邪馬台国近江説

淡海文庫 45
邪馬台国近江説 纒向遺跡「箸墓=卑弥呼の墓」説への疑問

後藤 聡一
B6判 223ページ 並製
ISBN978-4-88325-164-3 C0021
奥付の初版発行年月:2010年02月
書店発売日:2010年02月12日
在庫僅少
1200円+税

担当から一言

卑弥呼の都は琵琶湖畔か? 人気サイト「邪馬台発見日記」を主宰する在京の古代史研究家が、纒向遺跡報道で賑わう「畿内説」、根強い支持者を持つ「九州説」を退け、滋賀県「伊勢遺跡」こそが邪馬台国であると「近江説」を繰り広げる。古代史最大の謎・邪馬台国論争に一石を投じる書。滋賀県文化財保護協会編『びわこ水中考古学の世界』とともに、今年は滋賀発・古代ロマンに注目!

内容紹介

邪馬台国は近江にあった―。現役編集者として活躍する在京の古代史研究家が、滋賀県守山市と栗東市にまたがる国内最大級の「伊勢遺跡」に注目。「卑弥呼の墓」報道で賑わう奈良県桜井市「纒向遺跡」など各地の遺跡と比較検討、「魏志倭人伝」「古事記」「日本書紀」をはじめとするさまざまな文献・資料・データにあたり、ダイナミックに持論を展開する。2003年8月開設の人気サイト「邪馬台国発見日記」の内容を大幅に加筆・推敲し、豊富な図版を交えて世に問う知的興奮の書、2010年(平成22)2月11日発行。当日は神武天皇即位紀元(皇紀)2670年の建国記念日(旧紀元節)にあたる。
○邪馬台国発見日記
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/3672/
http://www.geocities.jp/yamataidiary/

目次

はじめに

【序 章】「ヤマト=邪馬台国」への疑問
二大説が有力/繰り上がる纒向遺跡の年代/明らかな断絶の痕跡/急増する纒向の人口/一つの体制の終わり/卑弥呼が正史に載らない理由は/神武天皇は実在したか/もう一人の皇祖神/タカミムスビは支配者の神/伊勢神宮の存在の軽さ/「大本営発表」に飛びつくマスコミ/纒向遺跡の実年代は四世紀?

【第一章】伊勢遺跡という存在
膨大なスケールの伊勢遺跡/卑弥呼擁立の中心的役割を担う/大型建物が集中/特殊な区画の意味するもの/東西交流の痕跡も/続々と発見される守山の遺跡群/国内最古の方形区画/東西の結節点/玉造りの拠点も発見/野洲川流域は遺跡銀座

【第二章】古代史における近江の位置づけ
豊かな生産力を誇る「湖国」/物部氏の濃密な痕跡/軍事・祭祀に力を誇った物部氏/各地に伝わるヒボコ伝承/「神功皇后=卑弥呼」説/近江と鉄器の関係/渡来系集団の母体/倭国大乱で何が起きたか/急浮上する日本海ルート/日本海側に強大な勢力が/墳墓の形態にも影響を与えた山陰地方/研究者たちの危惧

【第三章】伊勢神宮と伊勢遺跡の驚くべき符合
単なる偶然ではない名前の一致/他にもある伊勢神宮との類似点/気になる古老の口伝/本格的な祭祀は七世紀以降/出雲神話と似た伝承/伊勢は四国にあった/三重県の古名は嶋津国か/韓国にもあった「イセ」/近江に濃密な渡来人の痕跡

【第四章】伊勢遺跡こそが邪馬台国
伊勢遺跡を超えるものはない/下長遺跡がカギを握る/卑弥呼は大和に行ったか死の穢れを恐れた古代人/町内会か会社組織か/邪馬台国は出身地の名前か/イザナギ・イザナミの意味/皇居の盛行期は江戸時代か/中心部は神域中の神域

【第五章】邪馬台国は滅ぼされた
邪馬台国とヤマトの関係/二人のハツクニシラス/歴史は勝者のもの/神武東征の真相/ニギハヤヒはなぜ裏切ったか/神武天皇と卑弥呼の関係/持統天皇のしたたかな策略

【雑 考】
菊池山哉/銅鐸考/ナガスネヒコはどこに眠っているか/「魏志倭人伝」私考

【フィールドワーク 平成14~21年】
滋賀県守山市篇/奈良県桜井市篇

前書きなど

私が滋賀県守山市と栗東市にまたがる伊勢遺跡の存在を知ったのは、平成十三年十二月のことである。朝起きてパソコンを立ち上げるとすぐ、発掘記事が目に飛び込んできた。そのとき私はこの遺跡になぜか惹かれるものを感じ、その後も折をみて文献や過去の記事を漁るようになった。

ただし報道自体はほんの一瞬新聞紙上を賑わせただけで、すぐに忘れ去られたと記憶している。そのためか伊勢遺跡の名前は、考古学に関心のある人だけでなく、地元・滋賀県の人びとにもあまり知られていないように映る。

邪馬台国の所在地論争の根底にあるのは、われわれ日本人がどこから来たのか、われわれは何者なのか、という民族のルーツに対する本能といってもよい渇望である。だからこそ、今なお多くの人を惹きつけてやまない「古代史最大の謎」になっている。

私は考古学や歴史学を専門的に学んだことはない、いわばまったくの素人である。誤解をおそれずに言えば、私の場合「はじめに物証ありき」でスタートした。まず伊勢遺跡の物的証拠である出土品の多様性、特殊性に注目し、他の遺跡との比較検討を行った結果、卑弥呼と同時代の遺跡で、これを超えるものはないとの結論に達した。

(中略)

なにはともあれ、ご一読いただき、伊勢遺跡に興味を示していただければこれに勝る喜びはない。

著者プロフィール

後藤 聡一(ゴトウ ソウイチ)

1957年、東京都生まれ。山形県出身。邪馬台国研究家・フリー編集者。早稲田大学卒業後、フリーライター・漫画原作者として各誌に寄稿。編集者として分冊シリーズ「週刊 日本百名山」(朝日新聞社)、「週刊 仏教を歩く」(同)、「週刊 かがくる」(同)、「週刊 池波正太郎の世界」(朝日新聞出版)などの製作に携わる。

   

2件のコメント


  1. 守山市伊勢遺跡はその出土品より、卑弥呼の時代より少し古く、私は、この地は、北陸以東の出雲国連合の政を行う中心地であったと考えるのがもっともうがった考えであろうと思っております。伊勢の地名は倭姫が「イッセ」を祭る地を探していた時、丁度出雲王国の力が弱まったころの、この地の人々が受け入れたが、何かの理由で他に移らざる得なかったのではないかと思います。残された鏡の割れ方は決別の感じが見られます。卑弥呼であれば手あぶりのような出土した香炉は使わなかったでしょう。この私説を証明できるものはありませんが、あなたの霊感による卑弥呼説は問題ありです。こちらの方面からも研究されたい。梅原猛氏のように、長年出雲国を否定して来た人が現在恥じ入っているが、そのようにならないことを願うばかりである。

    コメント by 沖中 麻夫 — 2012年3月17日 @ 7:58 PM


  2. 臺与の投馬国(とまや←逆さまから読む倒語)
    ⇒【邪馬臺(やまと)国・トカラ列島の宝島(会稽東冶の東)】

    見渡せば花【君臨者(太上天皇)】も紅葉【統治者(天皇)】もなかりけり
    浦の苫屋【投馬国(とまや ←逆さまから読む倒語)】の
    秋【蘇我大王家】の夕暮【没落】 
      崩壊寸前の平安時代の日本国・大和朝廷の、藤原定家

    (↓わが君は)
    君が代は千代に八千代に細石の巌となりて苔の結すまで・国歌「君が代」
     国歌・「君が代」が謡われた観音堂大鍾乳洞

    コメント by 銀河 秋彩 — 2014年6月10日 @ 8:13 PM

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