新撰 淡海木間攫

其の十九 戦後第1号のおもちゃのジープ

ジープ

 第二次世界大戦後の食料難の中、子ども達の心を浮き立たせたのは、ブリキで作られたジープのおもちゃでした。昭和20年12月、敗戦の4か月後に京都のデパートで売り出されたこのおもちゃは、発売当初1個10円という価格で売り出されましたが、爆発的な売れ行きをみせました。一説には、その年の暮れだけで10万個が売れるほどであったといいます。このおもちゃのジープを製造したのは、戦時中に東京から疎開で大津にやってきていたおもちゃ製造家の小菅松蔵さんという人物でした。この時作られたジープのおもちゃは、戦後第1号のブリキのおもちゃだとされており、このジープのヒットから他の玩具製造家も次々にジープを製作し、これをきっかけに、日本のブリキのおもちゃ産業が復興を見せました。まさに、戦後のブリキのおもちゃの歴史は大津から始まったといえます。

 通称「小菅のジープ」は、『日本金属玩具史』を始め、その他のおもちゃの歴史に関する本には、小菅さんのジープに関する記述は数多く見られるものの、実物の特定が行なわれていませんでした。そこで、本の記述や当時の関係者の話を手がかりに小菅のジープの実物探しを始めました。幸い、展覧会でお世話になっていた北原照久氏(ブリキのおもちゃ博物館館長)が、箱に小菅の名前の入ったゼンマイ動力のジープ(第1号から派生したバリエーションの1つ)をお持ちだったので、北原氏のジープと異なる点である、・ゴム動力であったこと、・ジープ本体のみで人形や他の装飾が無いこと、を手がかりに広く呼びかけました。ジープには会社名などもなく、探し出すのは大変だろうと思われましたが、呼びかけの結果、第1号型のジープ3台と、その後小菅さんが製造したバリエーション3台の計6台もの小菅のジープが見つかったのです。また、その中には、大津の小菅さんの工場でお土産に貰った物だというものもありました。

 第1号型のジープは、当初はゼンマイを調達できなかったためかゴム動力で、大きさも空き缶を再利用したため、長さ10cm程度の小さな物でした。また、売り出された当初は箱もなく、戦前のおもちゃの技術水準から比べると簡素な製品でした。しかし、ほとんどの工程が金型を利用したプレス作業で精巧に作られており、簡素なながらも実物そっくりの出来栄えで、当時の子ども達の喜んだ姿が目に浮かぶようなものでした。

 小菅さんは、昭和22年ごろまで大津でジープを製造し、その後再び東京に戻って昭和46年(1971)に73歳で死去するまでの間、自動車の玩具を主に製作し、「車の小菅」と称されました。特に戦後の東京時代に製造されたキャデラックのおもちゃは、その精巧な作りから自動車おもちゃの最高峰といわれています。小菅さんは、その生涯のほとんどを東京で過ごしましたが、昭和20年から昭和22年頃までの間に大津時代に、ブリキのおもちゃの歴史の中にその名を刻む、戦後第1号のブリキのおもちゃ「小菅のジープ」を作ったのです。 なお、この小菅のジープは、9月3日まで開催の「20世紀のおもちゃ―北原照久コレクション―」の中で展示しています。

大津市歴史博物館 学芸員 木津 勝

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