」での住み込みであったようです。
 逆にそのことで、常に春挙の動向を間近で見聞できたためか、写生画法の達人であった春挙の技術を、京都市立美術工芸学校や京都絵専出身の門人たち以上に吸収することになりました。ちなみに、春挙の写生はすべて毛筆によるもので、毛筆をまるでドローイングのごとく運筆できる点が、春挙や早苗会塾員の特技でした。彼らはこの毛筆ドローイングをそのまま本画(完成作品)にも応用しており、あえて緑青などの彩色を薄く施したまま、下地のドローイング線描をみせて、葉繁み、草原、しぶき、などを表現しています。つまり水彩画と同様の効果を、水墨の毛筆で表現しているわけです。もっとも、早苗会塾員がすべてこの写生画法を存分に使いこなせたわけではなく、鉛筆で写生を済ますこともあったことは、古参門人である西井敬岳も語っています。
「先生の鉛筆のスケッチは見た事がない。いつも矢立(江戸時代の筆入れ。ここでは内蔵の毛筆)だった。矢立の写生は却々鳥渡やれぬ。難しい。然しあれでないといかぬ。」
 古参門人ですら、降参した毛筆による春挙の写生画法。それを継承した翠渓の成果が、大正10年(1921)に描かれた本作です。観光地以外では写真記録も少ない当時にあって、かつての美しき膳所の四季の情景やさえぎるもののない広い景観だった膳所を、翠渓の秀逸な写生画が我々に教えてくれます。

2021年 11月 2日

新撰淡海木間攫 其の八十五 大岩山銅鐸6号鐸(袈裟襷文銅鐸)

 野洲市歴史民俗博物館 学芸員 鈴木 茂

大岩山銅鐸6号鐸(袈裟襷文銅鐸)

 滋賀県野洲市が誇る文化財、大岩山銅鐸が野洲市小篠原の大岩山で明治14年(1881)に発見されてから140年を迎えました。弥生時代につくられた大岩山銅鐸は、日本の古代史を解き明かす重要な手がかりとして、全国的に注目されています。
 大型の銅鐸は近畿地方を中心に分布する近畿式銅鐸と、東海地方を中心に分布する三遠式銅鐸の大きく2つに分けられます。大岩山からは24個もの銅鐸が出土し、このうち近畿式の成立に関わる銅鐸4個、近畿式銅鐸が14個に三遠式銅鐸が4個含まれています。また、大岩山銅鐸の中には独特な特徴をもった銅鐸がいくつかあります。今回、ご紹介する大岩山6号鐸もその1つです。
 大岩山6号鐸は昭和37年(1962)に発見された、高さ55.4㎝、重さ6.16㎏を測る弥生時代後期(1〜2世紀頃)の銅鐸です。
 通常、銅鐸の身の部分は中央と左右の縦帯と横帯によって4区画ないし6区画構成です。しかし、6号鐸は縦帯を身の下方にまで延長し、まるで8区画に構成されているように見えます。また、飾耳(銅鐸の周りについている耳状の飾り)のつけ根の中心に縦の線を入れ、鰭のノコギリ様の文様(鋸歯文)の斜線の数が少ないなど決め事が守られていません。このほか三遠式と近畿式の両方を兼ね備えた独特な銅鐸もあります。
 こういった特徴がみられることは、銅鐸の新しいデザインを考えようとしたのかは不明ですが、製作者の試行錯誤の様子を読み取ることができます。
 大岩山銅鐸の中に独自性がみられる背景には、それまで各地にあった集団がより大きな集団へと統合される過程の中で、新たな共同祭祀としての銅鐸が模索されたのでしょう。
 銅鐸博物館では秋期企画展「大岩山銅鐸の形成 ─近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の成立と終焉─」で静岡県や奈良県などの東西から出土した銅鐸や遺物を展示し、大岩山銅鐸からみた弥生社会を解き明かす展覧会を行いますので、ぜひご来館ください。
(2021年10月9日(土)から11月28日(日)まで開催)

2021年 8月 4日

新撰淡海木間攫 其の八十四 小倉遊亀《磨針峠》

 滋賀県立美術館 学芸員 田野葉月

 小倉遊亀《磨針峠》

小倉遊亀《磨針峠》1947(昭和22)年、滋賀県立美術館蔵

 本作は二曲一双屛風です。日本美術の形式である屛風や巻子は、右から左に向けて鑑賞するのに合わせたストーリー展開がなされることが多いです。まず右端に立つ青年僧を見ると、昼なお暗い山道を足早に登ってきたところでしょう。すると視線の先、画面の左に後光に包まれて斧を研ぐ老婆が現れます。何事かと問うと、縫針を折ったため斧から一本の針を磨き出そうとしているところと答えます。気の遠くなる行為に比べて自らの怠惰を恥じた僧は、修行の継続を決意して都へ引き返しました。老婆は観音の化身でした。この伝説は彦根市を通る中山道の峠に伝わります。
 右隻と左隻を比較してみましょう。動と静、陰と光、幼と長、迷いと悟りが対照的に描き分けられています。師匠の安田靫彦が僧の裳裾をほめた理由は、その動きが心の迷いを表すかのように乱れているからでしょう。右隻は過去を否定した混沌の境地、左隻は小さな歩みでも着実に前進してゆくという明瞭で安定した希望が感じられます。見つめ合った二人の視線が屛風の境で出会うことで、より対照的な要素を強調しています。
 画家は毎日の精神修養を積み重ねることで制作態度を前進しようとする決意を、象徴的に表したと考えられます。敗戦後の混乱期に日本画に向き合い、不退転の決意を固めた画家の姿が青年僧に重なります。本作は院展に出品した代表的作品で、題材は小倉遊亀には珍しい歴史画です。本作を1947(昭和22)年に描いてほどなく、1950年代には画風を一変することから、画家の転換点にある作品と言えます。

2021年 8月 4日

新撰淡海木間攫 其の八十三 姉川合戦翌年の浅井長政書状

 長浜城歴史博物館 学芸員 福井智英

浅井長政書状 阿閉甲斐守宛

浅井長政書状 阿閉甲斐守宛 元亀2年(1571)5月5日 1幅(長浜城歴史博物館蔵)

 今から450年前の元亀元年(1570)6月28日、北近江の姉川で浅井長政・朝倉景健(朝倉義景の一族)連合軍と織田信長・徳川家康連合軍が戦いました。いわゆる「姉川合戦」です。早朝に始まったとされるこの戦いは、一般的には徳川軍の活躍により、織田・徳川連合軍の勝利に終わったといわれています。しかし、実際には浅井・朝倉勢力にとって致命的な敗戦とはならず、時に信長を窮地に追い詰めながら、およそ3年間、両者の戦いは続きました。
 さて、私たちが何気なく呼んでいる「姉川合戦」という呼称は、当時の浅井家や朝倉家でも使われていたのでしょうか。その疑問に答えてくれるのが、長浜城歴史博物館所蔵の「浅井長政書状 阿閉甲斐守宛」です。この書状は、姉川合戦の翌年(元亀2年)に長政が、家臣の阿閉甲斐守に宛てた感状(戦功のあった者に対し、主家や上官が与える文書)で、合戦において子息と家臣が討ち死にしたことを悼み、信長との戦いが終息したあかつきには恩賞を与え、阿閉家の跡目を取り立てるよう伝えたものです。
 長政は、書状の中で「去る年(元亀元年)六月二十八日、辰鼻表合戦に於いて」と記しています。「辰(龍)ヶ鼻」は、織田信長が最初に本陣を置いた場所で姉川に突出した丘陵先端に位置します。そして長政は、辰ヶ鼻の北西にある野村(長浜市野村町)に本陣を置きました。おそらく長政は、姉川での戦いを敵軍が布陣していた辰ヶ鼻周辺で行われた戦いと認識しており、家臣にもこの呼び名が知られていたのでしょう。また、長政の重臣・磯野員昌の書状には、浅井軍が布陣した地名をとって「野村合戦」と記されています。これらのことから、浅井家中では「辰鼻表合戦」、または「野村合戦」と呼んでいたと考えられています。
 そもそも「姉川合戦」は、江戸時代になってから徳川方の記録の中で使われていた呼称で、家康が最終的な勝者となり、徳川の天下となったため、世に広く「姉川合戦」が使われるようになりました。その背景には、家康や徳川家をことさらに神聖化・絶対化する徳川中心史観が大きく影響しているのでしょう。なお、朝倉家では、江戸時代前期の歴史書『武家事紀』の記述から「三田村合戦」(朝倉軍が布陣した場所)と呼んでいたとされます。

2021年 7月 30日

新撰淡海木間攫 其の八十二 鳥居を描いた薬箱

 甲賀市くすり学習館 館長 長峰 透

配置売薬で顧客の家に預けた薬箱

配置売薬で顧客の家に預けた薬箱(昭和初期)

 甲賀市くすり学習館には、鳥居を描いた薬箱が展示されています。薬箱の上蓋には、「御薬入」や「近江国甲賀郡龍池村」「木村保生堂」等と書かれたラベルが貼られ、なかでも鳥居のマークが目をひきます。
 では、なぜこの薬箱に大きく鳥居が描かれているのでしょうか。それは「保生堂」を店名としていた木村家が、もとは「教学院」と称する山伏であったことが大きく関係しています。
 木村家は、山伏が多く住んでいた甲賀市甲南町磯尾地区を本拠とし、系図では、教学院家の祖に醍醐寺三宝院派修験となった木村宗久がおり、以後代々修験職を相続したとあり、江戸時代には、多賀社にあった天台寺院、不動院に坊人として仕えていました。坊人とは多賀社のお札を配り、勧進を得るために各地の檀那場(受け持ち地域)を回った使僧のことですが、多賀社と甲賀の山伏とのつながりは深く、宝永元年(1704)の「観音院古記録」によると82名の甲賀の山伏が多賀の坊人を務めていたとあります。こうした坊人たちによる配札活動によって多賀信仰が全国に広がり、その時にお札の土産として薬も配布したと伝わります。
 ところが、明治維新により状況が一変することになります。明治3年(1870)の売薬取締規則では、神仏の御利益を語り、家伝秘法と宣伝された薬の売り方が禁止され、さらに明治5年に修験道が廃止されると、お札配りもできなくなり、甲賀の山伏たちも新たな道を模索し始めました。それが売薬だったのです。配札先がそのまま売薬の得意先となりました。木村教学院家では、多賀講の講員として布教活動をする一方で、木村保生堂という店名で丹波や丹後、但馬地方(京都府と兵庫県の北部)で配置売薬を始めるようになります。
 こうして甲賀の山伏たちは生計をたてるために売薬業に転じていくのですが、木村家にあっては、近世以来の多賀社との深い関わりから、鳥居のマークを商標とし、薬箱に貼ったものと思われます。何気ない薬箱が、甲賀売薬のルーツに関わる歴史を我々に教えてくれます。

2020年 12月 11日

新撰淡海木間攫 其の八十一 柴

 滋賀県立琵琶湖博物館 渡部圭一

柴

 リニューアルオープンした滋賀県立琵琶湖博物館の歴史展示室(B展示室)で、新たに展示される資料のひとつに「柴」があります。細い木の枝を丸く束ね、縄でしばっただけの簡単なつくりですが、過去の近江の人びとと自然環境との関わりをふりかえる上では、この柴の束は欠かせない存在です。
 柴とは植物の名前ではなく、山からとる燃料の種類をさす言葉です。おもにツツジの仲間やコナラなどの広葉樹の枝を、カマやナタで刈ってつくります。「おじいさんは山へシバ刈りに……」という昔話の定型句の正体のひとつが、こうした燃料用の柴であったことはあまり知られていません。
 写真の柴は、近江八幡市南津田町にすむ大正12年(1923)生まれの古老、西川新五良さんの手で、展示用に復原制作されたものです。あえて復原としたのは、柴のような日用の燃料は作製から消費までのライフサイクルがあまりに早く、いわゆる「民具」として今日に残される機会がないからです。
 津田内湖に面した南津田は、八幡山の西麓に広い共有山をもっていました。ところが聞き取りや古写真、また近世~近代の絵図や文書にさかのぼって調べると、この山には高い木はあまりなく、背丈ほどの高さの雑木が中心でした。柴をとる仕事は「シバシ」といい、秋の収穫の終わった人から山にいき、競って雑木を刈り取り、束を斜面の上から転がり落として運びました。
 新五良さんからの聞き取りによれば、高度経済成長期より前の南津田のふだんの燃料は、稲の藁、アカマツの落ち葉、そしてこの柴であったといいます。炭や薪(割り木)は貴重品で、割り木を使うのは正月用に搗くもち米を蒸すときくらい、あとは人が亡くなったときには火葬をする燃料として、山のアカマツを1本伐ることができた程度でした。
 「里山」の産物を代表する柴。そこには近江の森と人との関わりが凝縮されています。柴の形には地域ごとの違いもあり、その取り方や運び方もさまざまです。新装されたB展示室では、ジオラマや実物資料を駆使して、柴をめぐる人びとの営みを伝えています。

2020年 12月 10日

新撰淡海木間攫 其の八十 信楽海鼠釉火鉢

 甲賀市信楽伝統産業会館 館長 奥田琢也
信楽海鼠釉火鉢
 日本六古窯の一つである信楽焼は可塑性に秀でた信楽の土を生かしての大物陶器づくりを得意としており、その一つである火鉢は江戸時代後半から生産が始まりましたが、当時は他産地製品に圧されて販路は思うように伸びなかったようです。そのような中、それまで中国から輸入された火鉢などに美しく揃った白萩釉の斑点が紺色の釉薬に散りばめられた「志那海鼠」と呼ばれた釉薬に注目しました。すでに国内の各産地では、この海鼠釉を発色させる研究に取り組んでいましたが、失敗の連続であったようです。
 信楽でも明治の初めから、この釉薬の開発に取り組み、試行錯誤を重ねた結果、明治20年(1887)ごろにほぼ完成しました。また、大正9年(1920)には石膏型による機械ロクロ成型法が生み出され、正確にそろった形の量産が可能になります。同時にエアーコンプレッサーを使った吹き付けによる海鼠釉の施釉方法も考案され、白萩釉の斑点が美しい火鉢は信楽の主製品として国内外に市場を拡大していきました。
 そして、戦争の時代を経て、昭和20年(1945)からは戦後復興の波に乗って信楽の火鉢が飛ぶように売れ、好景気に沸きました。世の中が安定し始めた昭和20年代中ごろから石油ストーブが普及しはじめると、次第に火鉢の需要は減り、昭和30年代からは観葉植物の普及もあって、信楽焼の主産品は火鉢から主に海鼠釉を施した植木鉢へと移りました。
 余談ですが、私は、昭和32年(1957)に小さな焼屋の子として生まれました。当時はもう火鉢の全盛期は過ぎていましたが、母親が吊り下げたタンクからゴム管を通して落ちてくる釉薬とエアーコンプレッサーを巧みに使って真っ黒になりながら火鉢や植木鉢へ海鼠釉を吹き付け、それを父親や職人さんが釉薬がこすれて落ちないように気を付けながら窯詰をしていたことを覚えています。
 また、家の客間には海鼠釉の大きな火鉢があって、鉄瓶にはいつも湯が沸き、そのかたわらで秋になれば栗を、冬になれば餅を焼いたことも遠い思い出です。

2020年 12月 9日

新撰淡海木間攫 其の七十七 大津市指定文化財 和田家文書 九月二日付明智光秀書状

 大津市歴史博物館 副館長 和田光生
大津市指定文化財 和田家文書 九月二日付明智光秀書状
 元亀2年(1571)9月2日付で明智光秀が雄琴の土豪和田秀純に宛てた書状は、比叡山焼き討ちの10日前、宇佐山城にいた光秀の動向を伝える史料として注目されてきました。内容は、和田と仰木の土豪八木氏が織田方に味方すると伝えたことへの礼状です。和田の書状とともに八木氏が宇佐山城に行って直接伝え、光秀はその決断を「感涙を流し」と表現しています。おそらく前年の志賀の陣で、和田・八木氏は浅井長政方に与していたようで、今回、織田方になると伝えたことから、このような言葉となったのでしょう。また、「堅田よりの加勢の衆、両人衆親類衆たるべく候か」とあるのは、前年の志賀の陣で織田方として活躍した堅田の土豪、猪飼野・居初・馬場を指すのでしょう。猪飼野の系図によれば、和田とは姻戚関係にあったようですし、居初氏についても、近世・近代には和田とつながりを持っていました。つまり前年は、堅田衆が織田方、和田・八木氏が浅井方に分かれていたわけですが、互いのつながりは続いており、その中で、光秀の働きかけ、また堅田衆の働きかけもあったと思われ、和田・八木氏は織田方につく決断をします。戦国の不安定な状況の中で、地域土豪が生き延びるためには、血縁を基盤としたネットワークが、頼るべき術の一つだったのでしょう。もちろん、この決断は、地域の命運をかけたものになります。
 光秀の書状には、「仰木のことはぜひともなで斬りにつかまつるべく候、やがて本意たるべく候」という物騒な言葉が見られます。これを比叡山焼き討ちを前提とした指示と考えると、横川山麓の仰木に逃げてくる者を皆殺しにするように、指示しているのではないでしょうか。織田に味方することは、人質を出し、比叡山焼き討ちに加担することを意味しており、それは殺戮をともなうものでした。こうして雄琴の土豪和田は、明智光秀に付き、行動を共にしますが、山崎の合戦には従軍しなかったようです。その後、和田は地元に帰農し、子孫は雄琴で暮らし続け、私は、その末裔ということになります。

2020年 12月 8日

新撰淡海木間攫 其の七十九 家訓「先義後利」 西川利右衛門

 近江八幡市文化観光課 烏野茂治

家訓「先義後利」 西川利右衛門

 現在近江商人の屋敷として公開している重要文化財旧西川家住宅は、西川利右衛門家の本宅です。同家は、畳表や蚊帳を扱った八幡商人のひとつで、江戸日本橋や大坂、京都などに出店を持ちました。現在、旧西川家住宅の床の間に1幅の掛軸が掛けられています。同家を本家とする大文字屋西川家一統に伝わる「先義後利」と呼ばれる家訓が記されています。
「先義後利者栄/好富而施其徳」
「義を先にし、利を後にするは栄え、好く富みて其の徳を施せ」と読み、その内容は(先ず利益を求めるのではなく)人として、道義をわきまえた行いをしていれば、利益は後からついてきて、栄える。よく富み、その富に見合った徳すなわち善行を(社会に)施せというものです。
家訓の前半部分は、中国の儒学者、荀子の言葉で、現在でも老舗と呼ばれる企業の経営方針として代々伝えられているところもいくつかあります。例えば、百貨店の老舗大丸は、初代当主である下村彦右衛門によって、元文元年(1736)よりこの言葉を事業の根本理念として定めています。
 一方、後半部分は漢詩などからの引用は確認できないことから、大文字屋一統によるオリジナルの文言ではないかと考えられます。その文面から「其の徳を施せ」といういわゆる社会貢献を謳う部分に目にいきがちではありますが、例えば日野の商人中井源左衛門の「金持一枚起請文」にある「始末と吝き」と同様、「好く富みて」部分も含め利益に対する支出や消費への理念も含まれていると考えられます。
 大文字屋一統では、奉公人が別家するとき、当主より「お墨付き」と呼ばれる支度金と家訓が書かれた掛軸を与えられます。「お墨付き」については、その後当主預かりとなり、別家には利息が与えられますが、掛軸は別家が大切に保管し、その理念は継承していくのです。

2020年 11月 28日

新撰淡海木間攫 其の七十八 金剛輪寺 漆塗太鼓形酒筒

 愛荘町立歴史文化博物館 三井義勝
金剛輪寺 漆塗太鼓形酒筒

 天台の名刹として著名な金剛輪寺に伝わる「豆の木太鼓」。見た目は太鼓そのものですが、鼓面に皮ではなく朱漆で剣形左三ツ巴文が描かれた檜の板材を張るのが特徴です。寺には太鼓とともに、それにまつわる説話が伝えられています。
 昔、寺の小僧のひとりが庫裏を掃除していると、床下に一升ほどのそら豆が入った箱を発見しました。お腹をすかせた小僧たちは和尚の留守を幸いに、そら豆を全部食べてしまいました。
 時は過ぎ、秋を迎える頃、和尚はそら豆を蒔こうと床下に保管していた箱の中を覗いたところ、中身が空であることに驚きました。和尚は小僧たちを問い詰めると、小僧たちはすべて食べたことを白状しました。反省した小僧たちは、そら豆が残っていないか床下をくまなく探したところ、一粒だけ見つけることができました。
 小僧たちは、その一粒を畑に蒔き、大きく育つよう観音さまに一心に祈りました。やがて芽を出した豆は大木に成長し、たくさんのそら豆がなり、ご利益となって現れた豆の木で太鼓の胴が造られました。
 金剛輪寺の「豆の木太鼓」は打楽器ではなく、太鼓形の酒樽(漆塗太鼓形酒筒、室町時代)です。前出の説話とは異なり、木理の美しい胴は欅材で、胴頂には円い孔が穿たれています。また、孔の周囲には注口を取り付けた際に接着剤として使用された漆あるいは膠が、付近には栓を固定するための座金具の痕も確認できます。中世の絵巻物では、酒宴の席や陣営などの場面で同様の太鼓樽が酒肴や酩酊する人々とともに描かれていますが、おそらく金剛輪寺の太鼓樽も宴席などで使用されたものと考えられます。
 太鼓樽と同時代で金剛輪寺本堂の「下倉」で管理されていた算用状「金剛輪寺下倉米銭下用帳」(滋賀県指定有形文化財)に「七百文 京極殿様千手寺御陣時御礼樽酒代」という記述があります。金剛輪寺は出陣あるいは帰陣の際の見舞品として、酒で満たされた太鼓樽を京極殿(京極政経、1453–没年不詳)に贈ったのでしょうか。

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