龍谷大学名誉教授
須藤 護さん
すどう・まもる/1945年、千葉県生まれ。専攻は民俗学。樹木を活用してきた日本人の生活について研究。滋賀県の事例も収録されている『木の文化の形成─日本の山野利用と木器の文化』(未來社)ほか、著書多数。
大津市歴史博物館副館長
和田光生さん
わだ・みつお/1960年、滋賀県生まれ。大津市歴史博物館学芸員、大津市文化財保護課参事を経て、現職。主に近江の社寺に関する歴史民俗学的研究を行う。『高月町史 景観・文化財編』(共著)ほか。
田上郷土史料館館長
東郷正文さん
とうごう・まさふみ/1937年、滋賀県生まれ。元中学校教員。真光寺住職のかたわら史料館を運営。

大学の敷地拡張計画が変更され里山学研究に

──田上郷土史料館の東郷さん(真光寺住職)は法事ができてしまったとのことで、まず、お二人と田上の関わりからお話しいただけますか。須藤先生は、国内・国外各地を歩いてこられたわけですが。

須藤 若い頃は福島県の会津。その後、師匠である宮本常一※1先生のふるさとの周防大島(山口県)、その周辺の瀬戸内、それから木に興味があったので奈良県の吉野、福井の勝山や白山。木地屋※2の後を追いかけた時は、滋賀県の永源寺や朽木村にも行きました。橋本鉄男木地屋※3先生にお会いして、いろいろ教えていただいたことがありますね。日本との関係が深い中国や韓国にもよく通いました

 1996年に龍谷大学の瀬田キャンパスに国際文化学部ができて(2015年に深草キャンパスに移転)、これが大変おもしろい成り行きなのですが、国際文化学部も新設されてキャンパスがせまくなるというので、1994年に隣接する裏山(里山林)38‌haを大学が購入したんです。そこには学生のための施設などができるはずだったのですが、事前の調査で、絶滅危惧種のオオタカの巣があることがわかったので開発を中止し、里山にすむ生物の調査や市民の自然観察の場として利用することになりました。その裏山を里山林としてずっと使ってきたのが、この田上地域だったんですね。

 この地域の研究をさせてくださいと我々がお願いしにきたら、東郷さんがおいでになって、快く了承してくださった。その東郷さんが民具の収集・保存をしておられ、史料館の収蔵品が大変すばらしいことがわかり、その調査もお願いしたんです。

──和田さんはいかがですか。

和田 大津市歴史博物館にずっとおりますので田上郷土史料館は以前から知っていましたし、東郷さんとも時々お会いしていました。亡くなられましたが、東郷さんと二人三脚で史料館をつくりあげた田村博さんは、国鉄勤務のかたわら滋賀民俗学会などでも活躍なさっていて、僕なども学生時代からお付き合いさせていただいた方です。田村さんの民俗調査からいろいろ学ばせてもらいました。

──田上地域というのは、どんなところといえるのでしょうか。

和田 大津市は細長くて非常に特色ある地域の集合体なのですが、瀬田川の東、旧栗太郡の田上も独特な地域の一つですね。明治以降でいえば、ハゲ山を緑化させる活動や、水害防止のために砂防ダム建設が行われた先進地でもありましたし。

須藤 さらに奈良時代にまでさかのぼると、藤原京の造営に関わった田上山作所があった地域です。ヒノキが搬出されて、大戸川、瀬田川を下っていきました。

和田 大津市の中でも、田上のように盆地として完結しているところは他にありません。その点は特徴といえるかもしれない。

──以前、この近くにお住まいの方が「陸の孤島」とおっしゃるのを聞いたことがあります。交通の便の悪い、周囲と切り離された地域だったのでしょうか。

須藤 いや、切り離されてはいないんですよ。ここは草津方面や、唐橋がある瀬田方面との交流が非常に活発でした。

 例えば、山に自生していたコバノミツバツツジという木は、非常によく燃えるので、冬、薪としてリヤカーに積んで草津まで持っていき、山田のダイコンと交換したそうですね。だから、けして「陸の孤島」なんてことはない。外とのつながりは非常に濃かった地域です。

 いま調査させてもらっている衣類や着物でも、田上は瀬田などの呉服屋さんや商店と密接に関係しています。こちらから行くこともあれば、糸や布を持って行商に来る人たちもいました。食や衣料も地域内ですべて自給自足ということではなく、外との交流の中で生活文化が育まれたんです。


※1 宮本常一 (1907〜1981)民俗学者。日本各地を歩き、多くの民俗誌、写真記録を残す。著書に『忘れられた日本人』など。

※2 木地屋 轆轤を用いて盆、椀、玩具などをつくる、木地びきを職業とする職人。

※3 橋本鉄男 (1917〜1998)民俗学者。著書に『ろくろ』『琵琶湖の民俗誌』など。


全国的にも貴重な衣生活の資料

──東郷さんたちによる民具の収集活動はいつ頃から始まったのですか。

和田 昭和41年(1966)10月に東郷さんと田村さんが相談して、民具の収集を始めたそうです。それらを保管するために旧集会所を真光寺境内に移築して、史料館としたのが、昭和43年(1968)ですね。この年は、明治百年(明治元年から100周年)にあたり、記念行事がさまざま行なわれた年ですが、それにあわせて史料館運営委員会を組織なさっています。

須藤 日本の他の地域でも昭和40年前後に民具などの収集活動が始まっていますね。会津、佐渡、周防大島、岐阜、岩手……。

和田 滋賀県内でいうと、当時の浅井町(現長浜市)で草野文男※4さんが庄屋屋敷を改装した民俗資料館「七りん館」※5を昭和39年(1964)に開設なさっています。

──衣生活の資料は、珍しいのでは?

須藤 ええ、あまりないと思います。

和田 民具といえば、農具などが主に集められて、仕事着や普段の着物の類いは収集ができていない場合が多いですね。

須藤 やはり嫌がるんですよ。所有者が提供するのを。

和田 そうなんです。古着なんてと。

須藤 だから、収蔵品はすべて新品です。ここに出してきたのは田植え用の装束などで、いま80〜90歳ぐらいのおばあちゃんが、昭和20〜30年頃、嫁入りの時に持ってきた衣装なんです。ちょうど当時は、和装から洋装へ衣類が変わる時期なので、結局、着る機会がないまま、残されていたものです。

 私たち研究者は、着古したものを見て、どこに力がかかっているのか、どこが破れているのか、破れをどう補修しているのかとかを知りたいんですけど。

和田 でも、嫁入りのこしらえとしてお母さんや嫁ぐ本人が一生懸命織ったり、縫ったりしたものなので、大切に保存されることはよいことだと思います。

早乙女と手甲・脚絆・足袋

──そうした衣類の中でも、「てぬぐい」が田上では特徴的なわけですね。

須藤 中世の絵巻物などを見ても布として登場します。すでに鎌倉・室町時代からかぶりものとしても普及していたようですが、いろんな用途があるんですね。濡れた手を拭うというのが本来の用途なのでしょうが、頭にかぶることが一般的になって、その後、歌舞伎や落語などの芸能では小道具的にさまざまに使われてきました。

──鼻にかけて結ぶと泥棒とか……。

須藤 田上の場合、農作業や山仕事でももちろんかぶるのですが、儀式の時も一種の正装としてかぶっていたんです。これは全国的にも珍しいと思います。

和田 ハレでもケ※6でも、かぶることが一つのスタイルになっているというのは、他にはないんじゃないかと思いますね。東郷さんにうかがっても、上田上周辺だけで、近年まで守られてきていたそうなので。

須藤 てぬぐいの素材である木綿が大量に栽培されて普及していくのは近世です。だから、先ほど中世からてぬぐい状の布はあったという話をしましたが、当時の素材は麻だった可能性もあります。絵巻物から素材はわからないので。木綿栽培は大阪平野から河内の辺りが先進地で、愛知県の三河でも盛んになります。

和田 南山城(京都府相楽郡)も産地の一つでした。

須藤 それら栽培された木綿は商品です。大坂が商都として大きくなった要因の一つは、後背部にワタや菜の花の栽培地帯があって、それらを加工した木綿や菜種油の商品化によってですね。木綿は糸と織物、また古着として全国へ流通していきます。

──だから、木綿製の田上てぬぐいも業者からの購入品なのですね。

(上)「蔦に蝙蝠」。コウモリは福を呼ぶとされる吉祥文様 (下)「蜀江に楓」。蜀江は八角形の四方に正方形を連ね、中に花文・竜文などを配した文様

須藤 だと思います。もう流通しているわけですから。絵柄に地域性があるんです。

和田 染めも含めてつくられているのは京都なんですけれども、このデザインはほぼ田上用として染めておられたみたいで、流通したのは、この界隈に限定されています。

須藤 京都の北から来て野菜や花を売り歩いた大原女もてぬぐいをかぶった、独特の装束をしていますね。彼女たちのてぬぐいの文様は、田上の文様とは異なるはずです。

和田 あそこも、三幅前垂れを使っているんですよね。すると、都へ出向く時の一つのスタイルが、それぞれの地域であったのかなという気がしないではないんですけど。

──大津市なら北部の方が近いですが。

和田 地理的な距離と、文化の定着は必ずしも一致しないので。いろんな要因だろうとしかいえませんが、京都の周辺部との共通性が田上にはあるのかもしれません。

──民俗学では、これまで研究者の多くが男性で、衣生活には踏み込まなかったという面があるのでは。

須藤 ありますね。やはり男女の役割分担というのがあって、生業に関わる部分と家庭生活に関わる部分で、後者は女性が多くを担っていました。おばあちゃんがいて、縫い物をしていて、孫娘がおばあちゃんのやり方を見ながらだんだん機織りをやるようになる。布や竹細工、わら、そういう柔らかい素材は女性が得意で、その技術や管理の方法が家族の中で女性の側に受け継がれています。

──これまでは記録に残りにくい分野だったのでは。

須藤 今回の調査では、先ほど写真撮影でモデルになられた田中初枝さんが、どこを測ったらいいかを教えてくださったんです。それに則って測定しています。女性用の着物といっても、着丈の長さや袖の形が用途や着る季節によって違う。例えば、「鯉の口」と呼ばれる袖は作業用なんですよ。

和田 従来の調査では、測るといったら縦(丈)と横(最大幅)ぐらいでしたから。

須藤 私も最初は民具の実測と同じかたちでやっていたんですよ。10枚か20枚すんだところで、初枝さんが、「それじゃ駄目だ」とおっしゃって(笑)。これだけ詳細に測定して、着物の種類ごとの違いを明確にした調査は、私は関わったことがないし、おそらく日本の民俗資料の調査としては初めてでしょう。

 週1回やっている調査には、地元の方がずっといてくれて、私たちも気楽に質問できる環境なので、衣類の分類・整理をきちんとやってみようと思っています。


※4 草野文男 (1906〜1985)県職員として文化事業を主導。初代滋賀会館館長、初代県立琵琶湖文化館館長などを歴任。

※5 七りん館 その後、平成6年(1994)に町へ寄贈、翌年開館した浅井歴史民俗資料館の敷地内に移築されている。

※6 ハレ・ケ 民俗学の用語で、「ハレ(晴れ)」は儀礼や祭などの特別な時間、「ケ(褻)」は普段の日常を表す。


後ろ姿を見ただけで「どこのおばあやわかるわえ」

──東郷さんがいらっしゃいましたね。当時、てぬぐいはどうやって買っておられたんですか。

東郷 京都に油紙や青い紙が並んだ織り屋がありました。「ごめんやす」と入ると、「これが田上てぬぐいのですんや」と言わはって、あとは店側にみんなおまかせでした。瀬田にある上林呉服店と磯清呉服店という店にも卸してたので、そこへも買いにいった。

 なんでうちの町内にこんなぎょうさんてぬぐいが残ったかと言うと、昭和35、36年までは葬儀は土葬でしたで、家でのお勤め(葬式)が終わると、町内の人たちもお墓までお見送りをする習慣があったので、その折りに「墓供養」として、お参りした人に1枚ずつてぬぐいを配ったんですわ。100人参列したら100枚いったのです。

 また頭にてぬぐいをかぶっていれば、手を鎌で切ったら、ちょっと割いて包帯にし、下駄の鼻緒を切ったら、それの代わりにしたり、用途はいろいろありました。

てぬぐい二枚重ね

夏の農作業などでは、日焼け防止に2枚重ねにした


──いろいろ応急処置に使えるわけですね。

東郷 お寺へ参ったり、ちょっと隣の在所へ出かけるような時には、ノリのピンとはったよそ行き用のてぬぐいをかぶるのです。農作業で風がきつい日には二重にかぶって、わらひもでくくったり、いろいろしてはった。
 後ろの留め方が10人いたら10人とも全部違うから、年寄りは、後ろ姿を見ただけで「どこのおばあやわかるわえ」と言わはった。同じ格好は誰もおらへんと。

須藤 この牧以外でもてぬぐいはしておられたんですよね。

東郷 東の桐生だと草津に買いに行かはった。商圏がもう向こうやから。牧をふくむ上田上村は昭和30年に瀬田町に合併されて、西の下田上村は昭和26年に大津市になったけど、下田上村でも羽栗・森村までは堂村から瀬田の山を越えはる。枝村から向こうは洗堰を渡って石山寺を通って鳥居川へ買い物に出る。だから枝から里村はてぬぐいの習慣がないねん。

 日本画家の小倉遊亀さんが戦争中、鎌倉から田上に疎開しておられたとき、みんなは防空壕へ入っているのに、画板を持って、戦争に関係なく絵を描いてはったと聞いている(笑)。『故郷の人達』という、滋賀県立近代美術館に寄贈してはる絵に描かれている女性は、羽栗の人や。だらんとした方が絵になるのかわからんけれども、(てぬぐいの端を結んでいない)あれは正式なかぶり方ではない。

 あの絵でもつけてる三幅前垂れは、うちの町内は黒絣が多かった。白絣はよそゆき、黒絣は仕事着。やっぱり白絣はきれいです。

──三幅前垂れにも地域性があるのですか。

須藤 てぬぐいの範囲と一致します。滋賀県でいうと、旧志賀町の方、比良山麓でもあったみたいですけど、大津市南部では、上田上、大石、瀬田の南大萱などです。金勝(栗東市)などに行くと、見あたらない。

三幅前垂れ 20代女性用の四ツ目・黒絣

一幅(布地の横の長さの単位。約35.9㎝)の反物を3枚縫い合わせて三幅にしたもので、腰に巻くと尻まで包まれる。紋様が大きいほど派手、小さいほど地味とされ、一幅に並ぶ紋様の数で年齢による使い分けがなされた(9ページ参照)。帯も赤色は若向け、年齢が上がると茶色や青色になる。

──三幅前垂れの場合は、その布は買ったものなんですか。

和田 いえ、織ります。糸を買って。そこの箱の中に見本がありますね。

東郷 この糸と、この糸とで織ったら、こういうふうに織れますと、先染めの糸と見本の柄が刷られた紙を持って売りに来はるんですわ。言われても難しくて、わたしにもわからんけど。

 ばあさんに「ええのしてる。ごっつい柄やな」言うと、「この四つ目は若い人向けやのに恥ずかしい。見んといて」と言わはった。幅の中に四つ模様があるのが「四ツ目」、年をとるほど、柄が小さくなって、もう点線みたいになる。

──業者さんは、どこにあったんですか。

東郷 愛知川の野田松(野田松呉服店は現存。旧湖東町南清水、現東近江市)。そこから糸を売りにきて、草津に拠点を置いて、上田上で一晩泊まって村内を売り回らはったんです。

 きれいな好みの柄があると、「この柄は誰が買わはった」と尋ねて、これは誰々だと。「わしは絶対負けるさけ、同じ柄にはせえへん」と亡くなった親が言っていたことを思い出す。織るのは、鉛筆も紙も使わず、機の下にわらしべを縦横に置いて、それを眺めながら目数を数えて織っていたと言わはったことを思い出します。

──いつ頃まで織っておられたんですか。

東郷 戦後はないです。戦前で終わりです。

「おくれえな」と、なんぼ言うたやろ

──ところで、民具の収集を始められた当時、変人扱いされませんでしたか。

東郷 田村君とまず着古した端切れを集めようと始めたんやけれど、「こんなきたないものを人前に出してもろたら恥をかくわえ」と怒られたり、それで、さら(新品)を切ると言われて止めたり、それはいろいろトラブルはありましたで。

須藤 民具を収集した方には、わりとお坊さんが多いんですよ。佐渡島の林道明さん(称光寺住職)という方も拝み倒して収集したそうです。それらの民具をもとにできた佐渡国小木民俗博物館には、農具と漁具が3万点ぐらいあって、船大工道具が国指定重要有形民俗文化財になっています。その林住職と教育委員会に理解のある人がいて、2人がリヤカーを引っ張って回ったそうなんですが、田上にも東郷さんと田村さんという2人がいて、僕はまったく同じだと思ったんです。

東郷さん作成の記録帳

名称・寄贈者・寄贈年月日・製作年・用途などが、端切れや綛糸とともに整理されている。

東郷 「おくれえな」と、なんぼ言うたやろ。それを織ってくれた親元の母親の名前などを記録しているうちに、誰と誰が姉妹でという、今はなき人の関係もわかり、家系図をつくるもとにもなりました。「あのばあさんをえらそうに言うわえ」というと、「わしは血がかかったるわえ」と。なるほど、それを知っておくと、あそこに行って、あのおばあの悪口は言えへんなとかわかるようになって(笑)。

──だいたい在所内で結婚していたということですね。

東郷 そう。もう瀬田の向こうから来はったら国際結婚みたいなもんやから(笑)。

──東郷さんのお母さまは遠くからいらっしゃってますよね。

東郷 母は、大阪で生まれ育ち、大正15年(1926)に嫁いできました。というのは、もともと先々代ぐらいは田上に住んでいた家で。いったん大阪へ出たが、やはり田上に一人置いておかなあかん、縁が切れたらあかんということで、うちの母が来たもんで。

 それで、この在所へ来たら、「ごめんやす。てぬぐいもかぶらんとすみません」と言って入ってきはったので、うちの母親はびっくりしたそうです。

──カルチャーショックを受けたと。

東郷 考えてみたら、「角隠し」ですな。どこでもかぶっているのが、女としての身だしなみやとされたんでしょう。本堂に参る時でも何でも皆かぶってはる。全部さらで、パンパンパンとノリをつけてあって、それはきれいやった。そういう場面を写真に撮っておくとよかったけど。

開館から半世紀の区切りとして

──7月22日から大津市歴史博物館で開催される企画展の内容などについて、和田さん、教えていただけますか。

和田 須藤先生とその研究仲間が進めてこられた調査の成果を中心にしていこうと考えています。てぬぐい以外にも、絣などの着物、衣生活関係の資料、その他女性の生活にまつわる道具類。それから田上郷土史料館にある民具類の中からいくつかピックアップして展示しようかと思っています。夏休みもふくまれる開催期間なので、小学生が見ても楽しんでもらえる、珍しがってもらえるようなものを選ぼうかと。

──おもしろい道具がいろいろありますね。

須藤 かき餅を焼く火鉢、講がある時に持っていく弁当箱など、いろいろありますよ。

田上郷土史料館収蔵庫の内部

田上郷土史料館収蔵庫の内部


和田 それから、今日、東郷さんご本人にもいろいろお話しいただきましたが、東郷さんと田村さんらが地域の方々の協力のもとで作り上げた田上郷土史料館が、いままで半世紀ものあいだ活動なさってきたことを来館者の皆さんに知ってもらいたいとも思っています。

 東郷さんたちはとにかくまず集めることに専念してやられたんですけれど、それらの価値に注目なさった須藤先生に、もう一度掘り起こしていただいているので。

須藤 整理させてもらっただけですけど。

和田 いえ、そのおかげで広く知ってもらう準備ができました。

──うまい巡り合わせで、所蔵品にスポットライトが当たりましたね。

和田 開館から半世紀の区切りとしても、ちょうどよかったと思います。

須藤 まだ全体の3割ぐらいしか整理できていませんが、本当に宝物だと思います。

──企画展が楽しみです。本日はありがとうございました。
(2017.5.24)


編集後記

田上の早乙女装束の女性たちは、こづかい稼ぎに遠方まで田植えに出かけていたそうです。田植え姿を見そめた男性から、ぜひ嫁にという話があったりしたのかと尋ねると、そうではなくて、意識していたのは集落内の女性同士だそう。女性がおしゃれをするのは異性よりも同性の目を気にしてという説はやはり正しいようです。今も昔も男の多くは、衣類の柄や形の違いなどには無頓着。ゆえに私も妻の機嫌をそこねつづけるわけです。(キ)


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