新撰 淡海木間攫

其の十七 西河原森ノ内二号木簡古代の湖上交通を示す文書

木簡  西河原森ノ内遺跡は、野洲郡中主町西河原に所在する遺跡で、大きく三つの遺構面がある。このうち下層では七世紀後半から八世紀前半の掘立柱建物群が検出され、規模も大きく柱の掘り方も一辺一・五メートルのものも見られる。そしてそこからは、多数の木簡や墨書土器、さらに木製の矛・斉串・人形・馬形・陽物・舟形・琴柱・鞍など祭りに関る遺物が出土し、普通の村というより地方の役所のような施設である可能性が高い。この遺跡では合計四点の木簡が出土しており、いずれも注目すべき内容を持っているが、このうち森ノ内二号木簡は、衣知評という記載から七世紀後半のものとみられる文書木簡であるが、その内容は、近江国庁か中央政府の官人とみられる「椋直」(内蔵直)なるものが西河原森ノ内遺跡(馬道郷)に居住する卜部(某)に対し、自ら取りに行ったところ、運搬に使う馬が得られなかったので運ぶことができなかった。そこでおまえが代わりに舟人を率いて行ってくれ、その稲の在る所は衣知評平留五十戸の旦波博士の家であるとするもので、琵琶湖の水運を利用した物資の運搬がなされていたことを示している。他の木簡や墨書土器から、西河原森ノ内遺跡には志賀漢人と総称される倭漢氏配下の渡来氏族の顕著な居住が知られ、しかも旦波博士も志賀漢人一族の大友丹波史であり、湖上水運を利用した物資の運搬に、倭漢氏の一族である内蔵直氏と、その配下である漢人村主の志賀漢人一族の関与が知られることは注目される。

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