[滋賀県立琵琶湖博物館専門学芸員] 松田征也さん 昭和58年〜平成8年、琵琶湖文化館の水族部門に勤務。 父の尚一さん(故人)も昭和36年の開館から勤務 |
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[滋賀県立琵琶湖博物館専門学芸員] 秋山廣光さん 昭和49年〜平成8年、琵琶湖文化館の水族部門に勤務 |
配管などは職員の手製
▽本来、仏教美術の保管庫として計画された琵琶湖文化館で、水族館の部分は言葉は悪いですが「客寄せ」のために作られたという面がございますね?
秋山 最初に建物ができて、それにくっつけたようなものだから、琵琶湖の水を引いてきて、汚れたらまたそれを琵 琶湖に捨てるだけのような構造だったね。途中に申し訳程度の濾過槽みたいなものはついてたけど、すぐ詰まって意味をなさなくなって。琵琶湖が濁ってると、 展示水槽も濁ってるという状態だったようです。
松田 だから、配管なども全部、後から職員がやった手製。僕の親父と八田和夫さんという方、この2人でほとんど作ったはず。
秋山 八田さんの本業は公用車の運転手なんです(笑)。けど、松田君のお父さんの手伝いをするようになっていて。パイプも真っ直ぐのしかないと、火であぶって曲げたり…。
▽当時の飼育設備は今と比べると…。
松田 水槽のエアも出なかったようです。
秋山 そう、ただの風呂桶に水を入れて魚を泳がすという程度の造りでしかなかった。
松田 開館当初、水槽の水のアクが抜けていなかったんでしょうね、魚が浮いちゃったので、消防車を呼んで水を入れ替えてもらったと言ってましたけど(苦笑)。
▽他に松田さんがお父様からお聞きになっている開館当初のお話というと?
松田 魚を集めるのにずいぶん苦労したようですね。
▽魚は寄贈となっているものも多いですが。
松田 はい、魚の多くは漁師さんから分けてもらっています。うちの親父は魚屋もやっていたので、そのツテもあって。
秋山 卸し問屋などもよく知っておられたから。
▽本当に魚屋さんだったんですか。どういう経緯で?
松田 普通に就職したんでしょうね。
秋山 「今までは魚を殺す仕事をしてきたから、これからは生かす仕事をやるんだ」とおっしゃってましたよ。
暗中模索もしくは孤軍奮闘の時代
▽昭和38年にオオサンショウウオが入って、これがとても長生きしました。平成5年に死ぬまで40年間も飼育されていた。
松田 来た時は、銛でつかれていて…。
秋山 背中にあったコブが、もとは穴だったらしいです。息をするたびに空気がもれてたっていう。
松田 抗生剤を打つなど治療をして、命を取り留めたという状態だったそうです。
秋山 中央の池にいたオオサンショウウオは夜中によく逃げ出してました。当時、水槽の水の濾過槽なども自動じゃ ないから、夜中も水をつぎ足す作業を宿直の者がやらなきゃいけない。その時に館内の見回りもするんですが、通路にいるんですよ、こいつが。それを抱いて池 にもどすのがまあ大変で。これは上野学芸員など、水族以外が担当の職員もみんなやってたんですよ。
松田 みんな2〜3人ずつ順番で、宿直は月に3〜4回ぐらい回ってきてたんじゃないかな。盆正月でも。逆に水族館の人間は仏教美術の展示などを手伝わされましたよ。
秋山 松田君とか若かったから「これ持てるだろ」とか言われて。二人がかりで鐘とか。
松田 文化財の取り扱いはいい経験になりましたけどね。仏様を持つのはだいぶうまくなりました。ここの部分を持つ、ここから手を動かさないようにとか教わって。そういえば、水槽に信楽焼の置物があったじゃないですか。
秋山 魚の入っている水槽に何か1点、焼物が入れてあったんです。魚に何かあって取りだしてしまうと空っぽの水槽の状態になる。その時のためにお客さんにとって見応えのあるモノを入れときなさいという、あれは草野館長の指導だろうね。
松田 その一つで信楽焼の壺をある水槽の中に入れておかれたんですよ。そしたら、その作者が人間国宝になって。
秋山 たしかキンギョの水槽(笑)。もったいないと取り出されてしまいましたが、そういう物が魚といっしょに展示されているというのはなかなか高尚でしょ。面白いこだわりをしていたというのはあるかな。
▽昭和45年に松田さんのお父様が、アユモドキの人工繁殖に成功なさいます。
松田 アユモドキは国際保護動物だったんですね(国の天然記念物に指定されたのは昭和52年)。これで財団法人日本動物園水族館協会から技術表彰をもらっています。
▽それから、他の魚についても人工繁殖ができるようになって…。
秋山 そもそも淡水をメインとしてやっていた水族館が他になく、もともと手に入りにくい魚を展示しているから、死んでしまったら次がないわけですよ。
松田 ただ、この時代に希少魚の繁殖をやったというのは画期的、今から見ると先見の明があったといえるんです。
▽魚は減ってきてはいたんですか?
松田 昭和30年代から減少が始まってはいました。けれど、そんな危機的状況ということはなく、今のようになるとは誰も思ってはいませんでした。
秋山 朝、港へ魚が揚がるので、それを文化館の前にあった船で買い出しに行ったり。志那(草津市)が多かったのかな。市は朝早いから、まだ暗い時分から行くんですけど、霧がかかってて座礁したり(笑)。
▽湖岸道路もなく、車では遠回りですしね。
松田 そもそも車では港のそばまで行けなかったそうですよ。水路だらけで。
▽で、飼育できそうな魚を買うんですか?
秋山 ナマズなどの餌にする魚を買いに行くんです。買って来たら、自分たちでさばいて与える。冬とかも小出しに しながら与える。そのついでに、珍しい魚、普段獲れないような魚が獲れたときはそれも買ってきて大事に治療して生かす。それが治療してる最中に宿直の人の お腹に入っちゃったりね(笑)。そう、宿直のおかずはその辺で獲れましたね。オイカワとか。
仕事の邪魔をしに来ていた人々
▽私は昭和50年代に小学生だったんですが、バス遠足で見に来た記憶があります。
秋山 うちのカミさんも幼稚園の遠足で来た時の写真を見せてもらったことがある。
松田 うちのカミさんも来てます。だいたい県下の小学校の社会科見学では、県庁と文化館がセットだったんでしょう。あと個人では、リピーターが多かった印象があります。
▽大阪の中学校の先生で、国土交通省の淀川環境委員会委員などもお務めになっている河井典彦さんにお会いした時、小学生の頃、大阪から琵琶湖文化館に何度も行った思い出をお話しいただきました。
松田 河合さんはよくいらっしゃってた。
▽松田さんのお顔がお父様にそっくりになってきたとおっしゃってました(笑)。
秋山 当時は設備も十分ではなく、あちこち飛び回ってメンテナンスに努めているなか、魚の好きな子供が来て長話を始める。そうやって仕事の邪魔をしに来ていた人たちが、今では学校の先生や研究者などの関係者に大勢なってます(笑)。
松田 琵琶湖博物館だと中島経夫さんも京大の学生だった頃からよく通っておられたり。
秋山 他にも細谷和海さん、同じ時期ぐらいにナマズ好きの女性、小早川みどりさんとか…。友田淑郎さんなんか、宿直してる者相手に一晩話して翌朝帰っていく(笑)。
▽その頃の蓄積が、今の琵琶湖博物館の水族展示につながってるわけですね。
松田 それはまったくそうです。よその水族館も淡水に関してはそう。これこれの魚を譲ってほしいという依頼も多かったですし。
▽昭和56年から始まった水族企画展では、その後、琵琶湖博物館で行われた企画展と同一テーマも多いですね。
松田 昭和59年に催した「びわ湖の魚と漁具・漁法」展の図録などは今でもほしがる方がありますね。あぁ、昭和 56年の「世界のメダカと水草」展が最初だったのか。これは面白かったですね。外来生物や希少種の展示は、その後大きく広がるテーマをずいぶん前からやっ てたなという感じですね。
秋山 その当時でも意味があったし、それは今でも変わらず意味があるね。けど、「琵琶湖のおいたち」展(昭和 57年)で、骨が出土する動物、イノシシやクマとかを展示することになって、タヌキの剥製を探し回ってもロクなのがない。やっと手に入ったのは、縁側に 座ってキセルをくわえて、将棋打ってる(笑)。そもそもタヌキという動物がそんな扱いしかうけないかわいそうな存在なんです。本当は細身なのに、なんか詰 め物されて太らされて…。
▽えー、お話はつきないようですが、この辺で。本日はありがとうございました。
※1 アユモドキ ドジョウ科の淡水魚。姿がアユに似るが、口に6本のヒゲがある。琵琶湖・淀川と岡山県下の河川に生息。 ※2 中島経夫 琵琶湖博物館上席総括学芸員。専門は魚類形態学。 ※3 細谷和海 水産庁中央水産研究所魚類生態研究室長を経て、現在、近畿大学農学部水産学科教授。 ※4 小早川みどり 西南学院大学など非常勤講師。専門は系統分類学。著書に『世界のナマズ』(共著)など。 ※5 友田淑郎 国立科学博物館の主任研究官などを経て、現在、北びわ湖研究室を主宰。昭和36年、ビワコオオナマズとイワトコナマズを新種として記載した業績で知られる。 |
3月4日(火)〜3月30日(日)開催
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大津・湖南【国宝】絹本著色六道絵(聖衆来迎寺) 15幅のうち1幅 附 旧軸木14本 甲賀【重文】木造阿弥陀如来立像 附 像内納入品(玉桂寺) 湖西【重文】木造薬師如来坐像(長谷寺) 湖東 雪野廃寺址出土品 塑像断片 湖北【国宝】金銀鍍透彫華籠(神照寺) ●3月23日まで「青の造形」展にて展示、3月25日より本展へ移動 ●3月25日より展示 |
●エピローグ
琵琶湖文化館が休館となった理由には、県の財政事情に加え、施設の耐震診断が未着手であることがあげられています。同館の目の前には、地震など大規模災 害発生時の危機管理機能を備えた滋賀県警察本部新庁舎が建設中(本体工事費約134億円)。文化財の方もよろしくお願いします。
生前の姿をお知りの方によると、“とにかく熱い人”だった草野文男初代館長。寄付金集めでは、自ら運転する車2台を乗り継いで2年間に8万キロを駆けめ ぐったそうです。県への要望書ではなく、県民や県内企業に向けた「勧進帳」という選択もあると、建設の経緯を知って思いました。(キ)