室町時代から文芸が盛んだった「江辺荘」
──野洲市歴史民俗博物館は、北村季吟の故郷であることもあり、関係史料の所蔵館としては全国有数だそうですね。
齊藤 そうだと思います。野洲町の時代から町が購入してきた資料、それから昭和31年に祇王小学校の中に仮設された「季吟文庫」へ地元の季吟顕彰活動に取り組まれている方々が収集された資料、季吟ゆかりの京都の新玉津嶋神社の寄託資料、それから天理大学附属天理図書館(奈良県天理市)の宮川真弥さんという研究員の方が、ゆかりの地だということで資料をたくさん寄託してくださるんです。
──取材前の調べ物でも、宮川さんという方の研究論文とかが出てきました。
齊藤 学生時代から野洲市にも調査にいらしていたそうです。お勤めになった天理図書館は俳諧※1関係の資料をたくさん所蔵なさっているので、今年の10月23日から12月2日にかけて奈良県の天理市にある天理参考館で「芭蕉の根源─北村季吟 生誕四百年によせて」という展示を、天理図書館主催で開催なされます。
以上の四つが柱になって、全国的にも有数のコレクションになっています。
──北村季吟の出身地は、野洲市の北という地区にあたるわけですね。
齊藤 これは地元の人にはなかなか言いづらい話なのですが、「出身地」という表現はせず、「故郷としている」という言い方をするようにしています。
北村家は近江国野洲郡北村を本国とする医者の家系ですが、季吟は京都で出生したと記録にはあります。
ただ、季吟自身が近江国野洲郡を、ふるさととしてとても大事にしていたのは間違いないですね。「祇王井※2にとけてや民もやすこほり」という代表的な句を収めた『続山井』には「江州野洲郡 永原といふ所にて興行に」と添え書きがあり、北の南隣にある永原で催された俳諧興行にも参加していました。
この北と永原に中北を加えた3か村は「江辺荘」と呼ばれ、中世においては荘園だった地域です。いまも「辺」の字が「部」になった「江部」という地名を、永原の中の信号やバス停に見ることができます。その江辺荘の産土神だった菅原神社(菅原天神)は、室町時代から文芸が盛んで、明応5年(1496)のものと推定される「永原千句」という連歌※3の記録が地元に伝わっており、神社の所蔵となっています。
連歌は、俳諧の基になった文学で、座を組んで、一人が詠んで、それを別の人が受けてというのを繰り返していきます。「永原千句」には、当時の代表的な連歌師だった宗祇※4とその門人の宗哲とともに、永原氏や菅原神社の神主らも参加していました。連歌が盛んになると、社寺の祭礼などの人がたくさん集まる場所で、その興行が行われるようになりました。
──室町時代から、地域的に文芸が盛んだったのですね。
齊藤 そうです。一種の文芸サロンがあったところです。永原氏は近江守護・六角氏の重臣でしたが、永禄11年(1568)に近江へ侵攻してきた織田信長によって、六角氏とともに没落します。その代わりに永原での連歌興行を引き継いだのが、北村家でした。
季吟の祖父が宗龍、その長男の宗与、次男で季吟の父にあたる宗円も、それぞれ連歌をたしなんでいたんです。宗龍は、連歌師、里村紹巴※5の門人でした。
──北村家の人びとは医者を生業としつつ、文学をたしなんでいたのですね。
齊藤 宗龍は、医術の方も当時の第一人者、曲直瀬道三に学んだとされています。当時の医者のたしなみとして、漢文学を知っておかなければならないという面もあったのでしょう。そうした環境も影響して、季吟は若くして俳諧を勉強するようになり、16歳のときに安原貞室に入門して、22歳で松永貞徳※6という当時の俳諧の中心人物にあたる人の弟子になりました。門人の中でも優れた者として「貞門七俳仙」と呼ばれた7人にも数えられています。
俳諧や和歌を詠むにあたっても、その基礎として古典文学を学ぶことが欠かせませんでした。明暦2年(1656)33歳で俳諧の宗匠(師匠)として独立しましたが、その前の承応2年(1653)に初の古典の注釈書である『大和物語抄』を刊行します。
当館所蔵の『北村季吟日記』は、寛文元年(1661)の7月から12月までの日記で、38歳のころにあたりますが、『土左日記抄』という『土佐日記』の注釈書を書き終えたことが記録されています。

北村季吟日記 新玉津嶋神社蔵(野洲市歴史民俗博物館寄託) 。写真のページに『土左日記抄』に関する記述がある。
──そんな若い頃の日記も残っているんですか。筆まめですね。
齊藤 やっぱり日記を書くというのは、当時の教養人のたしなみだったのでしょう。紙も貴重品の時代ですから、この日記は自分宛てに届いた書状の裏に書かれています。
※1 俳諧 室町時代末期に連歌の余興として作られた滑稽味を主とする連歌。江戸時代には独自の文芸となり、松尾芭蕉以後は発句(五・七・五)が中心となる。明治以降の俳句。
※2 祇王井 野洲市中央部を南北に流れる祇王井川のこと。平安時代、白拍子となった祇王が平清盛に故郷の田地に水路を掘ってほしいと願い出て完成した川と伝わる。
※3 歌 和歌の上の句(五・七・五)と下の句(七・七)を一人で、もしくは数人から十数人で交互に詠み連ねる詩歌の形態の一つ。室町時代に最盛期を迎えた。
※4 宗祇 (1421〜1502)室町時代後期の連歌師。姓は「飯尾」と伝わるが定かでなく、出生地も紀伊と近江の2説がある。
※5 里村紹巴 (1525頃〜1602)室町時代末期の連歌師。大和の人。当時の連歌の第一人者として織田信長・豊臣秀吉らとも交流があった。
※6 松永貞徳 (1571〜1653)江戸時代初期の俳人・歌人・歌学者。京都の人。和歌を細川幽斎、連歌を里村紹巴に学ぶ。貞門俳諧の祖。
松尾芭蕉に秘伝の俳諧伝書の書写を許す
──そして、芭蕉と出会うのがいつごろになるのでしょうか。
齊藤 まず、芭蕉が仕えていた主君の藤堂良忠、この人は蟬吟という号の方が有名ですね。藤堂藩の侍大将の息子だったのですが、俳諧好きで季吟に学んでいました。主人にならって松尾宗房(芭蕉の本名)も俳諧を学ぶようになり、主人ともども季吟の教えを受けたと考えられます。寛文7年(1667)、季吟の監修で、長男・湖春が編集した俳諧撰集『続山井』には、先ほどの季吟の「祇王井に……」の句などとともに、宗房の名で「花の顔に晴うてしてや朧月」という句など、24歳だった若き日の芭蕉の作品が収録されています。
なお、この前年の寛文6年(1666)に蟬吟が25歳の若さで亡くなっています。芭蕉は主人につき合ってというのとは関係なく、俳諧を続けていくんですね。

北村季吟画像 季吟文庫蔵・江戸時代
──以前の特別展の図録『北村季吟─俳諧・和歌・古典の師─』を拝見しながら、お話をお聞きしているわけですが、『続山井』の説明にある、「収録されている作者967人、48か国、句数5035」というのはすごいですね。俳諧が大ブームだったとわかります。
齊藤 そういった俳諧の世界において、当時43歳ぐらいの季吟はすでに第一人者として認識されていました。そんな季吟から見ても芭蕉は見どころがある人物だったのでしょう。延宝2年(1674)に秘伝とされる俳諧伝書『埋木』を書き写すことを許しました。芭蕉が31歳の時です。
また、芭蕉に『埋木』を伝授した延宝2年(1674)に、季吟はその前年に完成させた『源氏物語湖月抄』を第4代将軍徳川家綱に献上しました。俳諧の宗匠として息子の湖春とともに興行を各地で行いながら、古典の研究と注釈書の執筆にも非常に力を入れていて、その成果が認められ、将軍に献上するまでに至ったわけです。この献上は、当時、京都山科にある毘沙門堂門主だった公海※7の仲介によるとされます。
季吟は、東本願寺第13世宣如の子で長浜別院・大通寺の初代住職を務めた宣澄(暫酔)※8より古今伝授※9を受けるなど、当時の教養人である高僧とも交流を重ねていました。

北村季吟の関係図
もう少し後年の天和2年(1682)のことになりますが、伴庄右衛門※10という豪商に招かれて近江八幡を訪れ、八幡山の山頂からの眺めを詠んだ「和歌八幡十景」という作品も近江八幡市に伝わっています。「あふみちはむら山あれと其名さへみかみのたけのしもにたつらし」という、野洲の三上山を讃えた歌もふくまれています。
──近江商人の中にも文芸に親しむ人がいて、季吟と交流を持っていたわけですね。
齊藤 この八幡を訪れた年の前年の天和元年(1681)には、伊勢外宮に奉納した『伊勢物語拾穂抄』と『枕草子春曙抄』に対する受領書が季吟と息子の湖春あてに届いています。
──書いた本を神社に奉納するというのは、今ではない感覚ですね。
齊藤 神仏というものが、現在のわれわれが思っているよりも、もっと尊いもので、それに捧げることに価値があったのでしょう。季吟の行為は、歌人や俳諧師などによる前例があってのものだと思います。全国から大量の奉納品があったと思われます。伊勢神宮に季吟が奉納した作品が残っているかを確認することが今後の課題ですね。
この受領書は、次に出てくる新玉津嶋神社所蔵の資料の一つです。これらは以前は京都大学に寄託されていたのですが、季吟の地元にという意向で当館に移していただいたものです。
※7 公海 (1608〜1695)天台宗の僧。父は公家の花山院忠長、母は本願寺教如の娘。師の天海の跡を継いで大僧正となり、のち山科の毘沙門堂を復興。
※8 宣澄 (1686〜1681)浄土真宗の僧。霊瑞院従高。俳号が暫酔。大通寺初代住職となるが、ほとんど京都に在住し、季吟との往来は頻繁をきわめた。
※9 古今伝授 『古今和歌集』の難解な語の解釈などを秘伝として師から弟子に伝授すること。東常縁から宗祇への伝授がはじまり。
※10 伴庄右衛門(二代) (1630〜1690)資次。八幡の商人。息子の資伊(三代庄右衛門)とともに北村季吟に学ぶ。のちに分家筋からの養子で五代庄右衛門となったのが、文筆家として知られる伴蒿蹊(資芳)。
新玉津嶋神社社司を経て初代歌学方として江戸へ
──季吟は、天和3年(1683)、60歳の時に新玉津嶋神社の社司となります。
齊藤 この頃の資料にあたる「新玉津嶋神社文書」という季吟関連資料はかなりの量なのですが、それを寄託いただいています。同神社は、鎌倉時代の歌人として名高い藤原俊成※11が和歌浦(和歌山県)にある玉津嶋神社に祀られている衣通郎姫という和歌の神様を京都に遷して勧請したことに始まります。ですから、「新」がついています。

図書奉献請文 新玉津嶋神社蔵(野洲市歴史民俗博物館寄託):季吟が自著を伊勢外宮に奉納した時の受取書。

新玉津島記 新玉津嶋神社蔵(野洲市歴史民俗博物館寄託):神社の由来などを記した季吟自筆の巻子本。末尾で自身が天和3年(1683)5月29日に万葉集の注釈本を書き終えたことを記している。
季吟が新玉津嶋神社にいたのは6年間なのですが、とても重要な時期で、季吟は、ここでより一層研究に打ち込んでいます。『万葉拾穂抄』という『万葉集』の注釈書の執筆を進め、元禄2年(1689)に5代将軍の徳川綱吉に献上しました。
同年の12月に幕府に召し抱えられる旨の通知が届いたので、季吟は湖春とともに江戸に向かいました。江戸では、幕府の歌学方に就任します。これは職名で、和歌に関する書物の研究や将軍家などに和歌の詠み方などを指導することが仕事でした。
──綱吉の側用人の柳沢吉保※12も和歌に熱心だったそうですね。
齊藤 儒学者の荻生徂徠なども召し抱えているので、和歌に限らず学問全般に対してだっただろうと思います。江戸幕府の成立から100年ほどが経ち、時代も安定してきたので学問が奨励され、季吟のような文化人が活躍する場が出てきた時代だったわけです。そこで季吟は、俳諧、和歌、古典などの江戸時代における土台をつくる立場の人物になりました。
──柳沢吉保だけでなく、その正室も季吟の指導を受けていたとか。
齊藤 柳沢吉保の正室、定子が季吟に和歌を学んでいます。こうした文化面に関しては妻や周辺の家臣も学ぶという例が見られます。
元禄10年(1697)には息子の湖春の方が50歳で先に亡くなってしまうのですが、19歳になっていた孫の湖元が歌学方を継いで2代目となり、以降も北村家が代々歌学方を世襲していき、明治維新を迎えます。
季吟は息子に先立たれながらも、82歳まで生きて、当時としては長寿をまっとうしました。

万葉拾穂抄 季吟文庫蔵:季吟は、万葉集本文の底本に、藤原俊成・定家をルーツとする公家、冷泉家に生まれた儒者の藤原惺窩による校本を用いた。その縁から、「冷泉亭人」(冷泉為経とされる)が序を書いている。
※11 藤原俊成 (1114〜1204)平安時代後期から鎌倉時代初期の歌人。歌人・藤原定家(『新古今和歌集』の選者の一人)の父。
※12 柳沢吉保 (1658〜1714)譜代大名。綱吉の側用人として文治政策を推進。のちに大老格となり、甲斐15万石を領した。
画期的な注釈の様式を採用した『湖月抄』
──ちょうど今年はNHKで大河ドラマ『光る君へ』を放送中なので、『源氏物語湖月抄』について紹介していただけますか。
齊藤 簡単に言えば、『源氏物語』の注釈書です。延宝元年(1673)に成立して、延宝3年に刊行され、江戸時代を通じてベストセラーになりました。古い文体のままだと江戸時代の人でも読めなくなっていたわけです。一部の限られた人を除いて、難解な語句が多く、主語や目的語が省略されている文章をそのままで理解することは困難でした。
江戸時代以前のそれぞれの時代で一流知識人とされる人が注釈書をまとめてきたのですが、注釈と原本が別々に分かれていました。それを季吟は、上の段に頭注を置く、かつ原文の隣に傍注を入れるというスタイルで一冊ですむようにしました。
頭注には、中世の源氏物語注釈書である四辻善成※13の『河海抄』、一条兼良※14の『花鳥余情』、三条西実隆※15が肖柏※16の説をまとめた『弄花抄』、同じく実隆の『細流抄』、三条西公条※17の『明星抄』、九条稙通※18の『孟津抄』の説と、『源氏物語』に関する季吟の師であった箕形如庵※19と季吟自身の説を加えています。

湖月抄(源氏物語湖月抄) 野洲市歴史民俗博物館蔵:54巻に登場人物の系図や年立(主人公の年齢に沿った年表)などを加えた全60巻から成る。
──それぞれの時代で公家を中心とした学者が『○○抄』を書いていたのですね。
齊藤 これらは一部の人が原本や書写したものを秘蔵する形で伝わっていました。それを一冊に取りまとめ、どんな人でも読める印刷本の形で普及させたことが『湖月抄』の功績といわれています。
そして、頭注と傍注のスタイルは現在の出版社が出している古典文学全集などにも引き継がれています。当時としてはとても斬新なアイデアだっただろうと思います。
正確には、『湖月抄』成立の年に頭注を用いた『首書源氏物語』が「一竿斎(本名不明)」編で刊行されていますが、注釈が簡略で、『湖月抄』ほど普及しませんでした。
──撮影用に出していただいた『湖月抄』の現物があります。
齊藤 「桐壺の巻」の冒頭(表紙写真参照)を例に説明してみます。右ページに大きく「桐壺」とあって、この巻の名前の由来、「源氏の君誕生より十二歳の事まで」というように書かれている時期、それから内容の概略が1ページの中にまとめられています。
次の左ページからが本文で、最初の「いづれの御時にか」という言葉に対して、上段の頭注で、「伊勢※20の家集(伊勢の歌集『伊勢集』)」の最初で、「いづれの御時にか有けんおほみやす所(御息所)と聞ゆる御局に……」と書かれていることに基づくとしています。説明の最初に右寄りで「師」とあるのは、季吟の師・箕形如庵の説だということを示しています。
──過去作のこれこれを引いたという指摘ですね。
齊藤 歴史学が専門の私などは不得意ですが、国文学の研究者の方は、こうした出典や、この歌はこの歌が基だといったことがすぐにわかるそうなのです。
季吟以後も『源氏物語』研究は盛んで、江戸時代後期の国学者、本居宣長は『源氏物語玉の小櫛』で「もののあはれ」という概念を打ち出すようになります。宣長は季吟の注釈に対してはどちらかというと批判的でしたが、同書で「今の世にあまねく用ふるは湖月抄なり」と書き、その使い勝手のよさは称賛しています。
近代以降もさまざまな文化人に重宝されて、学生時代の川端康成も戦時中に『湖月抄』を読んでいて、のちの作品に『源氏物語』の影響がみられるようになったそうです。そのように季吟は、『源氏物語』が1000年以上の長きにわたって読み継がれるきっかけをつくった人であると言ってもよいと思います。
ただ、明治以降は、与謝野晶子や谷崎潤一郎などが『湖月抄』などをもとに、現代語訳したものを出すようになり、原文を読む読者は減っていきました。
※13 四辻善成 (1326〜1402)南北朝時代から室町時代前期にかけての公家・学者・歌人。
※14 一条兼良 (1402〜1481)室町時代中期の公家・学者。博学多才で、歴史・有職故実・文学に通じた。
※15 三条西実隆 (1455〜1537)室町時代後期の公家・歌人。連歌師の宗祇から古今伝授を受け、古典の普及に努めた。
※16 肖柏 (1443〜1527)姓は牡丹花。室町時代中期の連歌師・歌人。
※17 三条西公条 (1487〜1563)三条西実隆の次男で、歌人・和学者。
※18 九条稙通 (1507〜1594)室町時代後期から安土桃山時代にかけての公家・古典学者。三条西実隆が母方の祖父にあたる。
※19 箕形如庵 (生没年未詳)江戸時代前期の国学者。源氏学を相伝して北村季吟に伝授したとされる。
※20 伊勢 (872頃〜938)平安時代前期の歌人。三十六歌仙の一人。宇多天皇の女御・藤原温子に仕えた女房。
地元の顕彰活動で句碑や銅像を建立
──季吟について、地元では早くから顕彰活動がなされていたそうですね。
齊藤 まず大正9年(1920)に野洲郡役所が『国学大家北村季吟』という立派な本を発行しました。この際に北村家や木村家、新玉津嶋神社などへの資料調査が行われたそうです。
戦後は、昭和30年(1955)3月に「北村季吟顕彰会」が発足しました。この時は、同年4月に野洲町が誕生する直前で、合併前の祇王村村長だった山本喜一氏が初代会長に就任しました。同年5月15日に顕彰会と野洲町の共催で二百五十回忌法要が営まれ、北にある句碑の除幕式も行われました。句碑の碑文は松尾芭蕉の墓がある義仲寺(大津市)の無名庵庵主で著名な俳人だった寺崎方堂氏の筆によるものです。本当の季吟の命日は6月15日なのですが、当時は農繁期だったので、1か月繰り上げたのだそうです。
翌年の昭和31年には、地元の山添文彌氏(野洲町教育委員)、寺井秀七郎氏(祇王小学校校長、のち野洲町史編さん委員長)といった郷土史家でもあった方々が中心になって祇王小学校の応接室に「季吟文庫」が仮設されました。昭和37年(1962)には校庭に「季吟記念図書館」が建てられ、館内に「季吟文庫」が設けられました。昭和58年(1983)には野洲文化ホール前に「北村季吟像」が建立されています。

左「季吟銅像」(野洲文化ホール)、右「季吟句碑」(北自治会館前)
当館でも野洲町立歴史民俗資料館だった平成7年(1995)秋に町制40周年記念の企画展として北村季吟を取り上げ、野洲町と中主町が合併して野洲市が誕生した翌年の平成17年(2005)春にも季吟没後300年を記念して企画展を開催しました。
地元での顕彰活動も継続中で、11月に記念碑の除幕式などが行われる予定です。
──本日はお忙しいところ興味深いお話をありがとうございました。
(2024.9.12)
編集後記
北村季吟が就任した歌学方にあたるものを、3代徳川家光の時には公家の烏丸光弘が務めていました。本来公家が担っていた文芸や技芸が武士や豪商・豪農にも普及しており、今回の特集記事に出てくる人物に注釈を入れるため経歴を調べていておもしろかったのは、近江八幡の商人、伴庄右衛門の歴代のうち、登場しない四代庄右衛門(資章)。蹴鞠が好きで、屋敷内に競技用の設備を整え、家職とする飛鳥井家から免許も受けたそう。(キ)