新撰 淡海木間攫

新撰 淡海木間攫

2023年 11月 9日

新撰淡海木間攫 其の九十 二挺天符櫓時計 伝彦根城槻御殿什物 

 マーチャントミュージアム 館長・キュレーター 廣部光信

二挺天符櫓時計 伝彦根城槻御殿什物

 江戸時代の時刻制度は現在とは異なり、不定時法といって、夜明けから日没までを6等分、日没から夜明けまでを6等分したものでした。つまり、同じ昼間の1刻(約2時間)でも、夏は長く、冬は短くなり、同時に夜間の1刻の長さも変化したのです。
 戦国時代に宣教師らによってもたらされた機械時計は常に一定のリズムを刻む定時法によるものでした。彼らの指導のもとに日本でも時計の製作が始まりますが、これを不定時法に合せるために考案されたのが、二挺天符と呼ばれるこの時計です。ゆっくりと時を刻む天符(振り子のような役割)と早く時を刻む天符が、朝夕で自動的に切り替わる画期的な装置がついているのです。

 この時計は、もともと彦根城の槻御殿にあったと伝えられます。明治13年(1880)に御殿の部材とともに拝領したとの書付があります。

 江戸時代に作られた時計を、和時計とか大名時計といいますが、本作は台の形から櫓時計と分類されます。櫓時計としては大型で、総高150㎝、機械高50㎝、機械幅19㎝の堂々としたものです。

 櫓部分は黒漆で仕上げられ、内部には動力となる鉛製のおもりがぶら下がりますが、木製枠に板ガラスがはめ込まれた、火屋と呼ばれる時計の被覆が残るのも貴重です。

 機械部分は真鍮製で、時刻だけでなく日付や六十干支も表示できるトリプルカレンダーになっています。また文字盤周りや外枠の扉にはトケイソウをモチーフとした美しい模様が毛彫りされており、井伊家の御殿を飾った「大名時計」と呼ぶにふさわしい華やかさがあります。

 日本で独自に発展したこうした和時計は、日本の精密機械工業のルーツといえ、大変優れた工芸品であり美術品であるといえるでしょう。

2023年 5月 17日

新撰淡海木間攫 其の八十九 徳川家康画像

 滋賀県立安土城考古博物館 学芸課主幹 髙木叙子

徳川家康画像

 安土城考古博物館では、織田信長だけでなく、その周辺の人物の資料も収蔵しています。今年、大河ドラマで注目を集めている徳川家康もその一人です。家康は、桶狭間合戦で今川義元が討たれたのを機に信長と同盟を結び、信長に対して戦国大名や家臣たちが次々と敵対し謀反を起こしていく中で、最後までよい関係を保持した人物でした。
 その家康を描いた画像が、こちらです。しかしこの画像、信長や明智光秀・浅井長政など、他の人物の肖像画とは、明らかに違う点があることにお気づきでしょうか。一般的に歴史上の人物の肖像画は、亡くなった後に供養や礼拝のため描かれることが多く、たいていが最も晩年の姿で描かれます。そして当たり前ですが、「人間」の姿です。この家康像も、朝廷での正装である黒色の束帯をまとって右手に笏を持ち、上畳に坐る老人の姿なのですが、坐っている場所が特殊です。周囲は3面の鏡を備えた御簾や華やかな幕と紐で飾られ、前面は階段のある朱塗りの高欄に囲われた拝殿で、そこに狛犬が鎮座しています。建物には蟇股も見え、まさに神殿の建物。この家康は、そこに鎮座する「神様」なのです。
 家康は、大坂夏の陣で豊臣秀頼母子を滅ぼした翌年の元和2年(1616)に亡くなりますが、遺言に従って遺体はその日のうちに駿府城から久能山(ともに静岡市)に移され、追って朝廷より「東照大権現」の神号が授けられました。一周忌の後に、遺体は日光(栃木県)に遷座します。これが日光東照宮の始まりです。
 この家康を神とするもう一つの理由は、「金」の使い方です。鏡や金具などに表側から金箔や金泥が用いられて輝いているだけでなく、背景の水墨画や拝殿床面などは絵絹裏から金箔が施されています。このような手法は仏画や神像ではよく見られますが、基本的には「人間」を描く場合には用いられないものなのです。
 この春に開催される、信長と家康を扱った特別展でも展示する予定ですので、実際にその違いを見に来ていただければと思います。

2022年 11月 25日

新撰淡海木間攫 其の八十八 ギフチョウ

 滋賀県立琵琶湖博物館 総括学芸員 八尋克郎

ギフチョウ

 琵琶湖博物館では、11月20日(日)まで第30回企画展示「チョウ展─近江から広がるチョウの世界─」を開催しています。この中で展示されているチョウの一つがギフチョウです。ギフチョウはアゲハチョウ科に属するチョウです。翅は黄色と黒色の縞模様で、後翅に赤紋を持っているのが特徴です。里山環境の林から山地まで生息しています。滋賀県では、4月上旬に見られます。成虫はスミレ類やカタクリなどの花に訪れ、幼虫の食草はカンアオイ類です。
 本種は全国的にも減少しているチョウの一つで、環境省のレッドリストでは、絶滅危惧Ⅱ類(VU)、滋賀県レッドデータブック2020年版では絶滅危惧種に選定されています。滋賀県チョウ類分布研究会の調査では、ギフチョウは、1980年代までは滋賀県内各地に多くの産地が見られました。ところが、1998年には大津市の南部で減少します。減少理由は、本種の幼虫の食草であるカンアオイ類の生育できる自然林や若い人工林が開発によって失われたことであると言われています。
 また、滋賀県西北部と東部では比較的広い範囲に分布していましたが、2005年以降に急速に減少し、2006年には多くの産地で姿を消します。減少理由は、増加したニホンジカによる吸蜜植物や幼虫の食草の食害であると考えられています。
 2017年、彦根市在住の布藤美之さんから琵琶湖博物館にチョウのコレクション約2万5000点が寄贈されました。このコレクションには、今回紹介したギフチョウのほか、滋賀県レッドデータブック2020年版で絶滅危惧種に選定されているクロヒカゲモドキ、絶滅危機増大種のウラジロミドリシジミ、希少種のキバネセセリ、スジグロチャバネセセリなど現在では産地の少なくなった1970年代の滋賀県産の古い標本が含まれています。これらは、滋賀県内のチョウの分布の移り変わりや自然環境の変化がわかる重要な標本であり、学術的にも非常に価値が高い標本です。

2022年 11月 24日

新撰淡海木間攫 其の八十七 ほたる河川

 守山市ほたるの森資料館 館長 古川道夫

ほたる河川

 今回紹介する守山市ほたるの森資料館の大切な品は、集めたたくさんのホタルの資料ではなく、ゲンジボタル飼育の道具でもなく、ましてや標本でもありません。一番重要で大切なのは、当館の横を流れている人工の川であるほたる河川です。この川は資料館の建設とともに造営され、完成してから32年がたちました。この間、かつて守山からいなくなったゲンジボタルをこの川に定着さそうとたゆまない努力がつづけられてきました。私の知る限り、全国で人工の河川にゲンジボタルが定着した事例は1件だけです。たとえ1件でも事例があるならここでもできると私は確信しています。

 この川の水源は井戸水で、水中ポンプによりくみ上げています。川は当館のある守山市民運動公園の中をぐるりと約600m流れています。守山市にはゲンジボタルを保護する条例である守山市ほたる条例があり、市内全域を保護区域としていますが、ここはそのなかでも特別保護区域に指定された唯一の場所であります。

 川は上流側からAゾーン、Bゾーン、そしてCゾーンの三つの区間に分けられ、それぞれ異なった役割をもっています。また川の周辺には旧野洲川から移植された樹木等が植えられ、「ほたるの森」と称しています。鎮守の森以外に大きな森のない守山市において大切な場所であり、同時にここだけの特異な景観を呈しています。全国的にもホタル類の研究のための人工河川としてはこれ以上大規模なものはないと思います。

 近年は老朽化で堤防に穴があいて水漏れしたり、護岸がやせ細ってしまったり、外来生物の侵入を受けたりと、さまざまな事態が発生して、この川にゲンジボタルが自然発生しているか調べるのは大変です。しかし謎が多く、条件が厳しい分にやりがいがあります。このほたる河川にゲンジボタルが自然発生する日はかなり先の未来でしょうが、長い取り組みの果てにゲンジボタルがすみ着いてくれるように、生息環境の調査研究は続いていきます。

2022年 3月 17日

新撰淡海木間攫 其の八十六 四季大津写生図巻のうち粟津別保付近・膳所眺望・雪に積む膳所

 大津市歴史博物館 学芸員 横谷賢一郎

四季大津写生図巻のうち粟津別保付近・膳所眺望・雪に積む膳所

 小林翠渓(1902〜55)は膳所の画家。出身は舞鶴ですが尋常高等小学校を卒業した大正7年(1918)、浜大津付近で米屋を営んでいた叔父の紹介で当時の膳所町へ移り山元春挙に入門、画塾「早苗会」の塾員となりました。当時の春挙は44歳。文部省美術展覧会鑑査員、京都市立絵画専門学校教授、イタリア万博・サンフランシスコ臨時万博鑑査員、そして翠渓入門の前年には帝室技芸員を拝命し、押しも押されもせぬ京都画壇の重鎮でした。
 当然ながら、春挙に入門する者たちは、すでに文展入選の実績をひっさげた実力者や、京都絵専卒業生など高等教育を修了した画学生など、いずれも腕に覚えのある画家たちでした。翠渓のように特に学画経験もなく16歳で入門するケースは、幕末明治初期の前時代的な徒弟制のような入門で、当時でもかなり異色と言えるでしょう。実際、他の塾員と異なり、彼は、第1期工事が竣工して間もない膳所中庄の春挙別邸「蘆花浅水荘」での住み込みであったようです。
 逆にそのことで、常に春挙の動向を間近で見聞できたためか、写生画法の達人であった春挙の技術を、京都市立美術工芸学校や京都絵専出身の門人たち以上に吸収することになりました。ちなみに、春挙の写生はすべて毛筆によるもので、毛筆をまるでドローイングのごとく運筆できる点が、春挙や早苗会塾員の特技でした。彼らはこの毛筆ドローイングをそのまま本画(完成作品)にも応用しており、あえて緑青などの彩色を薄く施したまま、下地のドローイング線描をみせて、葉繁み、草原、しぶき、などを表現しています。つまり水彩画と同様の効果を、水墨の毛筆で表現しているわけです。もっとも、早苗会塾員がすべてこの写生画法を存分に使いこなせたわけではなく、鉛筆で写生を済ますこともあったことは、古参門人である西井敬岳も語っています。
「先生の鉛筆のスケッチは見た事がない。いつも矢立(江戸時代の筆入れ。ここでは内蔵の毛筆)だった。矢立の写生は却々鳥渡やれぬ。難しい。然しあれでないといかぬ。」
 古参門人ですら、降参した毛筆による春挙の写生画法。それを継承した翠渓の成果が、大正10年(1921)に描かれた本作です。観光地以外では写真記録も少ない当時にあって、かつての美しき膳所の四季の情景やさえぎるもののない広い景観だった膳所を、翠渓の秀逸な写生画が我々に教えてくれます。

2021年 11月 2日

新撰淡海木間攫 其の八十五 大岩山銅鐸6号鐸(袈裟襷文銅鐸)

 野洲市歴史民俗博物館 学芸員 鈴木 茂

大岩山銅鐸6号鐸(袈裟襷文銅鐸)

 滋賀県野洲市が誇る文化財、大岩山銅鐸が野洲市小篠原の大岩山で明治14年(1881)に発見されてから140年を迎えました。弥生時代につくられた大岩山銅鐸は、日本の古代史を解き明かす重要な手がかりとして、全国的に注目されています。
 大型の銅鐸は近畿地方を中心に分布する近畿式銅鐸と、東海地方を中心に分布する三遠式銅鐸の大きく2つに分けられます。大岩山からは24個もの銅鐸が出土し、このうち近畿式の成立に関わる銅鐸4個、近畿式銅鐸が14個に三遠式銅鐸が4個含まれています。また、大岩山銅鐸の中には独特な特徴をもった銅鐸がいくつかあります。今回、ご紹介する大岩山6号鐸もその1つです。
 大岩山6号鐸は昭和37年(1962)に発見された、高さ55.4㎝、重さ6.16㎏を測る弥生時代後期(1〜2世紀頃)の銅鐸です。
 通常、銅鐸の身の部分は中央と左右の縦帯と横帯によって4区画ないし6区画構成です。しかし、6号鐸は縦帯を身の下方にまで延長し、まるで8区画に構成されているように見えます。また、飾耳(銅鐸の周りについている耳状の飾り)のつけ根の中心に縦の線を入れ、鰭のノコギリ様の文様(鋸歯文)の斜線の数が少ないなど決め事が守られていません。このほか三遠式と近畿式の両方を兼ね備えた独特な銅鐸もあります。
 こういった特徴がみられることは、銅鐸の新しいデザインを考えようとしたのかは不明ですが、製作者の試行錯誤の様子を読み取ることができます。
 大岩山銅鐸の中に独自性がみられる背景には、それまで各地にあった集団がより大きな集団へと統合される過程の中で、新たな共同祭祀としての銅鐸が模索されたのでしょう。
 銅鐸博物館では秋期企画展「大岩山銅鐸の形成 ─近畿式銅鐸と三遠式銅鐸の成立と終焉─」で静岡県や奈良県などの東西から出土した銅鐸や遺物を展示し、大岩山銅鐸からみた弥生社会を解き明かす展覧会を行いますので、ぜひご来館ください。
(2021年10月9日(土)から11月28日(日)まで開催)

2021年 8月 4日

新撰淡海木間攫 其の八十四 小倉遊亀《磨針峠》

 滋賀県立美術館 学芸員 田野葉月

 小倉遊亀《磨針峠》

小倉遊亀《磨針峠》1947(昭和22)年、滋賀県立美術館蔵

 本作は二曲一双屛風です。日本美術の形式である屛風や巻子は、右から左に向けて鑑賞するのに合わせたストーリー展開がなされることが多いです。まず右端に立つ青年僧を見ると、昼なお暗い山道を足早に登ってきたところでしょう。すると視線の先、画面の左に後光に包まれて斧を研ぐ老婆が現れます。何事かと問うと、縫針を折ったため斧から一本の針を磨き出そうとしているところと答えます。気の遠くなる行為に比べて自らの怠惰を恥じた僧は、修行の継続を決意して都へ引き返しました。老婆は観音の化身でした。この伝説は彦根市を通る中山道の峠に伝わります。
 右隻と左隻を比較してみましょう。動と静、陰と光、幼と長、迷いと悟りが対照的に描き分けられています。師匠の安田靫彦が僧の裳裾をほめた理由は、その動きが心の迷いを表すかのように乱れているからでしょう。右隻は過去を否定した混沌の境地、左隻は小さな歩みでも着実に前進してゆくという明瞭で安定した希望が感じられます。見つめ合った二人の視線が屛風の境で出会うことで、より対照的な要素を強調しています。
 画家は毎日の精神修養を積み重ねることで制作態度を前進しようとする決意を、象徴的に表したと考えられます。敗戦後の混乱期に日本画に向き合い、不退転の決意を固めた画家の姿が青年僧に重なります。本作は院展に出品した代表的作品で、題材は小倉遊亀には珍しい歴史画です。本作を1947(昭和22)年に描いてほどなく、1950年代には画風を一変することから、画家の転換点にある作品と言えます。

2021年 8月 4日

新撰淡海木間攫 其の八十三 姉川合戦翌年の浅井長政書状

 長浜城歴史博物館 学芸員 福井智英

浅井長政書状 阿閉甲斐守宛

浅井長政書状 阿閉甲斐守宛 元亀2年(1571)5月5日 1幅(長浜城歴史博物館蔵)

 今から450年前の元亀元年(1570)6月28日、北近江の姉川で浅井長政・朝倉景健(朝倉義景の一族)連合軍と織田信長・徳川家康連合軍が戦いました。いわゆる「姉川合戦」です。早朝に始まったとされるこの戦いは、一般的には徳川軍の活躍により、織田・徳川連合軍の勝利に終わったといわれています。しかし、実際には浅井・朝倉勢力にとって致命的な敗戦とはならず、時に信長を窮地に追い詰めながら、およそ3年間、両者の戦いは続きました。
 さて、私たちが何気なく呼んでいる「姉川合戦」という呼称は、当時の浅井家や朝倉家でも使われていたのでしょうか。その疑問に答えてくれるのが、長浜城歴史博物館所蔵の「浅井長政書状 阿閉甲斐守宛」です。この書状は、姉川合戦の翌年(元亀2年)に長政が、家臣の阿閉甲斐守に宛てた感状(戦功のあった者に対し、主家や上官が与える文書)で、合戦において子息と家臣が討ち死にしたことを悼み、信長との戦いが終息したあかつきには恩賞を与え、阿閉家の跡目を取り立てるよう伝えたものです。
 長政は、書状の中で「去る年(元亀元年)六月二十八日、辰鼻表合戦に於いて」と記しています。「辰(龍)ヶ鼻」は、織田信長が最初に本陣を置いた場所で姉川に突出した丘陵先端に位置します。そして長政は、辰ヶ鼻の北西にある野村(長浜市野村町)に本陣を置きました。おそらく長政は、姉川での戦いを敵軍が布陣していた辰ヶ鼻周辺で行われた戦いと認識しており、家臣にもこの呼び名が知られていたのでしょう。また、長政の重臣・磯野員昌の書状には、浅井軍が布陣した地名をとって「野村合戦」と記されています。これらのことから、浅井家中では「辰鼻表合戦」、または「野村合戦」と呼んでいたと考えられています。
 そもそも「姉川合戦」は、江戸時代になってから徳川方の記録の中で使われていた呼称で、家康が最終的な勝者となり、徳川の天下となったため、世に広く「姉川合戦」が使われるようになりました。その背景には、家康や徳川家をことさらに神聖化・絶対化する徳川中心史観が大きく影響しているのでしょう。なお、朝倉家では、江戸時代前期の歴史書『武家事紀』の記述から「三田村合戦」(朝倉軍が布陣した場所)と呼んでいたとされます。

2021年 7月 30日

新撰淡海木間攫 其の八十二 鳥居を描いた薬箱

 甲賀市くすり学習館 館長 長峰 透

配置売薬で顧客の家に預けた薬箱

配置売薬で顧客の家に預けた薬箱(昭和初期)

 甲賀市くすり学習館には、鳥居を描いた薬箱が展示されています。薬箱の上蓋には、「御薬入」や「近江国甲賀郡龍池村」「木村保生堂」等と書かれたラベルが貼られ、なかでも鳥居のマークが目をひきます。
 では、なぜこの薬箱に大きく鳥居が描かれているのでしょうか。それは「保生堂」を店名としていた木村家が、もとは「教学院」と称する山伏であったことが大きく関係しています。
 木村家は、山伏が多く住んでいた甲賀市甲南町磯尾地区を本拠とし、系図では、教学院家の祖に醍醐寺三宝院派修験となった木村宗久がおり、以後代々修験職を相続したとあり、江戸時代には、多賀社にあった天台寺院、不動院に坊人として仕えていました。坊人とは多賀社のお札を配り、勧進を得るために各地の檀那場(受け持ち地域)を回った使僧のことですが、多賀社と甲賀の山伏とのつながりは深く、宝永元年(1704)の「観音院古記録」によると82名の甲賀の山伏が多賀の坊人を務めていたとあります。こうした坊人たちによる配札活動によって多賀信仰が全国に広がり、その時にお札の土産として薬も配布したと伝わります。
 ところが、明治維新により状況が一変することになります。明治3年(1870)の売薬取締規則では、神仏の御利益を語り、家伝秘法と宣伝された薬の売り方が禁止され、さらに明治5年に修験道が廃止されると、お札配りもできなくなり、甲賀の山伏たちも新たな道を模索し始めました。それが売薬だったのです。配札先がそのまま売薬の得意先となりました。木村教学院家では、多賀講の講員として布教活動をする一方で、木村保生堂という店名で丹波や丹後、但馬地方(京都府と兵庫県の北部)で配置売薬を始めるようになります。
 こうして甲賀の山伏たちは生計をたてるために売薬業に転じていくのですが、木村家にあっては、近世以来の多賀社との深い関わりから、鳥居のマークを商標とし、薬箱に貼ったものと思われます。何気ない薬箱が、甲賀売薬のルーツに関わる歴史を我々に教えてくれます。

2020年 12月 11日

新撰淡海木間攫 其の八十一 柴

 滋賀県立琵琶湖博物館 渡部圭一

柴

 リニューアルオープンした滋賀県立琵琶湖博物館の歴史展示室(B展示室)で、新たに展示される資料のひとつに「柴」があります。細い木の枝を丸く束ね、縄でしばっただけの簡単なつくりですが、過去の近江の人びとと自然環境との関わりをふりかえる上では、この柴の束は欠かせない存在です。
 柴とは植物の名前ではなく、山からとる燃料の種類をさす言葉です。おもにツツジの仲間やコナラなどの広葉樹の枝を、カマやナタで刈ってつくります。「おじいさんは山へシバ刈りに……」という昔話の定型句の正体のひとつが、こうした燃料用の柴であったことはあまり知られていません。
 写真の柴は、近江八幡市南津田町にすむ大正12年(1923)生まれの古老、西川新五良さんの手で、展示用に復原制作されたものです。あえて復原としたのは、柴のような日用の燃料は作製から消費までのライフサイクルがあまりに早く、いわゆる「民具」として今日に残される機会がないからです。
 津田内湖に面した南津田は、八幡山の西麓に広い共有山をもっていました。ところが聞き取りや古写真、また近世~近代の絵図や文書にさかのぼって調べると、この山には高い木はあまりなく、背丈ほどの高さの雑木が中心でした。柴をとる仕事は「シバシ」といい、秋の収穫の終わった人から山にいき、競って雑木を刈り取り、束を斜面の上から転がり落として運びました。
 新五良さんからの聞き取りによれば、高度経済成長期より前の南津田のふだんの燃料は、稲の藁、アカマツの落ち葉、そしてこの柴であったといいます。炭や薪(割り木)は貴重品で、割り木を使うのは正月用に搗くもち米を蒸すときくらい、あとは人が亡くなったときには火葬をする燃料として、山のアカマツを1本伐ることができた程度でした。
 「里山」の産物を代表する柴。そこには近江の森と人との関わりが凝縮されています。柴の形には地域ごとの違いもあり、その取り方や運び方もさまざまです。新装されたB展示室では、ジオラマや実物資料を駆使して、柴をめぐる人びとの営みを伝えています。

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