2008年 10月 16日

『ドングリと文明』書評の誤り

 制作中の寺本憲之さん著『ドングリの木はなぜイモムシ、ケムシだらけか?』(11月下旬発行予定。以下『イモムシ、ケムシ』)のせいで、私の頭は「ドングリ」という言葉に強く反応します。
 なので、10月12日(日)付毎日新聞の書評欄にあったウィリアム.B.ローガン著『ドングリと文明―偉大な木が創った1万5000年の人類史』(日経BP社)の養老孟司さんによる書評も読みました。
 その一節には、
                                                         
 本書の原題は「オーク」、つまり「カシ」と翻訳するのが普通である。カシの実がドングリである。ただしここはちょっと厄介で、カシ類には常緑と落葉がある。欧米でいうオークは落葉樹のカシ類を指し、日本でいうならナラやクヌギに相当する。
                                                         
とあるわけですが、これはかなり支離滅裂な説明です(まあ、養老さんの書くものや発言がかなり大雑把なことは皆さんご存じでしょうが)。本の方を買って開いてみると、ちゃんと目次前の冒頭に1ページを用いて、「オーク(英:Oak)=ナラ/カシ/ドングリの木について」というタイトルで、翻訳者による日本の読者向けの説明がありました。
                                                         
(前略)
 日本においては、落葉樹のオークを「ナラ(楢)」と呼び、常緑樹のオークを「カシ(樫)」と呼ぶ。ナラの仲間には、コナラ、ミズナラ、クヌギ、アベマキ、、カシワ、ナラガシワなどがある。カシの仲間には、アカガシ、シラカシ、ウバメガシ、アラカシ、ウラジロガシなどがある。
(中略)
 ちなみに、かつてオークは日本において「カシ」と訳されたが、実際に「オーク」という場合、ヨーロッパにおいては(中略)いずれも落葉性高木であるため、「カシ」と訳すのは適当ではない。むしろ、日本の山岳地帯に産するミズナラに見かけは似ており、「ナラ」と訳すのがより正確である。
                                                         
 こちらが植物学的に正しい説明です。ややこしいのですが、前記書評の説明は誤りだらけであることがわかると思います。
                                                         
・「カシ」と翻訳するのが普通である → 本の方では「カシ」と訳すのは適当ではないと断っているので、いまさら誤りをくり返すことはない。(『イモムシ、ケムシ』の原稿でも、「オークを『カシ』と訳している翻訳書をみかけることがあるが誤りである」と書かれています。)
・カシ類には常緑と落葉がある → カシ類は常緑だけです。
・日本でいうならナラやクヌギに相当する → コナラやクヌギなど落葉樹の総称が「ナラ」です。
                                                         
 これによって何がわかるかというと、大概の人は「ドングリの木=ブナ科コナラ属」の分類がいまいちわかっていない(それぞれの名称は、なんか、どこかで聞いたことはあるものばかりなのですが)ということです。
 じつは、『イモムシ、ケムシ』の原稿を読んで私もちんぷんかんぷんとなり、分類図を入れてもらいました。最終章の後半では、滋賀県における縄文時代からの人間とドングリの木の関わりについてもまとめた内容になる予定です。

2008年 10月 10日

連歌師と『のぼうの城』―門外漢の近江文学史 その4

 前回6月16日以来、間があきましたが続きの「その4」です。
 まず、前々回にあたる「その2」で書いた「信長・秀吉・家康のホトトギスの句に似たのが京極導誉の連歌の発句にありますよ」の件で、出典とされる『甲子夜話』全6巻(平凡社の東洋文庫に入っている)を図書館で借りてきて、ザーッと目を通しました。
 連歌関係では、巻三の21にこんな話が記されています。本能寺の変の直前に愛宕山で明智光秀がおこなった連歌の時の懐紙は、その山房に伝来していた。ところが、今年、幕府付きの連歌師・阪昌成に尋ねてみると、寛政の末に焼失してしまったと言っていた。 「貴むに足ざるものなれど、旧物なれば惜むべきなり」と感想を記しています。
 それから、巻三十五の8に、知人が「北村氏は流石、今江戸の宗匠ほどありて朗吟す」と言ったといって、北村季文の和歌が2首記されています。
 ふみも見ぬをどろがおくの住かたに
   おやにつかふる道はありけり
 露さむきさゝのしのやのおきふしも
   おやをぞ思ふ身をばおもはず
 北村季文は、近江出身の国学者・北村季吟の5代後(季吟―湖春―湖元―春水―季春―季文)にあたります。
 そして、巻五十三の8に例の話が記されていました。全文引用すると以下のとおり。
                                                         
 夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く?[りっしんべんに力3つ](表示できず、読みも不明)へりとなん。
  郭公を贈り参せし人あり。されども鳴かざりければ、
  なかぬなら殺してしまへ時鳥   織田右府
  鳴かずともなかして見せふ杜鵑  豊太閤
  なかぬなら鳴まで待よ郭公    大権現様
 このあとに二首を添ふ。これ憚(はばか)る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
  なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
  なかぬなら貰て置けよほとゝぎす
                                                         
 後の2首はあまり面白くないですが、当時の役人の名前をあてて無能さを揶揄したものだったのでしょうか。
                                                         
 話は変わりますが、ベストセラーとなっている和田竜さんの小説『のぼうの城』に登場する、のぼう様こと主人公・成田長親の従兄弟で、成田家当主・忍(おし)城城主だった成田氏長は、連歌好きなのですね。といいつつ、新聞の一段取りの広告欄で書名をよく目にするだけで、小説自体は未読です。『ビッグコミックスピリッツ』で連載が始まった漫画版の方の、第1回最終ページのセリフで知って書いています。
 これは歴史的な事実で、HP「家紋World by 播磨屋」で「成田氏」を見ると以下のようにあります。
                                                         
 氏長は連歌に親しみ在京の連歌師(里村)紹巴に連歌の合点を請い、『源氏物語廿巻抄』を贈られている。また、和歌を冷泉明融に学び、古今伝授を受けるなど、かなり教養の深い武将でもあった。氏長の連歌の友に豊臣秀吉の右筆山中長俊がいた。天正十八年(1590)、小田原籠城中の氏長に長俊が再三開城を促す書状を送ったことは有名である。
                                                         
 前述の『甲子夜話』でも話題にのぼった明智光秀の愛宕百韻に、宗匠として招かれた連歌師が里村紹巴です(この連載「その1」でも書いたとおり)。
 冷泉明融は、『源氏物語』の藤原定家による自筆本を文字の配列や字形に至るまで忠実に写し取った臨模本を残した歌人として知られているそうです。
 氏長の妻は太田資正(太田道灌の曾孫)の娘だそうですが、最近出た小川剛生著『角川叢書40 武士はなぜ歌を詠むか』(角川書店)[こちらは一応ザッと読みました]には、太田道灌が東国にくだった冷泉為和(明融の父)を師匠として和歌を学んだことが書かれています。
                                                         
 要するに、公家文化に憧れる関東の戦国大名たちも連歌や和歌、その基礎として源氏物語を愛好したというわけです。

2008年 6月 28日

石けん運動の経過について考える

 「門外漢の近江文学史」はお休み。

 中西準子さんが、自分のホームページの雑感6月3日付けで、
「石けん運動の経過について考える -びわ湖会議解散の報に接して-」
という文章を書いている。(どういう人かわからなければ、2005年11月6日のキシダ式で「おめでとうございます。中西準子様」という記事を書いているので、そちらを参照。) 一部、以下に引用。
                                                              
 有リン合成洗剤禁止が始まる頃、武村知事(当時)の公邸によばれたことがあったのを思い出した。市民運動はあくまでも合成洗剤禁止だったが、私は有リンを無リンにするのは意味があるし、生分解性の低い合成洗剤を、生分解率の高い合成洗剤に変えろという要求は意味があるが、合成洗剤を禁止して、石けんにという主張は意味がないという考えだった。石けんのいい点もあるが、それをきちんと調べるのではなく、ただ、昔に戻れみたいな発想は、とてもついていけなかった。
                                                              
         
 毒入り餃子事件の分析としては、一番説得力があるのではと思える[雑感422-2008.3.11「中国餃子と食品の安全 -問題は防疫」]、昔は古紙を配合した紙も、消費者の受けがよい「ヴァージンパルプ100%」で売られていたことを書いた[雑感 415-2008.1.22「古紙配合率のごまかし-私は二度ごまかされたことになるのかな?-」]なども読んでみてください。

2008年 4月 8日

門外漢の近江文学史 その2

 前回で述べた第1次連歌ブームの時に、二条良基と並んでその中心にいたのが、近江源氏・佐々木一族から分かれた京極家の当主、京極導誉(道誉とも)です。足利尊氏の第一の家臣として、室町幕府の要職につくと同時に、一流の文化人としても知られていました。連歌においては、最初の准勅撰連歌集『菟玖波集』編纂の後押しをし、その功績もあって同集には81句もの句が収録されています。
 『菟玖波集』に収録された京極導誉の句をあげてみましょう。
  よその里にも衣うつ音 海士(あま)のすむ芦屋も舟も程近し  導誉法師
 この句は、『源氏物語』の須磨の光源氏の侘住まいを連想しての作品とされています。導誉にとっても、『源氏物語』は当然ふまえておくべき基本でした。
                                                                      それ以外に数が多くて目立つのは、香道の薫物(たきもの)を詠んだ句です。
  煙になりて匂ふ焼きもの その姿富士と伏籠と一つにて  導誉法師
 これは、煙をくゆらせる伏籠(ふせこ)の姿は富士の山のようだとしたもの。
  これはふせこ(伏籠)の下のたきもの 君がためひとり思となるものを  導誉法師
 香道の歴史においても、京極導誉は欠かせない存在です。神保博行著『香道の歴史辞典』によると、導誉の婆娑羅(バサラ)ぶりが、この分野でもきわだっていたことがわかります。「(『太平記』の記述に)両囲の香炉を両の机に並べて、一斤の名香を一度にたき上げたれば、香風四方に散じて、人皆浮香世界の中に在るが如し…とるのは、風狂を超えた振舞いというほかない。普通、香をたく時は、馬尾蚊脚の小片をたくものである。一斤(およそ6800グラム)の香木とは狂気の沙汰である。財による道誉の香木収集は異常であって、石帯、仏座などの銘をもつ香木は、彼がそのものを割ってたいた香木であると伝えられている。仏罰をも恐れぬ所業である。世に道誉所持と称する香木は177種あるが、これは後に足利義政の有に帰している」(同書より)
 ただ、導誉の香木収集は、彼の連歌や『源氏物語』を好む趣味と一体のものだった気がします。香道の形式が整えられた宗祇たちによる第2次連歌ブームの頃には、「香木の鑑賞が、和歌をはじめ古典文学の教養を基礎とするものであり、さらに古典に題材を求め、その主題を香木のもつ味とイメージによって表現しようとする組香の方式が主流」(同書)となるのですから。香がたびたび登場人物の心情を表す『源氏物語』は、『古今和歌集』とともに組香の主な題材になりました。
                                                                      では、導誉はなぜ『源氏物語』を好んだのでしょうか。
 導誉が出家する以前の正式な名前は、「源高氏(みなもとのたかうじ)」といいます。同時代に佐々木惣領家の六角氏当主だった六角氏頼(うじより)も連歌をたしなみ、『菟玖波集』に入集していますが、彼の句には「源氏頼」と作者名がついています。公文書への書名にはすべて「源」姓が用いられました。「佐々木」は荘園の名を、「京極」「六角」は屋敷の所在地を、他の源氏と区別するために名字にしたものにすぎません。
 佐々木氏系図のよれば、宇多天皇の息子である敦実親王の息子、雅信が「源」姓を賜り、その孫の成頼が近江に下ったのが彼ら佐々木氏=近江源氏の祖とされています。『源氏物語』に唯一書かれている実在の人名が「宇多帝(うだのみかど)=宇多天皇」です。その息子「桐壺帝」の第二皇子が、「源」の姓を賜って臣下に下ったのが主人公「光源氏」(光は彼の人相を見た高麗人がつけた通称)。導誉は、『源氏物語』を自らの先祖の周辺を描いた物語と受け取っていたはずです。
 源氏は『源氏物語』好き。
 当たり前みたいですが、今まで聞いたことがないので書いています。
 鎌倉時代の北条氏は「平氏(平家)」、室町時代の足利氏は「源氏」、織田信長は「平氏」、豊臣秀吉はどっちでもないので後陽成天皇から「豊臣」姓を与えられ、徳川家康は「源氏」。
 織田信長と『源氏物語』の接点のなさは、そちらの教養の持ち主も多い戦国武将としては珍しいぐらいなんですが、文芸方面に才能がなかったというだけでなく平氏だからなのでしょうか。前回にも名前を出した北村季吟(近江出身の『源氏物語』注釈書作者)は、徳川幕府に召されて初代の御歌学者となります。
                                                                      話は変わりますが、次のような句も『菟玖波集』に収録されています。
  待てばこそ鳴かぬ日もあれ子規(ほととぎす)  導誉法師
 どうです。この発句。どこかで聞いたことあると思ってしまうでしょう。
  鳴かぬなら 殺してしまえ ほととぎす  織田信長
  鳴かぬなら 鳴かしてみせよう ほととぎす  豊臣秀吉
  鳴かぬなら 鳴くまで待とう ほととぎす  徳川家康
 よく知られた信長・秀吉・家康の句は、江戸時代後期に肥前(長崎県)の平戸藩主だった松浦静山が書いた随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に出てくるもので、贈られたホトトギスに添えた紙に書かれていたとされています。もちろん3人の作ではなく、後世の創作で贈り主が考えたか、聞いたかしたものでしょう(上記の一般に知られている歌は、それをさらに現代風の口調になおしてある)。その作者が『菟玖波集』を読んだわけではなく、おそらく偶然似てしまっただけなのでしょうが、これら3人(に対する一般的なイメージ)に比べると(一番気が長いような家康の句でさえ、「…しよう」という意思が感じられます)、導誉は、より平安貴族的な感性の持ち主だったとはいえそうです。

2008年 4月 1日

門外漢の近江文学史 その1

 去年から…ではなく、もう一昨年からか、ずっと、近江出身の連歌師宗祇(そうぎ)の関連書を読む必要ができて読み続けてきました。けっこう面白いので、仕入れたネタを連載してみます。あくまで素人の私が面白いと思ったことで、国文学を学んだ人にとっては、常識なのでしょうが。
  「連歌とはどういう文芸か?」といったことは、説明し始めると長くなるので、省略。
 大きなブームが室町時代に2回あって、それぞれで以下の撰集が編まれました。
・室町時代前期(南北朝時代)…二条良基らの撰で『菟玖波(つくば)集』
・室町時代後期(応仁の乱前後)…宗祇らの撰で『新撰菟玖波集』
 2度目のブームで中心的役割を果たしたのが宗祇。彼が連歌の作り方を述べた『吾妻問答』は以下のように構成されています。
  1 連歌における上古・中古・当世
  2 本歌の取り方
  3 源氏物語の付様
  4 名木・名草を付けること
  5 名所の句について
  6 付けにくい句
    (7~25 略)
  26 執筆のこと
  27 跋
 3番目に「源氏物語の付様」[付様(つけよう)とは、連歌での句の付け方のこと。『源氏物語』の内容をどのように句の中に盛り込めばよいかを述べている]があるのは、素人目には不自然な感じがするでしょ。
 けれど、当時の連歌詠み(プロアマ問わず)にとって、『源氏物語』は読んでいて当然の一般教養とみなされていたのです。物語の中に詠み込まれている和歌だけではなく、ストーリー全体が(だから、ダイジェスト版も出回っていました)。
 これは、鎌倉時代初期の歌人、藤原俊成が、ある歌合で「源氏見ざる歌詠みは遺恨の事なり」と言ったことに始まったらしく、第1次連歌ブームの中心人物、二条良基も、連歌の本歌とりとして用いる際、『万葉集』の詞では「荒くれた」ふうになる、『古今和歌集』などの詞は優美なものだが「弱々しい」、美しくかつ生気のある『源氏物語』の詞が最善だと結論しました。
 そのため、連歌に親しんだ室町時代の守護大名やその家来らは、みな『源氏物語』を読もうとします。すでに彼らにとっても古典であった『源氏物語』は簡単には読めないものだから、宗祇たちによる講義を受けたりもします。
 応仁の乱や戦国時代を経ても、『源氏物語』が読みつがれたのは、連歌ブームのおかげだったのです。
 宗祇の次の世代、安土桃山時代の第一人者、里村紹巴は、本能寺の変直前に明智光秀がおこなった連歌会「愛宕百韻」に参加したことで有名です。近江国野洲郡北村(現野洲市)には、医者を本業としながら里村紹巴の門人だった北村宗龍という連歌の宗匠がいました。その息子も宗円といって連歌の宗匠となります。さらに、その息子にあたるのが北村季吟、『源氏物語』の注釈書『湖月抄』の作者として、源氏物語普及にたいへん大きな役割を果たした国文学者です。
 北村季吟の門人となった時期もあって石山の幻住庵で『源氏物語』を愛読書としつつ、豊富な古典の教養(=自分の俳句の元ネタ)をオモテにださなかったために「ずるい奴」と言われることもあるのが松尾芭蕉。
 俳諧連歌師として創作活動を始め、『源氏物語』のパロディ『好色一代男』で一躍人気作家となったのが、井原西鶴。
 それまでの先人による膨大な『源氏物語』の註釈をコンパクトにまとめた北村季吟の業績には敬意を表しつつ、宗祇も含めた先人の説教臭い註釈をこきおろしたのが、国学者・本居宣長。
 けっこう、日本文学史がたどれるのです。
                                          (つづく)

2007年 10月 22日

プレミア上映『呉清源 極みの棋譜』評

 10月21日(日)午後3時30分から、甲賀市の碧水ホールで第3回甲賀映画祭の上映作品の一つ、『呉清源 極みの棋譜』を観る。
 呉清源(チャン・チェン)の頭の中は、囲碁と真理の探求のことでいっぱいである。すなわち、ほぼつねに「心ここにあらず」。田壮壮監督は、主人公の頭の中を映像化しようとしたりはしない。セリフとしても、最小限の言葉しか彼には与えない。であるから、これから観ようとお考えの方は、スクリーン上の主人公は、7、8割方、「心ここにあらず」の状態にあるということを念頭に置いていただいた方がよい。さもないと、観ている最中に、主人公が何を考えているのか、あれこれ思いめぐらして時間を無駄にする。考えているのは、囲碁と真理の探究についてである。ライバル木谷実との対戦では、鼻血を垂らして倒れ込む木谷と大騒ぎする周囲の者をよそに、一人斜め上前方を見つめ続ける。川辺の石積みを歩けば、バランスを崩して川に落ちずぶぬれになる。道を横切れば、オートバイにはねられる。90歳を越して今もご存命だというのが不思議なぐらいの危なっかしさである。
 日本での先生である瀬越憲作(柄本明)はもっとすさまじい。戦争末期という状況にもかかわらず、「棋士たる者は…」と言って、故郷の広島で本因坊戦をおこなう。原子爆弾投下。爆風が吹き抜けて一面に粉塵が舞う中、微動だにしていない瀬越の人影が浮かび上がり、何事もなかったかのように周囲の者へ対局の継続を告げる。
 俳優チャン・チェン目当ての方のために、一番エロチックなシーンをお教えしておく。縁側で考え込んでいた主人公が、ふいに着物の帯をといたかと思うと廊下をこちらに向かって歩いてくるところ(やがてカメラの視線が右手に持つ帯の方に移るので、これに続く行動が予想できる)。前がはだけて生足が見えるわけでもないのだが、この帯なしの着物姿にはドキドキせずにはいられない。

2007年 10月 14日

『台風太陽 君がいた夏』DVDレンタル中

 第3回甲賀映画祭での『呉清源』プレミア上映(10月21日)まであと1週間。とりあえず、ファミリーマートで前売りチケットは購入してある。この作品、完成自体半ばあきらめていたというのは、前に書いたとおり。甲賀映画祭関連で、「奇跡」がもう一つあったので、そちらの報告。
 10月8日(月・祝)、長浜市内の店でレンタルDVDの棚を物色してたら、チョン・ジェウン監督の『台風太陽』を発見。あるとは思っていなかったものが突然あったので、ことさらうれしい。
 2年前の第1回甲賀映画祭で「もし、あなたなら~6つの視線」が上映され、ゲストとして来日したチョン監督について、当ブログの「甲賀映画祭4日目」で、『(最新作の)「台風太陽」は日本での配給会社が決まらないままだそうだ。』と書いたとおり、映画祭などの場での上映をのぞいて、ロードショウ公開はなく、その後、日本版のDVDも発売されずということで、見ることができなかった。
 のだが、レンタル屋さんの「準新作」の棚に並んでいた。ケース裏面の宣伝コピー曰く「『キツネちゃん、何しているの?』のチョン・ジョンミョン初主演映画 待望のDVDリリース」……なるほど。2005年の作品ながら、ようやく9月21日に日本版DVDが発売(同時レンタル開始)されたばかり。
 ソウルでインラインスケートに打ち込む若者たち、その一夏の青春群像をスタイリッシュな映像感覚で描いた作品。ジャンルとしては「アイドル映画」でありながら、主人公たちの「滑ること」に対するスタンスをめぐる葛藤には、チョン監督らの「映画を撮ること」をめぐるあれこれがオーバーラップされる。甲賀映画祭での発言を知っていると。
 思い出されるのは、同じ2005年製作なので影響関係はないはずの、アメリカのスケートボーダーたちが主人公の『ロード・オブ・ドッグタウン』(キャサリン・ハードウィック監督)。どちらも女性監督。どちらも傑作。
 さて、私のパソコンが見ることができる環境ではない(たぶん)から見ていないが、『台風太陽』には「ネスレ キットカット」ホームページ配信版というのがある。
 (以下、同ホームページより)ネスレ コンフェクショナリー(株)が「颱風太陽」(3部構成)を【2005年】8月22日より「ネスレ キットカット」のホームページ「ブレイクタウン」において配信開始。今年【2005年】6月に韓国で公開された同名の劇場版長編映画の撮影と同時進行で制作、劇場版のストーリーに基づきつつも劇場版にはないシーンも数多く盛り込み、主人公の高校生の心理描写に重きをおいて編集されたオリジナル作品です。
 スケーターたちのリーダー、モギが、不本意ながらコマーシャル撮影でタレントのスタント役を務めることになり、結局、撮影中のテレビカメラにスケート靴で真正面からキックをかますシーンは採用されているのだろうか?

2007年 8月 5日

隠れたキーワードは「家畜」

 私は今の会社の前に勤めていた編集プロダクションで、全農畜産生産部情報サービス課が畜産農家に配布する畜産情報誌を編集していたことがある。私に畜産の知識はまったくなし。私が担当した間で3人いた編集長(全農職員)のうちのお一人は、専門が肉牛で、近江八幡市出身だった。同郷のよしみでよくしていただいたが、湖北出身の私は近江牛についてもほとんど知らなかった。
 そんなわけで、畜産関係の本に自然と目が向くようになっていた時期に、秋篠宮文仁ほか著『欧州家禽図鑑』(小学館)が出た。英国で見ることができる家禽(ニワトリ117種、アヒル・ガチョウ33種)を秋篠宮殿下が撮影なさった写真に同じく執筆なさった解説をつけた図鑑である。仕事の帰りにいつも寄っていた地下鉄近くの書店の新刊の棚から抜いて買ったのは覚えている。上製本・函入、家禽の写真の部分はオールカラー。本棚から久しぶりに出して見てみると、奥付にある発行日は1994年12月12日。一昔以上前の話だ。定価は5200円。
 小学校低学年の頃、子ども向け動物図鑑の中の「家畜」のシリーズを何気なくめくっていて、脚に羽毛のある自分のイメージしていた鶏とずいぶん違う品種の図を発見し、「さっそく父にバフ・コーチンが欲しいと頼んでみた」という出会いのエピソードで始まり、狭い国土の日本にふさわしい肉用鶏開発の夢を書いた卒業文集収録の作文も引用してある「後書」は、かなり強烈で、以後、「秋篠宮殿下=鶏」は私の数少ない皇室知識の一つになる。
 以上は、長い前置き。

 7月28日(土)、琵琶湖博物館ホールで行われた企画展関連シンポジウム「東アジアにおける生き物と人 ―これからの関係を探る―」を、同館発行の情報誌『うみんど』の仕事で聴く機会を得た。開館以来、館内外のさまざまな分野の研究者の参加も受けて取り組んできた総合研究「東アジアの中にある琵琶湖 ―コイ科魚類を展開の軸とした環境史に関する研究―」の、これまでの研究成果を発表するものである。
 プログラム巻頭の「趣旨」には次のように書かれている。
 「基調講演を含めた前半の4つの講演では、縄文時代以降から現在に至るまで、コイ科魚類を人びとがどのように考え、どのような関係を持っていたのか、またコイ科魚類はどのように人の社会的・文化的多様性を利用してきたのかを琵琶湖の具体的な事例でみていく。後半の2つの報告では、琵琶湖をより客観的に眺めるために、中国という同じ東アジアに位置する国の生き物と人との関係性を概観し、琵琶湖のまわりでの生き物と私たちとの関係性と比較してみることにしたい。
 以上の報告を受け、討論では本シンポジウムのテーマである生き物と人のこれからの関係を探るために、その関係性は歴史的にどのようなものだったのか、またどのようにして生まれてきたのかを整理し、これからの私たちの生き物と人との関係性はどのように作っていったらよいのかを、フロアの参加者と共に考えていきたい。」

 会場ホールの最前列中央には、社団法人日本動物園水族館協会総裁の肩書きで秋篠宮殿下がお座りになっていた。
[基調講演]内山純蔵(総合地球環境学研究所)「人間にとっての琵琶湖とは:魚と人の関わりの歴史を中心にして」
[講演]春田直紀(熊本大学)「魚食からみた中世の漁撈―コイが魚の王様だった時代―」
    安室 知(国立歴史民俗博物館)「田んぼから米と魚を」
    牧野厚史(琵琶湖博物館)「米を作るために魚を育てる」
    菅  豊(東京大学)「家畜としての魚―中国江南デルタの伝統的資源循環システム-」
    西谷 大(国立歴史民俗博物館)
     「水田漁撈をする村、しない村―多民族が住む雲南省者米谷―」
 これらに続く討論で、コメントを求められた秋篠宮殿下は、「本日の皆さんのお話されたなかの、隠れたキーワードは『家畜』だと思います」とおっしゃり、「家畜化」の不思議について、目下のご自身の興味関心とからめてかなりの時間お話になった。一研究者としてかなりの関心を示しておられたことがわかる。
 キーワードは「家畜」。さすがです。殿下!
 「生き物と人との関係性」なんていう持って回った言い方はなさりません。
 5つの講演の中でも特に、中国・江南省にみられる農業生産に家畜(牛・豚・鶏と魚)を複雑に組み込んだシステムと、それに比較するとかなり単純な日本の農業生産システムを紹介した菅氏の講演は刺激的だった。
 これに対しては、殿下のお隣に座っていた嘉田由紀子滋賀県知事が「いえ、日本でも江戸時代までは高度な循環型システムをつくる意識が云々」式の予想したとおりの反論をおこなったが、これは当たっていないだろう。
畜産文化の歴史の差を認めるべきだ。一度でも畜産の世界にふれたら、この分野で日本は「後進国」だなぁと思い知らされる(そもそも、家畜飼料のほぼすべてを輸入に頼っていること自体が、そうしたシステムが作り上げられないうちに無理矢理、輸入文化を導入した後進性の証拠なわけで)。
 講演者の一人、琵琶湖博物館の牧野学芸員は、ちょうど『うみんど』の最新号(43号)で、カワウの糞を肥料として利用するために愛知県美浜町上野間地区では、カワウの営巣場所である森林の手入れを共同でおこなっていた事例を紹介しているが、これに「半栽培」という言葉をあてている。中国なら、カワウの肉や羽毛も利用しようとするだろうということである。「もったいない」から。

2007年 2月 3日

主人公2人が琵琶湖を見つめる小説

 1月28日付「読売新聞」の書評欄で、文芸評論家の川村二郎さんが新刊小説のあらすじを紹介している。
 「山上から見えたのは京都ではなく琵琶湖だった」
 「琵琶湖畔の彼の実家を弔問に訪れ、その後、比叡山を振り返りながら湖面を眺めている」 滋賀県が舞台になっているというわけで、読んだ。
 絲山秋子著『エスケイプ/アブセント』(新潮社)
 書店で手に取った段階で、「琵琶湖」という単語のあるページを探した。中編/短編の2篇からなっており、「琵琶湖」が登場するのは両方ともラスト、要するに先の書評は結末まで語っちゃっていた(笑)
わけだが、私は前にも書いたとおり、ネタバレを気にしない(以下もネタバレあり。未読の方は注意)。
 絲山秋子さんの本は、エッセイ集『絲的メイソウ』(講談社)を少し立ち読みして面白かったので、買ったことがある。長いこと新しい書き手のエッセイなどは読んでなかったので、「このやけっぱちな感じは今だなぁ」というふうなことを思った。それで本業の小説の方も読んでみようかと、書店で手に取ったことは何度かあったのだが、ペラッとめくったページに目を落としたかぎりでは、特にピンと来たことがなく、1冊も読んだことがなかった。まぁ、いい機会だということで、定価1260円なり。
 本を読むのが遅い私でもすぐ読み終わった。結論としては、これまでの書店での「ピンと来ない」は正しかったな。エッセイの方が面白い。
 一言でいうと、「絶縁状態にある双子の兄と弟が大津でニアミスする(最接近は京都だし、時差あり)」という話、「エスケイプ」が兄のパート、「アブセント」が弟のパート。2人が見つめる琵琶湖の湖面は鏡なんでしょうか。
 文章のスカスカ感は、例えば「エスケイプ」の中にある「窓からは木しか見えないけど、おれ、木の名前なんて一個もしらねーな」という兄の独白が示す、一人称小説ゆえの描写の少なさ(知っていることしか書けない)が原因というわけでもなさそうだし。もしや、どこまで内容的にスカスカでも文芸誌への掲載が許されるか検証してるのか?、と勘ぐったぐらい。いや、エッセイからすると、絲山さんってそういう性格だと思えるのである。

2007年 1月 28日

あなどるなかれ、琵琶湖の汽船

 例えば、一番手ごろな県の通史である『県史25 滋賀県の歴史』(山川出版社)には次の「 」内のように記されている。

 明治2(1869)年3月、「日本で最初湖上汽船一番丸が進水したのである」。

 明治16(1883)年9月には、大津―長浜間を結ぶ「鉄道連絡船として第一太湖丸(516トン)・第二太湖丸(498トン)を就航させている。わが国最初湖上鋼鉄船であった」。 両方とも威勢よく「日本初」とうたっておいて、すぐさま「湖上」と但し書きが入るもんだから、喜んでいいんだか何なんだか。「……まぁ、ローカルな話題なのだ」と了解せざるをえない。

 なので、中岡哲郎著『日本近代技術の形成 ―〈伝統〉と〈近代〉のダイナミクス』(朝日新聞社)の第七章「近代造船業の形成」は、まさに目から鱗。 曰く「汽船は川で誕生しました。当時の蒸気機関は大型で熱効率が悪く、船にのせても静かな川や湖で短距離を走るのがやっとだったのです」。そう初期の汽船は「淡水向き」なのだ。琵琶湖につながりそうでしょ。以下、長くなるけどつきあっていただきたい。

 外洋(海上)を走る蒸気船は、帆船に補助動力として蒸気機関をのせる形で始まる。アメリカのペリー艦隊も蒸気機関付き汽船であって、航海中に蒸気機関を使うのはわずか数日、途中に燃料である石炭の補給基地がなかった太平洋は渡れず、大西洋側から日本へやってきたわけである。1868年の時点でも、イギリス・フランス・ドイツの外洋船の大部分は帆船であり、船の積み荷のほとんどは石炭で、ごくわずかに人間や貨物をのせられるだけの汽船では、帆船には運送コストの面で太刀打ちできなかった。採算を度外視できる軍事輸送と、補助金付きの郵便船事業だけが何とか汽船利用を維持した。(以後、欧米の先進地では効率的な蒸気機関やディーゼル機関の改良が進んでいくが、後発国日本がすぐさまそれに飛びつけるわけはない。)

 明治3(1870)年1月、新政府の主導で始まった東京―大阪間の定期航路運航も、経営不振で翌年2月には多額の借金を残したまま解散。その翌年、半官半民の日本国郵便蒸気船会社が財政援助を受けて開業するが、3年後には解散。まだまだ外洋では、運送コスト面で江戸時代以来の菱垣・樽回船の方が有利だったのである。 一方、波がおだやかな瀬戸内海では輸送距離の短い小汽船海運が民間によって発展する。琵琶湖の一番丸より11カ月早い慶応4(1868)年4月、神戸―大阪間の定期汽船航路が開業(いや一番丸、けっこう早いよ)。1887年に姫路、1901年に下関へ鉄道が延びるまで民間海運業各社の発展が続く。 そして、同様の発展が起こったのが琵琶湖だった。一番丸就航から5年後の明治8年には複数の民間業者が林立し汽船は15隻に増える。船は徐々に大型化して50トン前後、最大は鉄道局が就航させた長浜丸114トンにまでなったが、大津―長浜間の鉄道連絡船には、鋼鉄船で約500トンという当時としてはケタ外れの汽船が2隻も必要とされた。そう、「わが国最初の湖上鋼鉄船」(名は「第一太湖丸」と「第二太湖丸」という)は、海上を含めても当時としてはすごい船だったのである。

 受注したのはE.C.キルビーというイングランド出身の人物が所有する神戸鉄工所。製造が着手された明治14年の段階で、このような船を造れる造船所は神戸鉄工所しかなかったから。
 以下は余談ながら、技術者や経営者の個人史的な部分も丁寧にすくいとっていることが、本書の面白さの一つでもあるので。

 キルビー本人はまったく造船技術は持たず、横浜と神戸に最初の食肉処理場をつくった人物として知られる実業家で、他の来日外国人が外国人技術者とともに経営していた造船所を買い取ったものだった。
 キルビーは、第一・第二太湖丸の成功をきっかけに、海軍から軍艦を発注される。キルビー側からの働きかけもあってのものだったが、2隻目の軍艦建造中に彼は多額の負債を残して自殺。海軍は神戸鉄工所を接収し、民間最高の造船設備と職工(外国人技術者は解雇)を手に入れた。
 この過程を著者は、「後発国における技術跳躍の困難のモデル」とみている。当時の日本の技術水準にあって大型鋼鉄船の建造には多額の資本投下が必要で、その消却のために以後も高価な製品の継続受注と設備のフル稼働を維持しなければならない。つまり、綱渡り的な経営をしいられつづけたなか、キルビーは不幸な最後を遂げてしまったわけである。

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