特徴あるプログラムで、映画好き・音楽好きに注目されている町立ホールがあります。
この(2002年)3月にはインドネシアの民族楽器ガムランを購入。
開館から14年、その歩みを中村道男館長・上村秀裕学芸員のお二人にお聞きしました。
▲表紙写真:これまでの催しのチラシが貼られた碧水ホールの事務所のドア
● 表紙の言葉 ●
「95 年にやった『ドイツ1919~1931映画回顧展』は入場者数が多くなかったわりに、『このチラシ(写真右下)、まだ持ってますよ』とか言ってくださるお客さんがけっこうおられます」(上村学芸員)。写っているのは、『嘆きの天使』(1930年)で主役を演じた女優マレーネ・ディートリッヒ。
インタビュー
水口町立碧水ホール館長
中村道男さん
1951年、土山町生まれ。水口町役場職員、公民館、電算室、青少年育成係などを経て、1999年から3代目館長。
水口町立碧水ホール学芸員
上村秀裕さん
1966年、水口町生まれ。大学卒業後、碧水ホールへ。
水口城の愛称が「碧水(へきすい)城」だったわけです。
お壕の「水が碧(あお)い」ということで。
▽開館は1989年7月1日ということですが、すぐ隣の歴史民俗資料館、図書館、県立文化芸術会館などと同時ですか?
上村学芸員(以下K) 文化芸術会館と民俗資料館が83年、ほぼ同時で約20年の歴史があります。それから6年ほど遅れて、開館しました。開館するまでは「水口文化小劇場」という仮称で計画が進められていました。県内に小さな市町村立のホールをいくつも造る動きがあって、その9館目です。500席未満の小ホールに対して補助金が出たんですね。うちの後には、例えば石部町にもできましたが、あそこは499席きっちりです(笑)。
中村館長(以下N) 県立の文化芸術会館の展開と、大津でびわ湖ホールの建設が始まるまでの間の期間にあたります。
▽「碧水ホール」という名前の由来は? 最近は平仮名の名前や愛称が多いですが、読めないような難しい言葉ですね。
K 私も読めなかったんですよ(笑)。
N 近くに今はお濠だけが残ってますが、水口城があり、その城の愛称が「碧水城」だったわけです。お壕の「水が碧い」ということで。たいへん歴史的由来のある名称なんですが、他とのやりとりでは、頭が「ハ行」は不便です。「ヘキスイホール」とかなり気合い入れて発音しないと。チラシなども「水口」や「滋賀」と頭につけるようにしています。
▽それでは、開館当初から順を追っていきますが、資料によると「2年間の準備期間を経て」とあって…。
K 「準備期間」とありますが、実際は企画に手をつける余裕がなかったんです。何にもない所からスタートしましたから、ここで生活するための準備に2年かかったというか。私は開館の1カ月前からここに入ったんですが、「空調て、何?」というレベルですから。劇場経験がある人はいなかったし。
N それに、予算的なこともあって、ホールは誰か町民の人たちに使ってもらう所で、ホール自体で企画するという考えがあまりなかったようですね。けれど、このホールに対しての設置条例の中には、「町民に文化芸術とふれあう機会を提供する」とあるんです。例えば、そういう仕事は文化振興課がやって、ホールはただ場所を提供するところという考え方もありうるわけですが、そうではなかった。それに従って予算も徐々についてきたわけです。
K その条例の存在を自分が知ったのが、開館して2年過ぎだったという。
▽(笑)。
K ほんまそんな程度でしたよ。
そうじゃなくて、公立のホールでなくてはできないものに
なっていったんです。
▽そして、2年後に第1回企画上映として、「小津安二郎特集」以降「黒澤明特集」、それから「山中貞雄」などが続きます。古い日本映画をやられたのは?
K 平成3年(91年)となってますが、3月で、正確には90年度の事業です。要するにこの年は、これをやるだけの予算しかなかった。それも、ここだけの話ですけど、10数万円(笑)。何ができるのか、いろいろ調べました。
▽これらは安かったわけですか?
K 安かったです。93年に小津安二郎の生誕90周年がありましたけど、その前ですし。その代わり、プリントはボロボロ、長さも『東京物語』なんか10分ぐらい短かったし(笑)。新作はなかなかできません。それは映画館がなさるお仕事ですから。今はシネコンの時代ですが。
▽小津特集のお客さんの入りはどうだったんですか?
K 初日が大雪だったのですが、よかったんです。それが間違いのもとというか(笑)。それで続けてしまうことになったんですね。
▽山中貞雄など、この頃というと、ほとんど忘れられてたんじゃないんですか?
K 誰も知らないから、わざわざ「知られざる戦前の傑作」としたんです。
▽入りはどうだったんですか?
K 悪かったです。戦前の映画というのは、非常に保存状態が悪いんです。ロールが切り替わる時にも大きな音がしたりとか、セリフよりもノイズの方が大きいというような状態でしたし。それに対して名作とされている黒澤明の「羅生門」はやっぱり入りがよかったですね。ジョン・フォードの「駅馬車」は記録をつくりました。200人いきました。
▽普通の入りはどのぐらいなんですか?
K 80人前後といったところです。
▽フォードだと「タバコ・ロード」もやってましたね。
K これも入りが少なかったですね。むちゃくちゃ面白い映画ですし、すごいきれいなプリントだったんですけどね。それだけ上映される機会が少なかったのかと思うと(笑)。
▽それから、次に「阿賀に生きる」。
K これは、全国の上映運動にのっけてもらったんです。早くに行われた上映会を見に行って、これはいいからやろうと。初めて有料にしました。
▽あぁ、これまでは無料なんですね!
K 「阿賀に生きる」は一応全国展開中ということで、前売り800円、当日1000円。それまで無料だったのは、先代の館長の「できるだけ無料でやりたい」という意向、それに16ミリプリントを有料での上映はできないんです。16ミリしかないような場合はできるんですけど。「阿賀に生きる」は111人来ていただけて、使用料に限っては、ペイしました。
N 普通の映画館なら建物代から人件費から入るわけですから、そんな暢気なことを言ってるのは公営のホールだけですが。
▽次が94年に「動く絵」展。
K これはいわば映画の企画展なんです。美術館でモノが並んでるのを巡回する、あの映画版なんです。ある配給会社のもので全国10カ所ぐらいでやりましたが、ほとんど美術館で、公立ホールはうちだけだったと思います。
N それから「喜劇映画特集」などをやって、普通の劇場にはかからない映画だけども、お客を集められる映画があることがわかり始めたんですね。
▽この辺りから、町立のホールとしては変わった方向へ……。
N いや、そうじゃなくて、公立のホールでなくてはできないようなものをやるようになっていったんです。
役場でハンコを押した人たちは偉いなと思いますよ。
▽その次の「世界のアニメーション」は?
K この時は、めっちゃ濃い人が大勢来ましたね。どっから湧いてきたんだというような。
N それで、「映画の世界というのは非常に広い」ということがわかった。商業映画というのはもちろんそれでペイしなきゃいけないんですが、そうではなくて、自己表現の欲求というかそれによって作られたものがあるということ。上映する場を設けるというのは、そういうふうなものをバックアップする役割もあると。
▽他の西日本での開催地は?
K うちと高松市美術館と広島市現代美術館もやったかな。東京は渋谷にあった西武シードホール、今はもうないですが、そこが皮切りで。ほとんど美術館です。
▽この頃、中村館長は?
N 僕はボランティア・スタッフとして関わってました。
▽なるほど。そのHVS(碧水ホール・ボランティア・スタッフの略称)はいつから?
K HVSを立ち上げたのが94年…ですから、ちょうど「動く絵」展の年なんですね。ホールにとって、94年というのは、無料で開放するのではなくてチケットを販売するという形を確立したし、一つの節目であったと思います。
N コンサートについては、1発目がクラシック、2発目がインドの古典音楽で、どちらも無料。
▽インド関係が続きますね。
K 続きます。これの翌年も別のインド音楽をやりました。
N 「ハリプラサド・チョウラシア」ですね。この企画は神戸のジーベックホールという所でシリーズでやっておられたんですよ。それをそのまま提供していただいた形なんですが、これをやるというので、役場でハンコを押した人たちは偉いなと思いますよ。インド古典音楽ですよ。その当時の教育長がね、密かに自宅にシタール(北インドの弦楽器)を持ってたという…。
▽(笑)。
N いや、ほんとにインドへ行ってお土産に買ってきたらしい。そういう意味では、それを理解する文化的なキャパシティがあったんでしょうね。やっぱり1発目は無難にクラシックで行ってるんですけど。
▽こうした動きは他のホールと比較して?
N あんまり、他館のことはわからないのですが、うちの特徴としていえるのは、「企画会社が売りに来るものをあまりやってない」ということだと思います。
K(カタログ類を入れたボックスを持ってきて)「アーティスト企画情報」といって、こういうカタログがいっぱい来るんです。
N シーズンになればもっと。
▽カラーの立派なパンフレットですね。
K 要するにこういう立派さも、入場料にはねかえっているわけです。
K これは、講演のやつですね。(有名人の名前がずらり)エージェントのもう一つ先の企画会社ですから、こちらの意図が伝わりにくくなるんです。うちもセットものを買う場合がありますが、こういうパンフレットを見ながら探すのか、何かやりたいものがあって、それを探すためにパンフレットを見るのか、その違いはあるでしょう。だから、インド古典音楽で演奏いただいたバンスリー奏者の中川博志さんという方は、その後も継続して、このホールの応援団のようになってくださって、いろいろアドバイスをくださったり。中川さんとの関係はかなり続きます。映画では、バスター・キートン特集をやって、東京の喜劇映画研究会というグループのように、フィルム自体を好きで持っている人たちと出会うことができました。
「こんにちは、あなたのファンです」という挨拶から始まって…
N 私が言うのも何ですが、映画の独自企画、97年の「プライベート・ムービー」はよかったですね。
K これは、正直な話、映画に関しては「この年はこれしかできなかった」っていうぐらい大変でした。
▽企画から何から全部ですか。
N これは、このままをどっかに売ってもいいぐらいだったですね。上村君が丸1年間かけて実際にフィルムをアメリカから借りてくるやりとりが、うちのホームページに出てます。
▽拝見してないんですが、何を手本にして。
K そんなもんないですよ。「こんにちは、あなたのファンです」という挨拶から始まって…。交渉相手のバーバラ・ハマー監督はその2年前、95年に山形国際ドキュメンタリー映画祭で審査委員長として初来日されて。うちみたいなとこにフィルムを提供いただけるというのは、たいへん光栄です。
▽公立のホールでやって問題があるというようなものはない?
K 若干問題ありのものもありますけど。だいたい事前に観てますので、そのうえで上映するわけです。
▽上映作品の一つ、「動くな、死ね、甦れ!」(89年、ロシア)の場合、娘を殺されて気がふれた母親が全裸で箒(ほうき)にまたがって走り去っていくというショッキングな場面があるわけですが、特に問題ではない?
N 問題ではありません。そういうものも中にもあるぞというチェックはしますが、「だから、やめる」というようなことはしません。それは作者なり、それをやろうと企画した人の意図にそったものだから。
▽あと、ジョナス・メカス監督など、字幕がつかない作品がありましたね。
K あの人はつけない方針なんです。
▽見てる側がわからないんですが、そこは問題にならないんでしょうか?
K アニメーションの有名なユーリ・ノルシュテインさんもですが、字幕をつけると読んでしまうので、「言葉はわからなくても映像を見続けてほしい」という意向のようなんです。
▽観客から文句は出ないですか?
K メカスの場合、お客さんからはなかったですね。
N これについては僕は文句言ってました。何らかの対策をするべきではないかと。オペラなんかでもそうなわけですが。
▽それから、フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーでは、字幕はついてるんだけども長すぎて読み切れない(笑)。
K ひょっとして「臨死」を見に来られたんですか? あれは字幕でなくて、横にスライドで日本語訳を映写する形でしたでしょ(その後、弘前大学医学部が日本語字幕付きのプリントを購入されました)。あの6時間でスライド何枚通したと思います? 1400枚ですよ。3人がかりで。
N スライドを操作した者は英語がわからないので、わかる方に来てもらって。
▽裏もたいへんだったんですね。ワイズマンは全国で何カ所ぐらいやったんですか?
K けっこうやってるはずです。関西は最近復活した大阪の第七芸術劇場がかつてやっていて、うちが2館目でした。でも、15本もまとめては珍しい。大学の授業や人権の勉強会などで、あのうちの1本だけとかいうのはけっこうあるようです。
▽そういう例からしても、碧水ホールの企画は、話題になってたんでしょうか?
N 町内で話題になる種類のものではないですね。観た人それぞれには深い個人的な体験をしてもらえたと思ってますが。
▽逆に問題になるということはなかった?
N 「あぁ、なんて人の入らないものをやってるんですか」「こんなことに町の予算を使ってるんですか」といった意見ですか? 「一般受けのするものをもうちょっとやったらどうや」とはよく言われます。うちもそれがやりたくていろいろ探してるんです。でも、いろんな人に聞いてみると一般受けのするものといっても、それぞれいろいろなんです。
K 結局、一般受けとは、自分がよく知ってるものになる。
N 極端な話、吉本の誰、能の何ですかと、具体的なことになると、その時、すでにそれぞれになってしまう。それなら、むしろ、公共のホールでしかできないものを提供した方がいいだろうと。あっちにもこっちにもあるような空間をつくっても仕方ないじゃないですか。
▽96年にフォーラムをやっておられますね。これ第1回ということですが。
K 第3回までやってますね。
▽この中でテーマとなったものは何なんでしょうか?
N(資料を探し出して)「地域文化の未来を考える」。
K(見ながら)竹山靖玄前館長で、小暮宣雄さんで…(笑)。(坊主頭が続く)
N 竹山さんはほんとのお坊さんですね。
▽いつも、映画を観にきますと、お坊さんかなという方がおられますね。眼鏡をかけた、ツルツル頭の…。
K 小暮さんかな。
N けっこう……、碧水ホールにとっての精神的支柱(笑)。
K 今は、京都の橘女子大の先生です。
N それまでは「地域創造」の立ち上げに関わったりしておられて。その前段で、会館の職員らを東京に集めてワークショップをやられて。今も、ホールの在り方について参考になる話をササッと言ってくれたり、外に対してうちのことを「こういうことやってるホールがあるで」と宣伝してくれたり。
K ステージ側と観客側と企画側の全部見渡して批評できる、そういう人ですね。
N (資料に目を通し)「しかし、さまざまな企画がホールの独善に終わらないためには…」てすごいこと書いてあるな(笑)。
▽地元に関わるもので、水口を撮した古い映画がありましたね。
K 99年ですね。うちの音響技師の津田春吉さんという方が、昔、全盛期の映画館の映写もなさってたんです。その映画館が取り壊されるという時に、映写機と映画のフィルムを引き揚げてきた。ある日、「こんなんがあるねんやけどな」ということで…。
▽町民の方向けの上映をおやりになって。
K それはビデオにダビングして、小さなテレビの画面でですが。手がかりをつかむ、記憶を甦らせるための試写会をやりました。60人ぐらい、実際にその中に映っている方やその子どもが来てました。
N みんな商店街でお金だして作ってるわけだから、ここにちょっとお祖母ちゃん、立たしとこか、ここに子どもら立たしとこかという感じで、ある種の集団肖像画のような面もあって、今となってはそこが評価されるわけです。
▽私はそれを、試写会の後の企画上映「映画―20世紀の証言力」の中の1本として拝見したんですけど、フォードの「真珠湾攻撃」などと同じ中に入れてしまうというのが、おかしかったんですが。
N 水口のことを知らない人が観てもその楽しさがわかるという、ある種、普遍性を獲得してますよね。時の流れの中で。今は歴史民俗資料館の倉庫の中に保存してありますけど、また、将来、誰かが掘り出して、みんなを集めて上映会ということが起こるかもしれない(笑)。
▽ここ水口町ではありませんが、隣の信楽町が佐藤真監督の「まひるのほし」(98年)の撮影地の一つになってます。甲賀町の方が上映の実現をめざして動かれて、碧水ホールで上映が行われましたが。
K 主催なさった方が動かれたのは、信楽が舞台になってるからではなくて、佐藤真監督の映画だからです。その人は前からうちの上映会を見に来てくださってたそうなんです。そういう動きも開館から何年かして出てきてますね。
重要なのは館内の清掃、ゴミのチェック、電球換え…
▽ところで、町外から来られる方の割合はわかりますか?
K 正確なところはわかりません。
▽『HVS通信』の発送先でいうと?
K 町内が4割、郡内が3割、県内が1割、京都・大阪・名古屋などの県外が1割ぐらいです。県外には、今までお世話になったアーティストや企画会社も含みます。
N 外からが多いという印象を持たれるんですが、それほど多いわけではないんです。
▽このプログラムだったら、もっと京都とかから来てもいいように思うのですが?
K 案外、来ないですね。京都の人は1時間も電車に乗らないですもん(笑)。電話してこられて「碧水ホールって、どこにあるんですか?」、「えっ、滋賀県なんですか! ガチャ」。大阪の人の方がまだ遠出して来てくださいますね。
▽いつもアンケートをお配りになりますが、どんな感想が?
K どっちかというと「(ホール内が)寒かった」とかそんなんが(笑)、「音が途中で乱れた」とか。たいへん参考になるんですけど。
N 「感動した」とかいうチェック欄をつくっとけばいいか(笑)。慣れたお客さんは膝掛けを持ってこられますね。膝掛けとお弁当。下の方、つまりスクリーンに近い前の方は必ず冷えるんですね。それと食事。最近はファミレスもできて便利になりましたけど。
▽いわゆる常連さんがおられるのですね。
K その方たちの顔を見るとホッしますね。来られないと「具合でも悪いんか?」と思いますね。ほんまに。
▽催しのない平日というとどんなお仕事があるんですか?
K えーと、貸し館業務業務の合間をぬって、催しのある日のための準備。具体的にいうと事務仕事、伝票の整理、受付、打ち合わせ、それから宣伝物の作成、マスコミへの通知。催しのない日で重要なのは館内の清掃。ゴミのチェック、電球換え。
▽それも上村さん、やっておられる。
K それは全員がやらなくちゃ、家といっしょです。
N もう一つは、何もやってない時にもホールへ来てほしいわけですよ。だから、イベント案内の情報コーナーを充実させたり、ホールへ届いた情報は全部展示するようにしたり、ホームページやeメールニュースでも情報をお送りしています。それから問い合わせ、尋ねて来られたことに答える。発表会などの企画を持ち込んでくる方の相談にのる。どれぐらいお金がかかって、どんな心づもりをしておかなくてはいけないとか。カラオケ大会一つやるにしても、初めてだとけっこう大変なんです。それが仕事としてはけっこうあります。それぞれ主催者の人はすごい高いテンションで来るわけですよ。だから、こちらも毎回それに合わせたテンションでおつきあいしなくてはいけない。なかなか大変だけど大切なことです。
そうしたノウハウが得られるかが問題で…
そうしたノウハウが得られるかが問題で…
▽最後に今年になってからの動きと今後の催しなどについてお聞かせください。
N 近年で一番面白いのは、ヴァイオリンなどのアンサンブルを立ち上げたことと、ちょうど先週ぐらいからですが、ガムランのアンサンブルを立ち上げたことです。
▽ガムランは、インド音楽から沖縄とか、アジアの音楽の流れで?
N よく「なぜガムランなのか?」という質問をする人がいるんですが、それでは「なぜピアノなの?」「なぜパイプオルガンなの?」といった質問と同じだと思うんです。答えは、「動かせないから」ということになるんですが(笑)。
ガムランの場合、大勢で参加できる、とっつきが簡単である、音楽的な構造が興味深いとか、音が心地よいとか、いろんなよい点というのがあって。それから、考え方としては「半分はアジアのものをやろう」というのがあるんです。世界のバランスからいっても、日本の位置からいっても。なんか西洋のオーケストラばっかりやってるのも何だなぁと。それは皆さんもわりと当たり前に理解してくださる。
アジアものの中でいろいろ探してみると、ガムランが最適だということは、じつはかなりのホールが知っておられるんです。ただ、そうしたノウハウと人材が得られるかが問題で、まぁこれまでの流れから碧水ホールに注目してくれてた人たちもいるし、ガムランやサウンドスケープの研究で有名な中川真さん(前京都芸術大学・現大阪市立大学教授)という人にも出会えましたし。なら、やってみようかということです。
K 非常にレンジが広い楽器であり、音楽であると思います。
N なんか西洋、アメリカばっかり向いてたところで、それとは違う非常にゆったりとした、時間の仕組みも違ってて、けっこう誰でも参加できるというものが手に入ったのですから、アート体験をしてもらうものとして最適です。
▽それも継続の結果ということができると思います。本日は長時間お話ありがとうございました。
(2002・7・12)
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