昔ここは内湖やったんよ

滋賀県立大学環境ブックレット 6
昔ここは内湖やったんよ 記憶に残る小中の湖と人々の営み

松尾 さかえ, 井手 慎司
A5判 60ページ 並製
ISBN978-4-88325-471-2 C1340
奥付の初版発行年月:2012年03月
書店発売日:2012年03月06日
在庫あり
800円+税

担当から一言

環境や人間にさまざまな恩恵を与える存在として再評価されるようになってきた琵琶湖の内湖(ないこ、うちうみ)。聞き取り調査によって干拓前の「小中の湖」の姿が甦る。

内容紹介

琵琶湖から独立した付属湖である内湖の一つ「小中の湖」。第二次世界大戦による食糧事情の悪化にともなって干拓され、現在は存在しない。干拓される前の小中の湖とは、どのような湖だったのか。どのような鳥や魚が棲み、また、周辺で暮らしていた人々は小中の湖とどのように関わっていたのか。2005年から2007年にわたって、干拓前の小中の湖のことについて当時の様子を知っている周辺集落の古老に聴き取り調査をおこない、その結果を基にかつての小中の湖の姿を浮かび上がらせる。

目次

1 子どもの時はなぁ、湖やったんよ
   舞台はかつての湖「小中の湖」
   小中の湖は西の湖の隣にあった
   「小中の湖」と呼ばれるようになった経緯
   おじいちゃんとおばあちゃんから聞いた話を基に、かつての様子を復元していく
 
2 干拓前の小中の湖はこんな湖だった
   小中の湖周辺の地名
   小中の湖はヨシに囲まれていた
   人々の記憶に残っている鳥・貝・魚
   小中の湖の湖底の様子
   水深は深くても2m
 
3 小中の湖でおこなわれていた生業
   ヨシ産業
   漁業の一年
 
4 人々の暮らしと内湖
  ~人々による湖底の水草(藻)や泥の伝統的な活用方法と、子どもたちの遊び~
   湖底の水草(藻)を採る「モラトリ」
   代用燃料となった「スクモ」
   湖は子どもたちの遊び場
 
5 小中の湖の干拓
   干拓工事の着工・竣工の年は不確定
   人々の記憶に残る干拓の様子
   琵琶湖周辺の内湖が400haにまで減少
 
6 いま、内湖の存在そのものが再評価されている
   内湖の機能
   小中の湖が果たしていた機能
   小中の湖の様子は他の内湖とも共通している

前書きなど

わしらが子どものときはな、学校から帰ってきたら田舟で湖に出てな」
「子どもたちだけで?」
「ほうよ、ほうよ。悪さしてな。田舟をひっくり返して、舟底の上にみんなで乗って、そこから湖に飛び込んだもんや」
「他にはどん遊びがありましたか?」
「弁天島には竿があったんや。島まで泳いで行っては、竿から飛び込んでたんや。竿では1年生から6年生までの子どもたちが遊んでた。高学年の人は平気で飛び込むんやけど、低学年の者は怖くてたまらんかった。竿の上で、どうしようかとぐずぐずしていると、後ろからは早よ行けと押してくるんや。すると、もう仕方ないから落ちる。飛ぶんやなしに、落とされる。竿から飛び込めな、男じゃないって言われたんや」
 
 楽しそうに思い出を話してくださるのは、80歳のおじいちゃん。そして、質問者は私、松尾です。これは2005年の2月に実施した、聴き取り調査の時の内容の一部です。どこの話をしているのか、って? 思い出話の舞台となっているのは、かつて湖だった「小中の湖」です。
 小中の湖は琵琶湖から独立した付属湖である内湖の一つでした。しかし、第二次世界大戦による食糧事情の悪化にともなって干拓されてしまい、現在は存在しません。

著者プロフィール

松尾 さかえ(マツオ サカエ)

1984年大阪府生まれ。滋賀県育ち。滋賀県立守山北高等学校出身。2006年、滋賀県立大学環境科学部環境計画学科環境社会計画専攻卒業。2008年、同大学大学院環境科学研究科環境計画学専攻博士前期課程修了。大学4回生のときから3年間をかけて干拓前の「小中の湖」が果たしていた機能について調査、その結果を卒業論文と修士論文にまとめるとともに、2編の査読付き論文として学会でも発表。

井手 慎司(イデ シンジ)

滋賀県立大学環境科学部環境政策・計画学科教授。1958年愛媛県生まれ。1988年、米国ライス大学博士課程修了。1987年から(株)明電舎総合研究所基礎第二部主任、1991年から1994年まで(財)国際湖沼環境委員会プログラム調整官を経たのち、1995年から2006年まで滋賀県立大学助教授を務め、2007年より現職。同時にNPO法人子どもと川とまちのフォーラムの理事長を務める。専門分野は「水環境管理」。

   

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