新撰 淡海木間攫

其の十六 堅田衆との関係を示す書状集

書状集

 尾張国・美濃国を手に入れた織田信長が近江国に進攻してきたとき、押さえておかなければならなかった勢力の一つに「堅田衆」がありました。堅田は、現在も琵琶湖大橋が掛かる湖の最狭部に位置し、対岸の守山までの間が手に取るように見渡せる立地条件を持っています。ここに住む人々は、平安時代以来、京都の鴨社に神饌を献納する供祭人を務め、職務遂行の必要もあって、琵琶湖全域を通行し漁業を行う特権を主張してきました。中世に入るとこれに、堅田に設けられた関所で関銭をとる権利や、海賊をかけない保障料を徴収する「上乗権」等を加え、湖上交通において確固たる地位を築き上げます。

 戦国時代、この堅田衆の指導者層として現れるのが「堅田諸侍」でした。居初氏を始めとした古代以来の供祭人の系譜を引く一族だけでなく、猪飼氏や南氏等の新興勢力も、その構成員をなしていたようです。

 このうちの南氏に宛てられた書状六通が、当館所蔵の「近江堅田関係書状集」です。写真のものは永原重虎書状で、近江国南半を支配した六角氏の重臣である永原重虎(野洲郡永原の在地領主)が、南氏から六角氏へ納めるべき永禄八年(一五六五)分の銭を早く進藤氏(同じく六角重臣で守山市木浜・小浜辺りの在地領主)に渡すよう催促したものです。南氏が六角氏に、定期的に銭を納めていたことが分かりますし、また他の書状からは、南氏と六角氏重臣達との個人的な贈答関係のあったことが伺えます。信長のみならず、六角氏も有力な湖上勢力である堅田と何らかの関係を持っていたことは想像に難くありませんが、具体的にそれを示す資料はあまり残されていません。この書状集は、わずかではありますが、両者の関係を垣間見る貴重な資料と言えるでしょう。

安土城考古博物館 学芸課学芸員 木 叙子

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