インタビュー:旧五個荘町ですが近江商人のイメージはなくて、純粋な農村集落という印象です

区民総ぐるみで取り組んだ1冊目

──まずは、最初の1冊目は16年ほど前の発行となりますが、皆さんの中で関わっておられた方は?

北川純一 みんな関わっています。1冊目の『ふるさと伊野部のあゆみ』の編集長は持田さんで。

持田長三郎 1冊目の編集委員会ができたのが平成15年(2003)1月ですから、20年以上前ですね。委員7〜8人が分野ごとに四つの部会を設けまして、総勢31人とたくさんの方に編集に関わっていただきました。

北川(純) 本当に区民総ぐるみみたいな感じでした。補助金なしで、制作費は全額自治会で負担しました。

──50戸もない小さな集落で、そうした話が出たのには、きっかけがあったのですか。

北川(純) 今回の3冊目でも写真を載せたのですが、平成元年(1989)に『五個荘町史』が編纂されるにあたって、建部神社の神輿蔵の2階に保存されていた大量の古文書を分類・整理していただけたんです。江戸時代前期から明治・大正時代の古文書が1300点余り、それには江戸時代の四ケ村相論絵図や明治6年(1873)の地券取調惣絵図などもふくまれています。

 いまは、伊野部公会堂の隣の惣倉に移動させて保管しているそれらの資料が、1冊目をつくるベースになりました。

惣倉に保管されている古文書類(辻村耕司撮影)

──伊野部には、いろんな種類の講などが残っているという特徴があることに、お住まいの皆さんも自覚なさっていたのですか。

北川(純) かなり残っていたのですが、それが時代とともに変わってきていましたので、今のうちにお年寄りから聞いて記録を残しておかないと、もうわからなくなってしまうだろうと考えたんですね。

持田 昔のしきたり、伝統文化みたいなもののよいところを、次の世代に引き継いでいきたいということが、大きな狙いでした。

北川(純) その点では、1冊目の後書きにも書いてありますが、平成元年(1989)から龍谷大学地域総合研究所が五個荘町(当時)の集落を調査をなさったことも、きっかけの一つです。社会学部の口羽益生教授(現名誉教授)を中心に10人ほどの先生方が伝統的な社会組織とその変化などをお調べになり、『地域総合研究』第2号(1992年)という報告書を出されました。

 伊野部もその調査の対象になったので、講組織の種類やメンバー構成はもちろん、年間の行事などがどのように行われているのか、どういうことが行われてきたかなど、非常にややこしい講の組織についても詳しくお調べになってまとめられていたので、大いに参考としました。

 旧五個荘町域で、伝統的に近江商人をたくさん輩出した金堂のような集落と、伊野部のような純農村集落の文化の違いを比較するために、それぞれの住民の意識調査アンケートもありました。

──なるほど。そこで、改めて住民の方が自分の集落の文化などを意識し直した面があったのですね。

北川(純) そうですね。それと自治会史の制作は、お年寄りの活性化というのも目的としてありました。高齢者にいろんなことを話してもらうことは生きがいづくりにつながるということで、部会長も務めていただいたんです。

──1冊目の編集過程で覚えておられることはありますか。

持田 とにかく、毎月1回程度、夜にたくさんの人に集まってもらいました。これは、皆さんの理解がないと、なかなか集まっていただけません。龍谷大学の調査を参考にさせてもらっている部分はありましたが、とにかく定期的に皆で集まって、了解を得て進めていくという感じでした。

北川(純) 1冊目の特色として、アンケートによる意識調査を全戸に対して行い、巻末に掲載しました。

 それから20年たった3冊目の今回も、この時点と比べられるように同じアンケート調査をやりました。時代とともに、習慣やしきたりがどう変わってきたのか、そういうものが、伊野部ではどう続いてきているのかという調査です。そうした調査をすると、全員が自治会史に関わっているという意識を持ってもらえると思うので。

山田和彦 私が2年前に自治会長をしたときに、近江八幡市安土町から、箕作山から流れ出て西の湖に注いでいる山本川の源流地点を探しているという人が来られました。自分の地域の歴史を調べている方だと思うのですが、『ふるさと伊野部のあゆみ』を購入されました。

神社の歴史と祭礼をテーマとした2冊目

──その後、1冊目の補遺として、2冊目の『鎮守の杜と建部神社』をおつくりになった経緯は?

北川(純) 神社の中嶋邦晴宮司のお宅から新たな古文書がたくさん見つかったんです。明治・大正時代の山の神古墳の調査記録や神額を揮毫なさっている久邇宮邦彦王との関係がわかる記録などをふくめて、祭礼などの神社にまつわることを中嶋宮司に執筆いただきました。

──地域のシンボルとして、建部神社の存在はかなり大きいのですか。

持田 建部神社の創建は、それこそ神話の時代の話ですが、その後、天武天皇の時代に栗太郡勢多(大津市瀬田)に遷されたのが現在の建部大社※1だとされています。建部大社の側の記録にも、そう書いていますので、つながりはあるのでしょう。言ったら母屋よりも新家の方が大きくなっているわけですね。

 昔は、建部大社の大祭の時には、建部大社から招待を受けて参拝したということを聞いています。私たちの世代では、そうした習慣もなくなっていましたが、誇りのようなものはあります。

北川(純) 最近は境内にある「瘤のケヤキ」が「ガン封じ」のパワースポットのような扱いで有名になり、遠くからもたくさんの人がいらっしゃいます。

 この「建部神社編」は、手にしたお年寄りの方が結構懐かしがられていました。特に祭礼に関して、女性は中に入ってやっていないので、「どういう祭りなのかがよくわかった」と言っておられました。

──近江商人の装束を着て、とても大きな神輿を担ぐ、金堂や宮荘と同型ですが、近江商人とのつながりはどうなのですか。

北川(純) じつは近江商人は、伊野部にいて、あまりイメージがないんです。集落の真ん中を伊勢道(御代参街道)が通っていたので、それなりに情報が入ってくる地域だったとは思います。近江商人として成功した人も、伊野部から出ていますが。

 建部祭り※2の下の郷の装束は、脚絆をして尻まくりした近江商人の旅装(金堂や宮荘と同じ装束)ですが、上の郷の日吉、北町などは半纏姿で神輿を担ぐので、同じ建部祭りでも少し装束が違います。

 伊野部は純粋な農村集落という印象です。1軒当たりの田んぼの面積が伊野部は旧五個荘町では上位クラスでした。それは生活のベースになっていたのでしょう。だから、身近な神社仏閣に対して、いろんな奉仕をしてこれたのかと思います。


※1 建部大社  大津市神領にある神社。近江国一宮。
※2 建部祭り  伊野部をふくむ建部郷17か村が合同で行う例祭。4月に建部神社、苗村神社(五個荘木流町)、日吉神社(建部日吉町)で行われる。日吉神社に7基の神輿が宮入りする。


人々のくらしとお寺をテーマとした3冊目

──その次の3冊目は、『人々のくらしと正福寺』ということで、寺院編ですか。

北川(純) お寺のこととあわせて、地域の自然と昔と今の暮らし全般をまとめたような感じです。毎月自治会が発行している『伊野部通信』の記事がベースになった部分も多いです。

──浄土宗のお寺、正福寺に関する第3章を、関住職が執筆なさったのですね。

関正見 私自身は奈良県の出身で、前住職に息子が生まれなかったので、30年ほど前に伊野部に来たというかたちです。この機会に自身の寺の歴史を詳しく知ることもできました。

──最新の3冊目は、第1章が「伊野部の自然」です。

北川(純) 正福寺に居着いていたアライグマの写真も載っていますが、なるべく目にした野生の哺乳類や鳥も撮影するようにしました。ただ、昔はよく見かけた野ウサギが、今は見られなかったり。

──第2章の「いとなみ」では、箕作山と住民の結びつきの変化などもあわせてお書きになっていますね。

北川(純) 昔はアカマツが多い山だったので、柴刈りに山へ行っていたのですが、それをしなくなったから、アカマツが松枯れですべて枯れてしまいました。

 その次に、カシなどのドングリのなる木がナラ枯れで全部枯れかけてきました。

北川宏 以前は薪や木の葉などを取りに行っていたのですが、石油や電気にエネルギーが変わったので、長い間、ほったらかしの状態になっていたんです。

 伊野部の山地は基本的に建部神社と正福寺の所有で、それを区画割りして個人に貸し出し、それぞれが管理していたのですが、それでは管理できなくなっていました。現在は里山の整備事業として、木々の間伐をしています。

 平成26年(2014)度から始めた里山整備事業は、永源寺森林組合さんの方からお声掛けいただいて森林経営委託契約を結んだもので、国や県、市の補助金が出て、自治会の負担はほとんどありません。現状で、おそらく間伐が8割方進んだので、山の中に光が入るようになって、きれいな山になりました。向こうの繖山でも、同様の事業をかなり進めておられます。

北川(純) 昔は本当にマツタケが多かったんです。山へ行ったら、手籠いっぱい簡単に採れました。生えるところは決まっているので、それを人に知られないようにしていました。採ってきたら銀紙(アルミホイル)に包んで、風呂の焚き口に放り込んでおくと、蒸し焼きのマツタケができました。それを割いて、醬油をさして食べるんです。

辻野 妻が子どもの頃、前掛けに入れてもらって帰ってきて、もう1回山へ行って、またもらって帰ってきたと、よく言っていました。

『伊野部通信』

『伊野部通信』3冊目に転用された記事も掲載。毎月発行で160号を超えた

──鳥や魚についてはどうですか。

北川(純) 伊野部は、愛知川の伏流水が箕作山にあたって進めずに吹き出るので、その湧き水でできた西の沢と吉住池(所在は東近江市建部日吉町)という二つの池がありました。つまり、きれいな湧水地帯にすむ魚がいっぱいいたんです。それが、愛知川の上流にダムができたり、近くの工場の廃液を流されたりして、ハリヨ※3やアユモドキ※4といった魚がいなくなりました。

 とくにハリヨはいっぱいいました。川に釣り針を落とせば、ハリヨかボテジャコが釣れました。ハリヨなんて、骨ばかりで食べられない魚なので嫌ったものです。よそでは味噌炊きにしたところもあるそうですが。それから、ウナギやナマズ、ハイ(オイカワの幼魚または雌)……。アユは一時ほとんどいなくなったのですが、いま、戻ってきています。それにホタルもやっと回復してきました。

 吉住池のことを地元では「ゆるが上溜め池」と呼んでいたのですが、秋の水が引く時期の魚捕りに使われたカキーやドンジョフミという漁具も紹介しています。

ドンジョフミ・カキー

(左)ドンジョフミ:ヨシの中に隠れている魚を、この中に追い込んで捕る漁具・(右)カキー:秋の一番水位が下がった時期に、藻の中に隠れた小魚を藻ごとかき上げて捕る漁具

──次の農具の章でも非常にたくさん写真が掲載されています。

北川(純) 明治5年(1872)に伊野部村が滋賀県へ提出した「農具類取調書下帳」という絵図面入りの古文書があったので、同じものが残っていないか調べたりしました。

──NHKの朝の連続テレビ小説『エール』※5に映ったので、使い方がわかった道具の話はおもしろいですね。

蔟織機(まぶしおりき)

蔟織機(まぶしおりき):上方から藁を根元側からさし込み、側面のハンドルを回して藁蔟(写真下)をつくる道具。蚕を藁蔟の中に移して繭をつくらせた。

北川(純) そうそう。深尾さんという方のお宅にあった道具なのですが、誰も何をする道具なのかわからなくなっていました。昔は農家の多くで養蚕もしていたので、そのために4軒で共同購入なさった「蔟織機」という道具でした。

──郷土玩具である小幡人形※6の紹介ページも特徴的ですね。
北川(純) 子どもが生まれると親戚がお祝いに小幡人形を贈ったりして増えていくんです。ただ、旧五個荘町内でも、金堂や川並ではそんな習慣はないそうです。隣の平阪や木流でもあまり小幡人形を持っていません。一方、建部日吉や近江八幡ではわりに持っているらしいです。

 女の子なら雛人形といっしょに、男の子なら端午の節句に飾る習慣があるので、何軒かにお願いして写真を撮りました。

小幡人形

小幡人形:下のように、雛人形とともに出して飾る家が今もある


※3 ハリヨ トゲウオ科の淡水魚。全長5〜6㎝で、滋賀県北東部と岐阜県南西部にのみ分布。環境省レッドリストで絶滅危惧ⅠA類に指定。
※4 アユモドキ ドジョウ科の淡水魚。全長15〜20㎝で、琵琶湖・淀川水系ではほぼ絶滅したと考えられている。環境省レッドリストで絶滅危惧ⅠA類に指定。
※5 『エール』 NHK「連続テレビ小説」第102作として2020年3月〜11月に放送。作曲家・古関裕而をモデルとした主人公の生涯を描いた。
※6 小幡人形 東近江市五個荘小幡町で作られている伝統的な土人形。江戸時代、小幡に住む飛脚だった安兵衛が京都伏見で製作技法を習得し作り始めたとされる。


多数の講組織が残る

──伊野部の特徴として、講と呼ばれる組織が多く残っていることもありますね。

 講組織は、大神講(神明講)、愛宕講のような神社系の講組織と、庚申講、念仏講、地蔵講、尼講のような仏教系の講組織があります。

 いわゆる「スキヨリ(同好の集まり)」というもので、その講が立ち上がった経緯も、それぞれ違います。お寺の講の場合も、先々代の和尚さまが主導されて、きちんとした組織をつくられた講と、自然発生的に続いている講の2種類がある気がします。

──現代の講は、あまり宗教色はなくて、親睦組織みたいなものだそうですが、そのイメージでよろしいですか。

 そうですね。伊野部の場合は、それぞれの講に神主や住職が呼ばれて、お勤め(読経)などの宗教行事をきちんとしています。それがなくなると、宗教色がどんどん薄れて、一杯飲みの会になったりしていくのかなと思います。

 今も複数ある地蔵講のすべてに呼ばれて、全部を回っています。その中には、もともとは1年交代で順番に「講元」となったお宅を回っていたのですが、個人の家では人が入りきらないので、お寺でやってくれという希望が出て、集合場所がお寺になったものもあります。

 そうした変化はありながら、みんな存続させる方向で知恵を絞ってきたので、残っているというところでしょうか。

──皆さんも複数の講に参加しておられるのですか。

持田文男 たいてい二つ三つ、三つ四つに入っています。

北川(純) 私の場合、地蔵講、神明講、愛宕講、念仏講、庚申講の五つに入っています。

──天照大神を祀る大神講は、お伊勢さん(伊勢神宮)に参るんですよね。

北川(純) 通常は毎年、一人が代参で参るのですが、7年に一度、全員で参拝する「講倒し」というのもあるんです。

 代参ではない「講倒し」や、それといっしょに行う「講結び」というのは古いしきたりで、それが伊野部には残っているんです。同じ大神講でも、東出講、中出講、沢出講と分かれていて、さらに別の講でも二つ、三つに分かれて活動しているところもあります。

──年に何回か集まりがあるのですか。

山田 神明講は3回。

北川(純) もともとは6回だったものが、4回になったり、3回になったり。どの講もだんだん簡略化はされてきています。神明講は別ですが。そして、必ずしも同じメンバー同士が同じ講に入っているわけでもない。

持田 所属する講は隣近所でも違うんです。

尼講と念仏講は男女別ですが、他は家単位での加入というかたちです。

北川(純) 当主がいなければ、そこの女性の人が出てきたりしています。1冊目で講組織の現在のだいたいの状況をまとめたのですが、中にはいつから始まったのかわからないものもありました。

 掛金帳などが入った講箱を当家になった家ごとに順番に回して、講を1回やるごとに帳面にどこで何をどうしたといった記録をしています。

 今回の補遺では、メンバーの家で回している掛け軸や講箱、掛金帳なども写真入りで紹介しました。すべて江戸時代後期から使い続けられてきたもので、掛金帳にある「焚き番」の一番古い記録は宝暦2年(1752)でした。講自体が始まったのは、もっと前かもしれません。

辻野 私は彦根の生まれなので最初は驚きましたが、彦根でも子どもの時には、お寺におじいさんやらが行っていたような記憶がうっすらありましたから。

北川(純) よそには行者講や日待講といった、伊野部にはない別の講もありますし。
 行者講は奈良県の大峰山へ参られます。

(左)愛宕講(北出)の覚帳・(右)愛宕講(東出)の講箱

(左)愛宕講(北出)の覚帳:天保6年(1835)と記載  (右)愛宕講(東出)の講箱:弘化2年(1845)の文字がある

全国的にも珍しい両墓制

──また宗教的な特徴ですが、旧五個荘町域では、墓地として全国的にもわずかな地域でしか残っていない「両墓制」が受け継がれているそうですね。

正福寺の境内墓地「拝み墓」

正福寺の境内墓地「拝み墓」

 奈良にはなかったので、こちらに来て、すごいなと思いました。珍しいのと同時に、維持する手間が大変だと思います。

 本来、日本では土葬だった時代がずっと続いてきて、昭和40〜50年代ぐらいから火葬が一般化した中で、土葬用の墓地はそのまま、墓石を置く墓地に変わっていきました。この地域は、昔から埋葬地と「拝み墓」を別々に持っておられたわけです。きちんとした拝み墓をお寺の境内などに持っておられたのですから、やはり豊かな地域だったと思います。

 土葬用の墓地に1回墓石を立ててしまうと、もう一度そこで土葬をするというのは無理なので、今後エネルギー危機などが起こって火葬ができないとなったような時には土葬用の墓地があってよかったとなるかもしれません(笑)。

──土葬用だった墓地は、愛知川のそばにあるのですか。

辻野 奥村(五個荘奥町)にあります[2ページ地図参照]。奥と伊野部と建部下野、平阪の4集落が共同利用しています。

五個荘奥町にある「三昧墓地(埋め墓)

五個荘奥町にある「三昧墓地(埋め墓)

北川(純) もともと、愛知郡と神崎郡の境界にあたる場所で、そこにつくられたのだったと思います。昔は、「サンマイ道」といって、墓まで歩くルートが決まっていました。

 いまは川筋が変わらないように堤防ができ、川側に道路もありますが、おそらく愛知川の河原だった場所でしょう。昔は、大雨による洪水があれば川筋もあちこち変わって、なかなか大変だったと思います。

──両墓制であることを皆さんは特に意識しておられないのですか。

北川(宏) 特に変な感じはしません。当然のこととして生活してきました。

 昔は埋葬地に遺体の全身を埋めていたわけですが、いまは灰だけを埋めるかたちになっています。現在、一般的な墓石の中に灰を納めるかたちでは、いずれいっぱいになってしまいますから。川原の地面に埋めて自然にかえすというのは、一番理にかなっているようにも思います。灰や骨を納骨堂に納めるかたちも、いずれはいっぱいになるので、完全に自然にかえす場所がある点で、伊野部はすばらしいと思います。

 最近は遺灰を海にまいたり、山にまいたりする散骨というのを望む方もいらっしゃいますが、遺骨や灰は埋葬許可のあるところにしか納められません。奥町の墓地に遺骨や遺灰を納める際は市役所が発行した埋火葬許可証を必ず遺族の方が持参します。一方、お寺のお墓は「拝み墓」なので、埋葬地にはなっていません。

辻野 墓石が置いてあるだけですね。

──他にお寺関係や習俗などで、奈良と違うと思ったことはありますか。

 お墓のことが際立って違うなと思いましたけど、お盆の「棚行(棚経)」を夜中に回ることもびっくりしました。棚経というのは、お盆の8月13、14、15日くらいの、お魂がおうちに帰ってきているところへ和尚がうかがって精霊棚の前で読経する行事で、浄土真宗以外はどの宗派もほぼ共通でやっています。

──私は浄土真宗なので、知らないんです。

 3日間のうちにすべての家のお仏壇を回るのですが、普通は朝か昼から夕方までの日中の時間帯です。ところが、伊野部では出発が夜の7時で、一晩かけて家々を歩くと言われて驚きました。

 近隣の集落のお寺でも、そんな習慣はなかったので、どうして伊野部だけそうなのか、あちこちに聞いて回りました。推測の域は出ませんが、昔はお盆のときに里帰りしてきた子らを迎えて夜通しの宴会をしていた。だから、和尚が夜中の何時に訪れても、文句を言う人はいなかったのだろうと。

 和尚が「ごめんやっしゃ」と言って、10分か15分ずつお勤めをするのにくっついて、集落の人も親戚の家に行って一杯よばれたりして、わあわあやってはったというのが、夜に回る意味なのではないかというのです。

 ただ、私が来た当初の30年前には、夜通し宴会をしているような家はほぼありませんでした。

──棚経の時間帯の習慣だけが残されていたわけですね。

 総集会のときに夜から昼間への変更を提案したことがあるのですが、当時は却下されてしまいました。「いや、大丈夫です」とおっしゃって。

 私も最初のころは、夜中の2時ごろまで回って、そこから2時間ほど仮眠させてもらって、朝の4時からスタートをもう一度して回っていたんです。

 それが、だんだん、各家の都合も変わってくるし、もうあまり夜中は困るとおっしゃるうちも出てきました。それで、うちの寺側も、息子が使えるようになってきたら、二人で回るようにして、夜の7時出発は同じですが、11時ごろにいったん終え、翌日の早朝からというかたちになりました。

北川(純) 今回、関住職に執筆していただいた中では、昔からの行事だけでなく、子ども向けの「てらこや」や高齢者向けの「ふれあいサロン」といった新たな地域密着の催しも紹介していただきました。

 正福寺は伊野部において、宗教や信仰という言葉だけでは言い表せない役割を担っていただいていると思います。

親子教室

正福寺で催されている乳幼児とその保護者を対象とした「親子教室」

──最後に話を変えますが、特に3冊目を見てまず感じるのは、掲載写真が大量であることです。これは?

一同 それは北川さん。

北川(純) 引札や観光パンフレットを集めるのが好きなコレクター気質が出ました。

──本日は興味深いお話をありがとうございました。
(2023.12.27)


編集後記

編集後記
本文インタビューにあるとおり、3冊目には平成17年(2005)と令和3年(2021)に伊野部の住民に対して行われたアンケートの比較が掲載されています。一部紹介すると、正月飾りは「山に採りに行く」が96%だったのが、「購入」と同数の48%となり、節分の玄関の魔除けは「している」「していない」が同数だったのが、「していない」が75%で上回るようになり、特別な食べ物として「恵方巻き」が急増し、「いわし」を上回りました(キ)


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